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ロシア革命 ロシアかくめい Russkaya revolyutsiya; Russian Revolution

6件 の用語解説(ロシア革命の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ロシア革命
ロシアかくめい
Russkaya revolyutsiya; Russian Revolution

帝政時代末期のロシアに起った人民革命。「血の日曜日」事件を契機に始った 1905年の革命を第1次革命,帝政を打倒し,社会主義政権を樹立するにいたった 17年の二月革命十月革命を第2次革命と称すことが多い。

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デジタル大辞泉の解説

ロシア‐かくめい【ロシア革命】

20世紀初頭のロシアに起こった一連の革命。第一次革命は、ロマノフ朝の専制支配に対する不満を背景に、1905年1月の血の日曜日事件を機として起こり、全国ゼネスト戦艦ポチョムキンの反乱などで頂点に達したが、国会開設勅令の発布やモスクワでの武装蜂起の失敗により鎮静化した。第二次革命は、第一次大戦での敗北や社会不安から、1917年3月(ロシア暦2月)に労働者や兵士が蜂起、帝政を打倒してケレンスキー臨時政府が成立。さらに、11月(ロシア暦10月)、レーニンの指導するボリシェビキプロレタリア独裁を目ざして武装蜂起し、史上初の社会主義政権を樹立した。→十月革命

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百科事典マイペディアの解説

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世界大百科事典 第2版の解説

ロシアかくめい【ロシア革命】

20世紀世界史において最も巨大な意義をもった社会変革マルクス主義者ユーラシア大陸に広がる大国の権力の座につけ,社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出す一方,反資本主義,反帝国主義の革命運動を全世界に拡大する火元を生み,世界史に革新的な作用を及ぼした。 革命は大きく分けて,1905年の革命(第1次革命)と17年の革命から成り,後者はさらに〈二月革命〉と〈十月革命〉に区分される。この〈十月革命〉は,ロシア革命の全過程の中で最も重要な局面を構成し,マルクス主義にもとづく社会主義社会の実現を目ざす政権を,人類史上初めて誕生させたことで知られる。

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大辞林 第三版の解説

ロシアかくめい【ロシア革命】

ロシアにおいて帝政を倒し史上初の社会主義国家を成立させた、1905年から17年にいたる一連の革命。専制支配に対する不満を背景として1905年「血の日曜日」を機に民衆が蜂起ほうき、ソビエト結成・戦艦ポチョムキン号反乱・全国的ゼネストが行われたが、政府の国会開設公約や武装蜂起失敗により退潮化し、ストルイピンの反動政治期となる(第一次革命)。第一次大戦の長期化により専制腐敗・食糧難などの社会矛盾が深刻化、17年3月首都におけるストライキとデモを機に労働者・兵士が蜂起、ニコライ二世が退位しロマノフ朝が終結、臨時政府とソビエトの二重政権となる(三月革命)。11月レーニンの指揮下ボルシェビキがプロレタリア革命への転化とプロレタリア独裁を主張して武装蜂起、ソビエト政権を樹立した(一一月革命)。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ロシア革命
ろしあかくめい
Русская Революция Russkaya Revolyutsiya ロシア語
Russian Revolution英語

ロシアに起こった20世紀最大の人民革命。革命によって成立した政権が、史上初めて社会主義国家の建設を目ざし、そのことによって世界の反資本主義・反帝国主義運動に大きな力を与え、世界史に巨大な影響を及ぼした。
 革命は、広義には1905年革命と、1917年の二月革命および十月革命とからなり、前者を第一革命、後者の二つをあわせて第二革命ともよぶ。このうち十月革命は、ソビエト政権を樹立し、その後のソビエト連邦の誕生につながったため、狭義のロシア革命ともいう。
 なお、ここでいう二月革命、十月革命は、当時のロシアで公式に用いられていたロシア暦に従ったもので、西暦ではそれぞれ3月と11月にあたるため、三月革命、十一月革命ともいわれる。20世紀ではロシア暦に13日を加えると西暦になるが、ロシア暦は1918年1月末で廃止され、西暦にかえられた(なお以下の記述も、1901~1918年1月末まではロシア暦に従ったが、適宜( )内に西暦を示した)。[藤本和貴夫]

