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ロシア音楽 ロシアおんがく

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ロシア音楽
ロシアおんがく

10世紀末頃からギリシア正教教会音楽と結びついて,ロシア人の音楽好きの国民性がはぐくまれ,独自の民謡が多数生れた。芸術音楽は,18世紀のピョートル1世時代にヨーロッパから伝わり,最初はヨーロッパ音楽への心酔と模倣に終ったが,19世紀に入って M.グリンカが民族性と芸術性を結合させ「五人組」を中核とする世界初の国民楽派を形成。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ロシア音楽
ろしあおんがく

ここではロシア音楽の歴史と旧ソ連地域の諸民族の音楽を解説する。ロシア音楽の歴史は、近代以前、近代、ソビエト連邦時代、ソ連崩壊後の四つの時代に分ける。1991年にソ連は崩壊したが、その後のロシアの音楽状況は全般的に低調で目だった動きはないといえよう。1991年以降に独立した地域もあるが、旧ソ連を構成していた諸民族の音楽は他項目では触れられていないので、ここで解説する。[横原千史]

歴史

音楽史上での三つの大きな転換点、すなわち、18世紀初頭のピョートル1世の欧化政策、1917年の社会主義革命、および1991年のソ連崩壊を境界として、上述のように近代以前、近代、ソビエト連邦時代、ソ連崩壊後の4期に分けて考察する。[横原千史]
近代以前
キリスト教以前からの、農耕の暦に従った儀礼の歌や、婚礼・葬式の歌が、民謡の形で今日まで伝承されている。
 10世紀末、ギリシア正教が公認されると、公式の音楽は聖歌に限定され、テキスト、旋律、旋法体系、記譜法などがほとんどそのままビザンティンから引き継がれた。おもなものとして、歌詞の音節に即した「ズナメニ聖歌」と装飾音の多い「コンダカルニ聖歌」があり、楽譜はそれぞれクリウキとよばれるネウマ譜(記号を使った楽譜)の手写本の形で数多く残されている。13世紀の異民族支配の時代には教会音楽活動は停滞し、楽譜もなくなるが、聖歌自体はしだいに地方色豊かなロシア風のものに変容してゆく。
 15世紀末からふたたび音楽活動が活発になるとともに、手写本も多くなり、I・A・シャイドロフ(17世紀前半)によって音高を固定した記譜の試みもなされる。音楽教育も盛んになり、皇帝合唱団を頂点として、初等、高等音楽学校が設置され、ロシア正教聖歌の最盛期を迎えた。17世紀初頭、ウクライナ統合とともに、それまでのヘテロフォニー(基本的に同一な旋律を同時に奏する際、装飾などによって生じる異音性)からパルテスニとよばれる三和音中心の多声音楽へと技法が変化してゆき、理論的にも総主教ニコンによるギリシア儀式の復興を経て、A・メゼネツ(17世紀後半)の記譜法改良、N・ディレツキーNikolai Diletskii(1630ころ―1680ころ)の五線譜楽典へと変遷する。これらはロシア民族の芸術音楽ばかりか、諸民族の音楽にも多大な影響を与えた。[横原千史]
近代
1708年ピョートル1世がペテルブルグに遷都し、欧化政策を始めるとともに、音楽生活の様相も一変する。宮廷劇場が建設され、B・ガルッピB. Galuppi(1706―1785)からP・ロカテッリに至る一連のイタリア人音楽家が招かれ、音楽的鎖国状態は徐々に解放されてゆく。イタリア人宮廷楽長F・アラヤFrancesco Araja(1709―1770ころ)のロシア語オペラを契機として、E・I・フォーミンEvstigney Ipatovich Fomin(1761―1800)、A・N・ティトフAlexey Nikolayevich Titov(1769―1827)らロシア人もロシア・オペラを書くようになるが、劇場のおもな演目は依然としてイタリアのオペラ・ブッファとフランスのオペラ・コミックであった。
 19世紀に入り、ロシア独自の国民オペラの端緒となったのがグリンカの『皇帝に捧(ささ)げた命』(1836初演)であり、ダルゴムイシスキーの『石の客』(未完、キュイとリムスキー・コルサコフにより完成、1872初演)である。これらはロシアの民俗音楽やロシア語のもつ固有の性質を西欧のオペラ形式のなかに当てはめ、独自の方法で混交したものであった。ここから国民楽派が始まる。それはバラキレフを指導者とするキュイ、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、ボロディンの「五人組」に受け継がれ、ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』(1873)、『ホバンシチーナ』(1886)、ボロディンの『イーゴリ公』(1890)、リムスキー・コルサコフの『サトコ』(1898)、『金鶏』(1909)へと発展する。
