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ロシア生まれの作曲家。スイス、フランス、アメリカに住み(1945年アメリカ市民権を獲得)、20世紀音楽の歩みの先頭にたって、芸術音楽の展開に決定的な影響を与えた。
1882年6月17日、ペテルブルグ近郊に生まれる。父はマリンスキー劇場の有名なバス歌手。早くから音楽に親しんでいたが、両親の希望で官吏の道を目ざしてペテルブルグ大学の法学部に入学。20歳の夏に作曲家になる決心を固め、リムスキー・コルサコフに師事し、作曲の基礎を学び、1907年に四楽章からなる本格的な作品、交響曲変ホ長調(作品1)を発表した。09年2月、『スケルツォ・ファンタスティック』(1908)と『花火』(1908)がロシア・バレエ団の主宰者ディアギレフに認められ、この2人のコンビによる同バレエ団の栄光の時代が開始される。いずれもパリで初演された『火の鳥』(1910)、『ペトルーシュカ』(1911)、『春の祭典』(1913)の三大バレエ作品は、ロシアの伝統的な民話風の題材を用い、ロシア民謡風の五音ないし六音の旋律、大編成のオーケストラの斬新(ざんしん)な響き、小節線の存在をまったく無視した複雑なリズムを使った音楽で、その激しいエネルギーに満ちた原色的で表出的な音楽は、パリとヨーロッパの音楽界に大きなセンセーションを巻き起こし、新鋭作曲家ストラビンスキーの名前は全ヨーロッパに広まった。三大バレエ作品以後、第一次世界大戦とロシア十月革命によって故国に帰れなくなり、スイスの各地を転々としながら、『きつね』(1916)、『兵士の物語』(1918)など小編成の作品を作曲して、次の新古典主義の作風を準備した。
1920年の『プルチネッラ』から45年の『エボニー協奏曲』までは、ストラビンスキーの新古典主義の様式によって作曲されている。これらの一連の作品では、ペルゴレージやバッハ、ハイドンやベートーベンの古典主義の音楽がモデルにされた。また『十一楽器のためのラグタイム』(1918)でジャズの語法に注目した彼は、ジャズだけではなく、タンゴ、ワルツなどポピュラー音楽にも接近した。34年にフランス国籍を獲得し、ピアニスト、指揮者としてステージに登場して自作を演奏すると同時に、レコードや自動ピアノのための録音も積極的に行った。
1939年9月、ハーバード大学での講義のために渡米。前の年に最初の妻と母親を失ったストラビンスキーは、以前からの恋人ベラをアメリカに呼び寄せ、アメリカの西海岸で永住することにした。アメリカ時代の彼は、まず自作の改訂版の仕事に力を入れ、多くの作品をさまざまな楽器編成のために編曲した。48年の暮れに若い作曲家、指揮者のR・クラフトと出会い、以後クラフトを助手として『道楽者のなりゆき』(1951)、七重奏曲(1953)などの創作活動を再開すると同時に、自作の指揮者として世界各国のステージに立った。51年のシェーンベルクの死後は十二音技法に興味をもち、『カンティクム・サクルム』(1955)、『説教・説話・祈り』(1961)、『レクイエム・カンティクルズ』(1966)など、十二音技法による宗教音楽を数多く残した。59年(昭和34)4月、77歳で日本を訪れ、NHK交響楽団で自作を指揮したが、晩年は健康がすぐれず、71年4月6日ニューヨークで没した。遺体は、生前の彼が愛し、『カンティクム・サクルム』を献呈したベネチアに埋葬された。
[船山 隆]
『塚谷晃弘訳『ストラヴィンスキー自伝』(1981・全音楽譜出版社)』▽『船山隆著『ストラヴィンスキー――二十世紀音楽の鏡像』(1985・音楽之友社)』