革命前のロシア


 ロシアにおいて、1890年代、無制限専制君主制の下に進められた鉄道建設と重工業の育成は、急速な工業化と高い経済成長をもたらした。それを可能にしたのは、フランスを筆頭とする膨大な外資の導入と、人口の8割以上を占める農民から徴収した穀物の「飢餓輸出」であった。しかし、20世紀初頭の恐慌はロシアの経済成長の矛盾を表面化させた。1900年末から1901年にはキエフ、サンクト・ペテルブルグなどの学生運動が活発となり、街頭での市民、労働者との共闘を生み出した。また農奴解放令の発布(1861)以来平静であった農村でも、40年ぶりに一揆(いっき)が頻発した。同じころ、ロシア化政策に反対するフィンランドやポーランドなどの諸民族の反抗も激しくなった。
 大衆運動の活発化と並行して、政党の組織化が進んだ。1898年に結成されたロシア社会民主労働党は、1903年に国外で第2回大会を開き、ボリシェビキとメンシェビキの2分派を生み出しつつ、組織的な革命運動に乗り出した。一方、変革の担い手をプロレタリアート、勤労農民、革命的・社会主義的知識人に求めるSR(エスエル)党も、革命的なナロードニキのサークルを基礎に、1901年末に結成され、専制に対抗する手段として「戦闘団」を組織、1904年7月、大衆の弾圧で名高い内相プレーベВячеслав Константинович Плеве/Vyacheslav Konstantinovich Pleve(1846―1904)の暗殺を頂点とする多くのテロ活動を行った。また自由主義者たちも、1903年にはゼムストボ(地方自治会)の反政府的地主層がゼムストボ立憲主義者同盟を、1904年には自由主義的な知識人と地主が非合法結社の解放同盟を結成し、立憲政治を求める活動を開始した。[藤本和貴夫]