 それまで全盛を誇っていた聖歌の分野では、D・S・ボルトニャンスキーDmitry Stepanovich Bortnyansky(1751―1825)らがイタリア様式の聖歌を導入するが、オペラに押されてしだいに低迷してゆく。19世紀中ごろにはドイツのコラールが加わり混合様式の聖歌が生まれる。しかし、これも民族主義的意識の高まりとともに廃れてゆき、古いロシア聖歌を復興し尊重する運動が始まる。
 器楽の分野でも18世紀にはイタリア、ドイツの影響のもとに室内楽が細々と作曲される程度であり、国民的主題による大規模な作品はグリンカの交響詩『カマリンスカヤ』(1848)が最初である。これにバラキレフの交響詩『ロシア』(1864)、『タマーラ』(1882)が続く。V・V・スタソフVladimir Vasilievich Stasov(1824―1906)、A・N・セロフAlexander Nikolayevich Serov(1820―1871)が理論的に強化した「五人組」の急進的な民族主義に対し、代表的ピアニストで、それぞれペテルブルグとモスクワに音楽院を創設したアントンとニコライNikolay(1835―1881)のルビンシュテイン兄弟は、より西欧的でむしろ中立的な立場をとった。両者の橋渡しとなったのがチャイコフスキーで、民族的なオペラや交響詩でも、西欧伝統に基づく交響曲や協奏曲でも数多くの名作を残している。とくにオペラ『エウゲーニイ・オネーギン』、第4~第6番の交響曲、ピアノ協奏曲第1番は傑作として名高い。
 19世紀後半にバレエがロシアでは独自の発展をみた。それまでオペラに付随していた舞踊がバレエという自立したジャンルに結晶してゆく。決定的な役割を担ったのが振付師プチパであり、その協力のもとにチャイコフスキーのバレエ『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』『白鳥の湖』が古典バレエとしての地位を確立する。これは逆に西欧に多大な影響を与え、20世紀初頭にはディアギレフのロシア・バレエ団が古典のみならず前衛バレエをも西欧に広めた。とりわけストラビンスキー作曲『春の祭典』のパリ初演(1913)は一大事件であった。
 同世代の作曲家として、モスクワ音楽院のチャイコフスキー門下には神秘主義者スクリャービン、ロマン主義的なラフマニノフ、S・I・タネーエフSergei Ivanovich Taneyev(1856―1915)、V・I・レビコフVladimir Ivanovich Rebikov(1866―1920)ら、ペテルブルグ音楽院のリムスキー・コルサコフ門下には「音の細密画家」と称されるA・K・リャードフ、優れた教育者でもあったグラズーノフをはじめ、V・S・カリニコフ(カリンニコフ)Vasily Sergeyevich Kalinnikov(1866―1901)、ストラビンスキーらがいる。このほかバラキレフの無料音楽学校、音楽学者V・M・ベリャーエフ(1888―1968)とその仲間たちが芸術家を後援した。[横原千史]
ソビエト連邦時代
1917年の社会主義革命は音楽のうえにも重大な変革をもたらした。革命直後は音楽家に自由が許され、さまざまな音楽が並存する。R・M・グリエール、A・M・ツィトミルスキー(1881―1937)、音楽学者でもあったB・V・アサフィエフBoris Vladimirovich Asafyev(1884―1949)、S・ファインベルク(1890―1962)、重要な教育者でもあるN・Y・ミャスコフスキーはロマン主義の伝統を受け継ぐ。1930年代にはプロコフィエフが帰国して活躍する。民族的な要素を多く取り入れた作曲家としては、東方的なイッポリトフ・イワーノフ、S・N・ワシレンコSergei Nikiforovich Vasilenko(1872―1956)、ユダヤ的なM・F・グネシンMikhail Fabianovich Gnessin(1883―1957)が代表的である。こうした伝統的音楽に対して、現代音楽協会(ASM)を中心に多くの前衛音楽の実験が行われた。それはN・A・ロスラベツNikolay Andreyevich Roslavets(1881―1944)、のちに亡命したA・V・ルリエArthur Vincent Louri(1892―1966)およびL・L・ザバネーエフLeonid Leonidovich Savaneyev(1881―1968)らによって推進された。