ロシア生れの作曲家で,20世紀の芸術音楽の展開に決定的な影響を与えた。ペテルブルグ郊外のバス歌手の家庭に生まれ,早くから音楽に親しみ,9歳の時からピアノと作曲を学び,16歳の時に最初のピアノ曲《タランテラ》を作曲した。父親の希望でペテルブルグ大学法学部に入学したが,音楽家の道を捨てきれず,法学部の友人の父親リムスキー・コルサコフに作曲を師事し,1902年に本格的な習作《ピアノ・ソナタ》を完成した。以後リムスキー・コルサコフ,ドビュッシー,ワーグナー,ベートーベンの音楽をモデルにしながら,《交響曲変ホ長調》を作曲し,作品番号1をこの作品につけた。08年に発表した管弦楽曲の《スケルツォ・ファンタスティック》と《花火》の2曲が,ディアギレフに認められ,この天才的な興行師から,バレエ・リュッスのパリ公演のためのバレエ音楽の作曲を委嘱された。《火の鳥》《ペトルーシカ》《春の祭典》が,バレエ・リュッスによってパリで上演され,いずれもセンセーショナルな話題を集め,ロシアの新進気鋭の作曲家の名前は,一躍ヨーロッパの音楽界に広まった。この初期の三大バレエ音楽は,ロシア民謡風の4音ないし5音の旋律,従来の拍節構造によらない自由なリズム,斬新なオーケストレーション,コラージュ風の構成法を用いており,新しい音楽的空間と音楽的時間を生みだした。
第1次世界大戦の開始によって祖国に戻れなくなったストラビンスキーは,バレエ曲《結婚》やオペラ《きつね》などで民族主義的な方向をおし進めると同時に,これまでの大編成のオーケストラを縮小し,明白な調性と簡潔明瞭なリズムによる〈新古典主義〉に徐々にスタイルを変化させていった。《兵士の物語》《プルチネラ》《管楽器群のためのシンフォニーズ》《管楽八重奏曲》は,新古典主義時代の代表的な作品で,ロシア的な色彩はうすくなり,ヨーロッパの17,18世紀の古典的なスタイルが模倣・借用されている。また1918年の《十一楽器のためのラグタイム》以来,アメリカで流行していたジャズに興味を示し,ジャズのイディオムをとりいれて芸術音楽の領域を拡大した。
20年にスイスからパリに居を移したストラビンスキーは,新古典主義の作風によりながら作曲活動を行うとともに,自作のピアニストや指揮者としても活躍し,アメリカをはじめ各国に演奏旅行に出かけた。39年にハーバード大学での講義のために渡米し,アメリカに永住する決意を固め,カリフォルニアのハリウッドに居をかまえて,45年にはアメリカの国籍を獲得した。アメリカ時代には,自作の改訂・編曲の仕事に従事しつつ,オペラ《放蕩者のなりゆき》などの作品を作曲した。51年にシェーンベルクが死去すると,シェーンベルクの創案した十二音技法(十二音音楽)に興味をもち,とくにウェーベルンの作品を研究し,精緻をきわめた十二音技法によって《アゴン》や《ムーブメンツ》などのバレエ曲,器楽曲を作曲した。最晩年のストラビンスキーの音楽様式は,キリスト教的な題材を十二音技法によって処理するもので,合唱曲《カンティクム・サクルム》《説教,説話,祈り》《レクイエム・カンティクルズ》や語り手と室内オーケストラのための《アブラハムとイサク》などの宗教音楽の傑作が次々に発表された。59年9月に来日し,自作の指揮を行うと同時に,武満徹らの日本の作曲家を高く評価して日本の作曲界に刺激を与えた。
執筆者:船山 隆
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…ドビュッシーの2巻からなるピアノ曲集《前奏曲集》(1910,13)やバレエ音楽の《遊戯》(1913),シェーンベルクの《弦楽四重奏曲第2番》(1908)や《月に憑かれたピエロ》(1912)は,印象主義と表現主義の代表的な傑作とされている。またロシアのストラビンスキーとハンガリーのバルトークは,おのおの自国の民俗音楽に創作の素材を求め,ストラビンスキーは《火の鳥》(1910),《ペトルーシカ》(1911),《春の祭典》(1913)の三大バレエ音楽を,バルトークは《弦楽四重奏曲第1番》(1910),ピアノ曲《アレグロ・バルバロ》(1911),《弦楽四重奏曲第2番》(1917)を発表し,西ヨーロッパ音楽にはなかった未知の音楽の領域を開拓した。このようにしてヨーロッパの伝統的な調性と拍節構造の二つを磁極とする閉ざされた音楽的磁場は,開かれた音楽的時間と音楽的空間に変貌したのである。…