1905年革命


血の日曜日
1891年のシベリア鉄道起工によって極東への本格的な進出を開始したロシアは、満州(現、中国東北)を目ざす日本と衝突、1904年1月(西暦2月。以下同じ)、日露戦争に突入した。しかしロシアは遼陽(りょうよう)、沙河(さか)の陸戦で敗れ、1904年12月(1905年1月)には旅順要塞(ようさい)が陥落した。1905年革命の発端となる「血の日曜日」事件は、この敗戦による政府の権威の失墜のなかで起こったのである。これは、1905年1月9(22)日、ツァーリ(皇帝)ニコライ2世に対する請願行動のために冬宮を目ざした労働者とその家族に、軍隊が一斉射撃を浴びせ、多くの死傷者を出した事件である。司祭ガポンに率いられたこの行進は、首都ペテルブルグの工場のゼネストのなかで行われたものであり、「血の日曜日」はストライキ運動への弾圧であった。以後、「血の日曜日」に対する抗議ストライキは全国に波及し、とくにポーランドとバルト海沿岸地方では激烈なストライキと街頭デモのなかで多数の死傷者を出した。[藤本和貴夫]
日露戦争と革命の開始
ロシア軍は1905年2(3)月、陸戦最大の決戦となった奉天の会戦で敗れ、5月にバルチック艦隊が日本海海戦で全滅した。これは政府批判をさらに激化させた。5月には、ストライキの波がふたたび高まり、また4~6月には、農村でも農民が地主に対して、地主地での労働に対する報酬の引上げと借地料の引下げを要求、村ぐるみの闘争に立ち上がった。6月に起こった黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号の反乱は、反乱が軍隊をも巻き込んだことで社会に大きな衝撃を与えた。このようななかで、中央工業地帯の繊維工業都市イバノボ・ボズネセンスクで、5月12日から72日間にわたり、軍隊の弾圧にもかかわらず全市ゼネストが打たれた。ここでストライキ参加企業の労働者の代表によって構成された「代表者ソビエト」が、全市ストライキ委員会として生まれた。「ソビエト」とは会議、評議会を意味するロシア語であるが、以後この語は人民権力の機関をも意味することばとなる。
 8月6日、政府は選挙人資格を制限し、法案の審議権だけをもつ国会の設置を発表、一定の譲歩を示した。それと同時に、革命情勢に対応するため、日本との戦争の終結を急ぎ、ウィッテを代表として派遣し、7月28日(8月10日)、ポーツマス会談を開始、8月23日(9月5日)、ポーツマス条約に調印した。[藤本和貴夫]
十月宣言と革命の波及
しかし革命の波は、10月7日に始まるモスクワ―カザン鉄道の労働者ストライキを契機に、全国主要都市のストライキへと拡大、革命は最高潮に達した。8時間労働日や民主的諸権利、普通選挙による憲法制定会議の招集などがその要求とされた。ここで政府はウィッテの主張をいれてふたたび譲歩し、10月17日、「十月宣言」を発布して、人身の不可侵、良心・言論・集会・結社の自由、立法権のある国会(ドゥーマ)の開設、制限付きの住民の選挙参加を認めた。また大臣会議議長(首相)の職が新設されてウィッテが任命された。
 これを機に、十月宣言を受け入れて反政府運動から手を引く自由主義者と、それを拒否する革命派との分解が始まった。カデット党(立憲民主党)は、十月全国ゼネスト中に創立大会を開き、国会を通じて政治的自由のための合法闘争と立憲君主制を目ざす方針をたてた。また、より与党的な立場から十月宣言を支持する「十月党」(オクチャブリスト)も結成された。
 十月全国ゼネストは、10月21日に終結したが、ストライキの過程で同月13日に成立したペテルブルグ・ソビエトは、ストライキ終結後も活動を続行した。そのイニシアティブの下に、右翼からの防衛のための労働者の武装、検閲出版条例の空文化、8時間労働日の実力実施などが行われた。農村では、9月から年末にかけ、ヨーロッパ・ロシア中央部を中心に、土地を要求する一揆が激化した。10月から11月にかけて、クロンシュタット、セバストポリ、ウラジオストクなどで水兵を中心とした反乱が起こった。
 反撃の機会をねらっていた政府は、12月3日、ペテルブルグ・ソビエトの議長トロツキーを含むソビエトの代議員を逮捕、ソビエトは壊滅した。これに対し、モスクワ・ソビエトは12月7日にゼネストに突入、9日にはこれを武装蜂起(ほうき)へと転化したが制圧され、革命は鎮圧された。ゼネストを背景とした武装蜂起はバルト海沿岸地方、カフカス、ジョージア(グルジア)にも繰り広げられた。またシベリア、黒海沿岸などの辺境地域では、地方権力の全面的な空洞化と、それにかわって共和国を称する人民権力の一時的な萌芽(ほうが)がみられた。[藤本和貴夫]
国会をめぐる闘争
政府は国会開設に向け、十月宣言の譲歩を限定することに力を注いだ。1906年4月22日、ツァーリは妥協的なウィッテを罷免、23日に国家基本法(憲法)を公布した。そこでは、ツァーリは、国家評議会(上院にあたる)と国会(ドゥーマ、下院にあたる)によって制限される「最高専制権力」をもつものとされた。地主、ついでブルジョアジーに圧倒的に有利な選挙制度の下で、4月27日に開会された第一国会では、「中間的住民層」の獲得に成功したカデットが36%を占め第一党、無党派急進農民のトルドビキが20%で第二党となり、与党の立場をとるオクチャブリストは十数名にとどまった。社会主義諸党はボイコットした。政府は、土地改革などを要求して対立した国会を2か月半で解散した。
 1907年2月の第二国会では、社会主義者が選挙参加へ戦術を転換したためより急進的になり、40%以上を社会主義者が占めることになった。第二国会の解散後、政府は選挙制度を改悪し、11月の第三国会では、ようやくオクチャブリストが第一党、国権派などの右翼が第二党となり、国会を親政府派で占めることに成功した。[藤本和貴夫]