 この自由で活発な活動も1932年のスターリンの芸術批判で打ち切られ、音楽家の活動はしだいに政治的抑圧を受けるようになる。1936年にはショスタコビチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が形式主義的であると厳しく批判され、1948年にはジダーノフ批判によって創作活動は全面的制約を受けることになる。これらの批判の主眼点は「形式主義」を排除した「社会主義リアリズム」にあり、その根底には「音楽は社会に奉仕するべきであり、人民にも容易に理解できる内容と形式をもつべきである」という考え方がある。しかしこの批判はあまりに抽象的であり、また一方であまりに政治的であったため、多くの音楽家の活動を萎縮(いしゅく)させることになった。その結果、確かに国民主義的な傾向は強められたが、革命賛歌のような画一的内容をもち、技巧的にも古く陳腐な作品が数多く生まれた。そのなかにあって、第二世代のハチャトゥリアン、カバレフスキー、V・Y・シェバーリンVissarion Yakovlevich Shebalin(1902―1963)はその個性的作風によって世界的名声をかちえた。とりわけショスタコビチは質量ともに現代最高の作曲家の一人である。彼が当時流行した民族主義的オペラではなく、より抽象的なジャンルである交響曲、弦楽四重奏曲の創作に没頭したことは、この芸術管理体制のもとでは象徴的な現象といえよう。このほか同世代には、前衛から民族音楽へと作風を変化させたA・V・モソロフAleksandr Vasil'evich Mosolov(1900―1973)、音楽学者V・V・プロトポポフVladimir Vasil'evich Protopopov(1908―2004)がいる。
 1953年のスターリンの死後は、過度の抑圧はなくなるが、基本方針は変わらず、より自由な時期と規制の厳しい時期が交互にやってくる。創作の傾向は西欧の前衛音楽の手法を取り入れながら、しかも独自なものを目ざす方向にしだいに変わってゆく。この世代でもっとも人気をかちえたのはR・K・シチェドリンRodion Konstantinovich Shchedrin(1932― )であり、ほかに偶然性音楽のE・V・デニソフEdison Vasil'yevich Denisov(1929―1996)、微分音のS・M・スロニムスキーSergei Mikhailovich Slonimsky(1932― )、電子音楽のA・シュニトケAl'fred Shnitke(1934―1998)、叙情的なV・V・シルベストロフValentyn Vasylyovych Sylvestrov(1937― )、独自な交響曲を書くB・I・ティシチェンコBoris Ivanovich Tishchenko(1939―2010)が注目に価する。しかし残念ながら、当時、ソ連以外ではこれらの現代作品をほとんど聴くことができなかった。演奏活動は非常に盛んで、多くの名演奏家を輩出してきた。これは優れた教育のたまものであろう。また1958年以来4年に1回のチャイコフスキー国際コンクールは、新人演奏家の登竜門として世界的権威を誇っている。[横原千史]
ソ連崩壊後
1991年のソ連崩壊以降は、共産主義体制の下で抑圧されていた各共和国の民族意識が高まり、それぞれ独自の音楽文化を主張する傾向が強まった。音楽活動はこれまでの国家的経済基盤の崩壊とともに、全般的に低調にならざるをえなくなった。一時優秀な音楽家の国外流出が問題になるなど、さまざまな混乱が生じたが、社会経済の安定と並行して、旧体制下の無能な音楽家は淘汰(とうた)され、清新な若い世代の音楽家が台頭し、また彼らの活動の場が自由に世界に開かれることになった。旧体制下で抑圧されていた作曲家たちも、G・クレーメルなどの、演奏家の精力的な紹介によって世界的に知られるようになる。そのなかでは前出のドイツ系のA・シュニトケ、女流のS・グバイドゥーリナSofiya Asgatovna Gubaydulina(1931― )、独立した国では、エストニアのA・ペールトArbo Prt(1935― )、ジョージア(グルジア)のG・カンチェリGiya Kancheli(1935― )がとくに有名である。音楽学研究の上でもこれまでの制約が緩和され、チャイコフスキーやショスタコビチを新たな視点でとらえ直す研究が出始めた。[横原千史]