…この方法によれば十二音技法に拠りながら再び一つの音に中心音性を持たせることが可能となる。1950年代以降ストラビンスキーが採用した十二音技法はクルシェネクの方法によるものが多い。また大戦後ブーレーズが主張した音列の移置形の新しい作り方も,基本的にはクルシェネクの方法と同じである。…
…新古典主義は,ロマン主義,写実主義,印象主義などの新しい動きが登場した時代にあっても,アカデミズムと結びついて,官展(サロン)派の美学としての役割を果たした。【高階 秀爾】
[音楽]
広義には第1次・第2次世界大戦間の音楽全体のスタイルをさし,狭義にはストラビンスキーの両大戦間の音楽やフランス六人組(ミヨー,オネゲル,プーランク,G.オーリック,L.E.デュレー,G.タイユフェール)の音楽をさす。第1次大戦後,後期ロマン派やその極限である表現主義の主観的な感情過多や,印象主義などの模糊とした音楽性や形式への反動として,旋律や形式の明晰な音楽が要求された。…
…48年マンハッタンのニューヨーク・シティ・センターで公演した際,非営利法人の同センターからスポンサーになる話が出て,専属契約を結び,現在の名称となった。アメリカン・バレエ団時代から作曲家のストラビンスキーと緊密な協力関係にあり,《カルタ遊び》(1937),《オルフェウス》(1948),《アゴン》(1957)はバランチンの依嘱曲である。シティ・バレエは19世紀物はほとんど取り上げないが,《くるみ割り人形》のバランチン版は全幕上演する。…
…ストラビンスキーの作曲したバレエ音楽で,《大地の賛美》と《犠牲》の2部14曲からなる。ストラビンスキーとN.レーリヒによるバレエの筋書は,ロシアの異教徒が,春の神の心を静めるために一人の処女を犠牲者にするというもの。…
…その結果生まれたのが詩人ボードアイエJean Louis Vaudoyer(1883‐1963)の提案による《バラの精》(1911),J.コクトー台本の《青い神》(1912)であり,《ダフニスとクロエ》(1912),《遊戯》(1913)には,それぞれラベル,ドビュッシーが新曲を書き下ろしている。しかしこの時期においては上演作品の主流はロシア・エキゾティシズムであり,ストラビンスキーはそのディアギレフの意図を踏まえて《火の鳥》(1910),《ペトルーシカ》(1911),《春の祭典》(1913)を作曲し,新進作曲家として世に出た。この時期の作品の舞台美術や衣装を多く担当したブノワ(ベヌア),バクストもそのロシア的色彩によって名を成した。…
…ストラビンスキー作曲,ラミュCharles‐Ferdinand Ramuz(1878‐1947)台本による1918年の音楽劇。〈読まれ,演じられ,踊られるà réciter,jouer et danser〉という副題をもつこの作品は,西洋の伝統的な大道芝居や旅回りの劇場を生かす音楽劇として構想され,朗読,パントマイム,バレエ,人形劇などさまざまな場面によって構成されている。…
… 音高のセリー化はシェーンベルクの十二音音楽(1921)において行われたが,音価,音色,音強のセリー化は,それが独立した単位として認識されるまで持ち越された。音高以外の要素への関心は,ストラビンスキーの《春の祭典》(1913)におけるリズム(音価)の強調,シェーンベルクの《五つの管弦楽曲》(1909)における音色旋律などに早くからみられており,ウェーベルンの《管弦楽のための変奏曲》(1940)における音価のセリー的処理,メシアンの《アーメンの幻影》(1943)におけるリズム・カノンなどでしだいに明確化されてきた。しかし,それらの要素の決定的な意識化はメシアンのピアノ曲《リズムの四つのエチュード》の第2曲《音価と強度のモード》(1949)においてであった。…
※「ストラビンスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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