再編と第一次世界大戦


ストルイピンの改革
第一国会解散後に首相となったストルイピンは、国内の大衆運動を徹底的に弾圧し、それとともに自営農民の創設による農業の近代化を目ざした。これは、豊かな自営農を、帝政の新たな支柱にしようとするものであった。しかし、1915年末までに自営農になったのは1割にすぎず、しかも彼らは共同体に残る農民と新たな対立を呼び起こした。1912年4月労働運動がふたたび活気づき、1914年7月にはペテルブルグでバリケード戦が行われるまでになった。そして1914年7月19日(8月1日)、ロシアは第一次世界大戦に突入した。[藤本和貴夫]
第一次世界大戦の開始
開戦は、国内支配層の団結と挙国一致の雰囲気をつくりだし、労働運動を沈黙させた。そしてSR(エスエル)やメンシェビキら多くの社会主義者のなかにも祖国防衛戦争を支持する潮流を生み出した。しかし、ロシアは、開戦50日にして兵員輸送難と砲弾補給難に陥った。さらに1915年春から夏にかけてのガリツィア、ポーランドでの大敗は社会の動揺を大きくした。モスクワでは、全工業の動員を旗印に、中央と地方における「戦時工業委員会」が設置され、のちに労働者代表も加わり、帝政の改造による「戦える政府」を目ざした。労働運動も1916年に入ると高揚し、また前線兵士の戦争意欲の喪失も問題となってきた。1916年夏から年末にかけて、中央アジア住民を中心とする兵役動員に対する民族反乱も起こった。そして政権の頂点にたつツァーリのニコライ2世は、ラスプーチンと皇后のグループの恣意(しい)のままに動かされていた。1916年12月、専制内部からラスプーチンの暗殺が決行されたが、すでに手遅れであった。[藤本和貴夫]