旧ソ連地域の諸民族の音楽

旧ソ連地域全体は民族的、文化的に大きく六つの地域に分けることができる。そのもっとも大きく人口も集中しているのが東スラブである。中世には公式の聖歌に対し、民衆の間では英雄叙事詩「ブイリーナ」や、のちには叙情歌「プロチャージナ」が歌われ、これらが17世紀以降に都会で流行する有節歌曲「カント」や叙情歌、即興的な歌詞を反復リズムで歌う小歌曲「チャストゥーシカ」を経て、ロシア民謡の原型となった。現在のロシア民謡の多くは、18、19世紀につくられたものであり、たいてい単純な和声、伴奏、類型的リズムをもつ。『赤いサラファン』『ウラルぐみの木』『カリンカ』『母なるボルガを下りて』などが代表的である。伴奏楽器としては、古くから巡回芸能団スコモローヒの楽器であったチター属の撥弦(はつげん)楽器グーズリ、バッグパイプの一種ドゥートカのほか、この時代に生まれたリュート属撥弦楽器バラライカやアコーディオンのガルモーニが多く用いられた。
 18世紀末から民謡収集活動がおこり、それはしだいに盛んになった。革命後は、学者や音楽家が地方に派遣され、各地で民俗音楽の調査が積極的に行われた。とくにバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の民謡収集は有名で、ラトビア・コレクションには100万以上の歌曲テキストが集められている。この3国は歴史的にドイツ、フィンランド、ポーランドと深いかかわりをもち、音楽文化も近隣諸国の影響を強く受けている。
 カフカス地方では中東との関係が強く、キリスト教とイスラム教の分裂した伝統を背景に、洗練された民俗的ポリフォニーと叙事的な朗唱のスタイルがみられる。とくに都市では吟遊詩人の古い伝統も残り、ペルシアの古典旋法「マカーム」の影響もみられる。
 ボルガ・ウラル地方は民族的にフィン・ウゴルであり、アジア系の伝統を維持し、ハンガリーとも共通点をもつ。その複雑な関連を音楽文化の側面からとらえようとする試みが最近の音楽学の一つの焦点となっている。
 中央アジア諸国はまったく固有の文化を維持している。とくにイランとつながりをもつ南部では、古くから高いアラブ的音楽文化を誇る。15世紀には旋法体系をもつ音楽理論書が著されており、その後、旋法体系に基づく器楽様式や叙事的朗唱様式のなかに、諸技法が集約されてきた。楽器は2ないし3弦のリュートと長い開管フルートが全域にわたってみられる。そのほか、モンゴル民族の倍音唱法ホーミーと類似する多重独唱法が特徴的である。
 シベリア・エスキモーをはじめとする北方諸民族の音楽は、狩猟民的共同生活を反映した祭礼や叙事詩歌唱の形をとり、部分的には北アメリカのエスキモーおよびイヌイットやアイヌ民族との関連が指摘されている。[横原千史]
『J・バクスト著、森田稔訳『ロシア・ソヴィエト音楽史』(1971・音楽之友社) ▽アサフィエフ著、樹下節訳『ロシヤの音楽』上下(1954・音楽之友社) ▽園部四郎著『ロシア・ソビエト音楽史話』(1976・新時代社) ▽S・ヴォルコフ著、水野忠夫訳『ショスタコーヴィチの証言』(中公文庫) ▽『Music Today No.20 ロシアの現代音楽』(1994・西洋環境開発文化事業部) ▽ウラジーミル・ポポノフ著、広瀬信雄訳『ロシア民族音楽物語』(1995・新読書社) ▽クリューコフ、ポフローヴァ、ヴァシレーンコ著、森田稔・梅津紀雄訳『ロシア音楽史』(1995・全音楽譜出版社) ▽ニコライ・カレートニコフ著、杉浦直人訳『モスクワの前衛音楽家』(1996・新評論) ▽Boris Schwarz Music and Musical Life in Soviet Russia 1917~1970 (1972, London) ▽Detlef Gojowy Neue Sowjetische Musik der 20er Jahre (1980, Regensburg)』

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