二月革命


首都の二月革命
1917年に入ると、首都ペトログラード(ペテルブルグを1914年に改称)では1月9日の「血の日曜日」記念日に大規模なストライキが打たれた。首都の社会主義系諸団体は、2月23日(3月8日)の国際婦人デーを屋内集会として記念する予定であった。しかし当日、工場地区ブイボルグの婦人繊維労働者たちは自らのイニシアティブでストライキに入り、周辺の工場に同調を求めた。食糧不足は深刻になっており、パンを求めて行列が続いた。夕方までに労働者街はゼネストの様相をみせた。翌日、ストライキは市の多くの区に広がり、市の中心部に行進した大衆は、「パンをよこせ」に加えて「戦争反対」「専制打倒」のスローガンを掲げ始めた。25日、ストライキは全市に拡大、デモ隊と警官・軍隊との武力衝突が本格化した。27日の朝には近衛(このえ)ボルイニ連隊が民衆への発砲を強いられる出動を拒否したが、それは急速に他の部隊に波及した。反乱に立ち上がった兵士たちは労働者とともに政治犯を解放した。28日には政府軍が消滅し、革命7日目の3月1(14)日までに政府閣僚が逮捕された。[藤本和貴夫]
臨時政府の成立
帝政崩壊の過程で、新しく権力を担う労働者・兵士ソビエトと国会臨時委員会が成立した。2月27日の夜、ペトログラード・ソビエト結成大会が開かれ、社会主義者の右派・中間派を主流とする執行委員会が選出された。ソビエトには労働者とともに兵士も代表を選出した。そして3月1日のペトログラード労兵ソビエト「命令第1号」によって、兵士はソビエトに従うことが表明された。ペトログラード労兵ソビエトは、その後続々と結成される各地のソビエトの全国的中心となった。
 他方、2月27日の昼に設立された国会の臨時委員会は、多くの自由主義者の要求により、同日深夜、政権掌握を決意、翌朝より諸官庁の接収に乗り出したが、官吏もこれを支持した。ソビエトは自ら政府をつくる意志はなく、革命の成果を擁護する限りは国会臨時委員会を支持するとした。こうして、国会臨時委員会主導の臨時政府が3月2(15)日に成立した。同じ日、ツァーリのニコライ2世は退位し、弟のミハイル大公に譲位したが、ミハイル大公が即位を拒否したためツァーリは存在しなくなった。約300年間続いたロマノフ朝はここに崩壊した。[藤本和貴夫]
臨時政府とソビエト
リボフ公を首相とする臨時政府は、ソビエト副議長となったケレンスキー法相を除けば全員自由主義者によって編成された。政府は、ソビエトの要求する政治犯の大赦、言論・出版・結社・集会の自由、身分・宗教・民族による制限の撤廃、憲法制定会議の招集準備など、国内の民主化を認めたが、戦争問題ではソビエトと協定を結ばず、連合国との協力による第一次世界大戦の勝利を目ざした。他方、ペトログラード労兵ソビエトは、「革命的祖国防衛主義」を掲げ、「無併合・無償金・民族自決による講和」の追求を確認していた。ミリュコーフ外相(カデット)が4月18日(5月1日)付けで連合国に宛(あ)てた好戦的な覚書の暴露によって、大衆のミリュコーフ打倒デモが引き起こされたが、臨時政府は、危機の乗り切りのため、ソビエトからの入閣を強力に求めることになった。ソビエト内主流派のSR(エスエル)、メンシェビキもこれを受け入れた。[藤本和貴夫]
第一次連立政府
5月5(18)日には、リボフ首相の下に社会主義者6名と自由主義者9名とからなる第一次連立政府(第二次臨時政府)が成立した。しかしこれは同時に、ソビエト内に、自由主義者との連立に反対してソビエト権力の樹立を目ざす、ボリシェビキ、SR左派、メンシェビキ国際派などの潮流を明確に登場させた。これより先の4月3日、亡命地スイスからドイツ軍占領地帯を「封印列車」で帰国したレーニンは、帰国直後に「四月テーゼ」を発表、戦争が依然として帝国主義戦争であり、戦争を続ける臨時政府と対決し、ソビエトが全権力を握るべきだと主張した。これがボリシェビキの方針となり、大衆の支持を拡大していったのである。
 他方、第一次連立政府も連合国との協調体制を柱としていたが、6月18日に開始された東部戦線における夏期攻勢は失敗に終わり、兵士の不満は高まった。二月革命以後、労働者によって組織された工場委員会などによる資本家に対する労働者統制が開始されていた。また農民運動も、共同体を基盤に、地主地はいうまでもなく、ストルイピン改革で生まれた自営農民に対する攻撃を強めた。またロシア帝国内で6割近くを占める非ロシア民族の自立化運動も強まった。7月初め、政府は、人口でロシア人に次ぐウクライナ人の自治要求をある程度認めるに至った。[藤本和貴夫]
七月闘争からコルニーロフ反乱へ
この時期、すでに臨時政府打倒とソビエト政権樹立が可能だと考えて急進化した首都の一部兵士・労働者は、7月3日と4日、臨時政府打倒を目ざすデモを決行した。しかし政府は軍隊の動員に成功してこれを鎮圧、デモ参加部隊は前線へ送られて、カーメネフ、トロツキーらは逮捕、レーニン、ジノビエフらは地下に潜行した(七月闘争)。7月24日には、ケレンスキーを首相とした第二次連立政府が成立したが、彼によって最高総司令官に任命されたコルニーロフ将軍はケレンスキーの打倒を目ざして反乱を起こした。8月27日、前線軍の司令官たちに支持されたコルニーロフは、自己の部隊に首都進軍命令を出した。コルニーロフ軍の兵士は、ソビエトが派遣したオルグ(組織者)たちの説得でソビエトへの忠誠を表明するに至り、9月1日、コルニーロフは逮捕された。[藤本和貴夫]

十月革命


ソビエトの革命化と「十月武装蜂起」
反コルニーロフ闘争の勝利は、各地のソビエト内のソビエト権力派を強化した。1917年8月31日、ペトログラード労兵ソビエト総会が「革命的プロレタリアートと農民の代表からなる政権」を決議し、9月25日に至って、第一革命時の議長であるトロツキーを議長に選出した。同月28日、モスクワ労兵ソビエト合同会議も「全権力をソビエトへ」を可決した。このような動きは各地に波及し、全国的なソビエト権力の樹立が日程に上った。ボリシェビキは、10月10日と16日、地下潜行中のレーニンを交えた中央委員会で「武装蜂起(ほうき)」を決定し、その時期についてはソビエトの動向を重視することにした。
 首都のソビエトは、10月16日、首都の防衛を目的とする軍事革命委員会を設立した。SR(エスエル)、メンシェビキが委員会をボイコットしたため、これがボリシェビキ、SR左派ら、革命派のみによって構成される十月革命の合法的な指導機関となった。臨時政府は、24日未明、士官学校生を主力とする部隊を動かして反攻に出たが成功しなかった。第2回全ロシア・ソビエト大会が開かれた25日の昼過ぎには、臨時政府の立てこもる冬宮周辺以外はほとんどソビエトの管理下に入った。ソビエト権力の樹立が自覚的に追求されていたため、二月革命のような大規模な街頭デモやストライキは行われなかった。[藤本和貴夫]
ソビエト政権の樹立
10月25日(11月7日)午後10時40分にソビエトの本部スモーリヌイ会館で開会された第2回全ロシア・ソビエト大会は、軍事革命委員会による権力獲得という既成事実を突きつけられた。第1回大会(同年6月3~24日)と異なり、ボリシェビキが多数派であった。この日、夕方になって冬宮包囲を完成した首都の赤衛隊(労働者の武装部隊)、首都守備軍とバルチック艦隊の水兵とからなる部隊は、冬宮守備隊に対して最後通牒(つうちょう)とアジテーター(活動家、煽動(せんどう)者)を送った。夜の9時になって攻撃開始を告げる空砲がペテロパブロフスク要塞(ようさい)、続いてネバ川に浮かぶ巡洋艦アブロラ(オーロラ)号から打たれた。冬宮が包囲軍により占領され、この朝首都を脱出したケレンスキー首相を除く閣僚が逮捕されたのは26日午前2時10分であった。いったん休憩ののち、午前3時10分に再開されたソビエト大会は、レーニンによって書かれた最初のアピール「労働者・兵士・農民諸君へ」を採択した。それは、大会による権力の掌握を宣言するとともに、民主的な即時講和の全交戦国に対する提案、農民の要求である地主地などの没収とそれの農民委員会への引き渡しの保障、軍隊の完全な民主化による兵士の権利の保障、労働者統制の樹立、憲法制定会議の適時招集の保障、都市へのパンと農村への生活必需品の供給、民族自決権の保障を約束するものであった。そして最初の2項目は大会2日目に「平和についての布告」と「土地についての布告」として採択された。続く政府の構成問題は難航したが、結局、第二党となったSR(エスエル)左派に入閣を拒否されたボリシェビキは、レーニンを議長、トロツキーを外務人民委員、スターリンを民族人民委員とするボリシェビキ単独の「人民委員会議」を「臨時労農政府」として発足させた。大会は27日朝閉会した。
 他方、首都を逃れたケレンスキーは、クラスノーフПтр Николаевич Краснов/Pyotr Nikolaevich Krasnov(1869―1947)将軍の軍を率いて首都を目ざしたが、10月30日、プルコボの戦闘で敗れた。ロシア第二の都市モスクワの市街戦は11月3日のソビエト政権樹立宣言で終わった。ほぼ同じころ、ドイツ軍占領地帯を除く首都を中心とする北西部、中央工業地帯主要都市、白ロシアとこれら各地に駐屯する北部方面軍、西部方面軍、大本営においてソビエト権力が樹立された。「労働者統制令」が11月16日に布告され、12月14日には銀行が国有化された。同月16日には「軍隊の民主化」が布告され、軍隊から官位・階級・称号が廃止され、指揮官の選挙制が定められた。12月9日、ボリシェビキ14名、SR左派7名によって構成される新たな労農政府が形成された。1918年1月5日、憲法制定会議が開かれたが、レーニン政府は、ソビエト中央執行委員会が採択した「勤労被搾取人民の権利の宣言」の採択を迫り、これを否認した会議を解散した。この宣言はその後、1月の全ロシア農民ソビエトの合流をみた第3回全ロシア・ソビエト大会によって採択された。宣言には、ロシアは「労兵農ソビエト共和国と宣言され」「自由な諸民族の自由な同盟に基づいた各民族ソビエト共和国の連邦」として創設されると書かれており、レーニンは大会で「社会主義」を目ざすことをはっきりと宣言した。なお、1月24日にはそれまでのロシア暦から西暦への改暦が告示された。[藤本和貴夫]

内戦と干渉戦争


ブレスト・リトフスク条約の締結
革命最初の危機は講和問題をめぐって起こった。ソビエト政府は全交戦国に、無併合・無償金の即時講和を提案したが、連合国側の無視とドイツによる侵略的要求に直面した。しかも旧来のロシア軍は解体を始めていた。ソビエト政府は、トロツキーの「戦争もせず、講和も調印しない」という方針を定めた。しかし、ドイツ軍の侵入の圧力の下、1918年3月3日(西暦。以下同じ)、ソビエト政府はドイツとブレスト・リトフスク条約を結び、戦争から離脱した。ソビエト・ロシアは広大な領土を失った。また講和に反対するSR(エスエル)左派の全閣僚が辞任したため、統一戦線政府が消滅したことも大きな痛手であった。
 このような情勢下に、正規軍方式による赤軍の建設が急がれ、旧将校の登用と、これを監視するとともに軍においてソビエトを代表する政治委員としてのコミッサールの任命が開始された。最高国民経済会議は、中央からの労働者の統制に乗り出した。農業政策では、3月にロシア共産党と名を変えたボリシェビキ党は、5月13日に「食糧独裁令」を、6月11日には「貧農委員会」の組織化を布告、武装食糧徴発隊を農村に投入したが、しばしば農民との衝突となった。共産党の農業政策に反発したSR左派は、最初のロシア社会主義共和国憲法を制定した第5回全ロシア・ソビエト大会中の7月6日、反乱を起こして翌日に鎮圧され、ソビエト内の第二党は姿を消した。[藤本和貴夫]
全面的内戦の開始
ロシア中央部でソビエト権力が確立されるにしたがい、反革命の拠点となったのは旧ロシア帝国周辺の諸民族地域である。1918年1月以来、ドン、クバン、ウクライナなどでソビエト軍と反革命軍との戦闘が続いたが、全面的内戦の合図となったのは、5月にウラル、シベリアで起こったチェコ軍団の反乱である。第一次世界大戦中ロシア国内で編成され、革命後はヨーロッパ戦線へ移動のためシベリア鉄道沿線に展開していた軍団の反乱は、ソビエト政権に深刻な脅威を与えた。シベリア各地に反ソビエト政権が生まれた。連合国はこれを契機に全面的な干渉戦争を開始、8月にはチェコ軍救援を口実に、日本軍、アメリカ軍を主体とする大部隊がシベリアに侵入した。
 9月2日、トロツキーを長とする共和国革命軍事評議会が、11月30日にはレーニンを長とする労農国防会議が設置された。ソビエト軍は、8~9月、カザンをめぐる戦闘で初めてチェコ軍を撃破し、ボルガ地域を回復した。1918年6月28日、主要工業部門の国有化が宣言されたが、それは続いて中小企業にまで及んだ。19年1月には食糧割当徴発の実施が決められ、農民は自家消費以外の全食糧を国家に引き渡すことが義務づけられた。これらの経済政策は、のちに戦時共産主義とよばれる。[藤本和貴夫]
革命と反革命の抗争
1918年11月に第一次世界大戦が終結すると、ソビエト政権はブレスト・リトフスク条約の廃棄を宣言、1919年2月には赤軍がキエフに入り、ウクライナの全域を支配下に置いた。他方、対独戦争から解放された連合国軍は、南部ロシアに上陸したが、動員された連合国軍兵士の戦争拒否などのためロシア中央部に進撃できなかった。シベリアでは、1918年9月に、SR(エスエル)とブルジョアジーの連合政権である全ロシア臨時政府が生まれたが、内部抗争ののち、11月、コルチャークのクーデターによって崩壊し、ブルジョア・地主反革命軍独裁政権が成立した。1918年秋以降、革命によって土地を手に入れ、全体として平準化して「中農」化した農民たちは、反革命の制覇が土地の喪失につながることを自覚した。1919年3月の第8回共産党大会も、中農との同盟を確認し、両者の関係は改善された。またこの大会は、コミンテルン(国際共産主義インターナショナル)の創設を決議し、帝国主義戦争に加担した第二インターナショナルにかわる第三インターナショナルとして、同月モスクワで創設された。それはプロレタリア国際主義に基づき、世界革命運動の指導を目ざすものであった。
 赤軍は1919年6月になってようやく東部戦線で反革命勢力のコルチャーク軍を撃退した。1920年2~3月には、南部方面の戦闘で同じく反革命のデニキン軍主力も粉砕された。東部戦線では、1920年3月7日、赤軍がイルクーツクに入ったが、それ以東には進まず、バイカル湖以東には、日本との緩衝国として極東共和国が建設された。[藤本和貴夫]
革命の終結
戦争から平和への移行期の1920年4月、ポーランド軍が攻撃を開始、一時はキエフを占領された赤軍も、6月には反攻に転じ、8月には国境を越えてワルシャワ近郊に迫った。しかしビスワ川の戦闘での敗北によって赤軍は退却を余儀なくされた(ポーランド・ソビエト戦争)。
 内戦の終結は、ふたたび穀物割当徴発をめぐるソビエト政権と農民との対立を表面化させた。内戦と連合国の経済封鎖により、都市の状態も農村同様悪化していた。そしてこれらの矛盾は、1921年3月、クロンシュタット軍港の赤軍水兵および市民の反乱となった。反乱は制圧されたが、反乱の最中開かれていた第10回共産党大会は、この矛盾を解消するため、割当徴発制を廃止して現物税を導入し、農民に余剰穀物の販売を許すというネップ(新経済政策)への転換を決議した。いちおうこの時点をもって、ロシア革命の終結点とすることができる。[藤本和貴夫]

ロシア革命の影響


世界への影響
第一次世界大戦下、連合国の各政府は、二月革命による臨時政府の成立を歓迎した。東部戦線で戦闘力をもつ政府の出現を望んでいた連合国にとって、連合国との協定の遵守と戦争の遂行を掲げる強力な政府の出現は望ましいものだったからである。これとは逆に、十月革命によって成立したソビエト政権は、「平和についての布告」によって、各国人民、とくにイギリス、フランス、ドイツの労働者に帝国主義戦争反対を呼びかけ、秘密条約の暴露に踏み切って、既存の国際秩序を否定し、まったく新たな国際関係を呼びかけた。したがって、連合国側では、対独戦への影響が不明な段階では態度を決しかねたが、ブレスト・リトフスク条約の成立後は公然とした武力干渉による新政権の打倒に向かった。
 他方、ソビエト政権にとって、ロシア革命の持続・拡大を保障するものは、被抑圧階級、被抑圧民族との同盟であった。そのための国際組織が、1919年に創設された第三インターナショナルである。それは、帝国主義戦争によってもたらされた混乱を打開する新しい道を求める人々の希望となった。ヨーロッパでは、社会主義政党内の左派による共産党の組織が進み、新たなイデオロギーや文化を成立させた。また、第三インターナショナルは、被抑圧民族の解放へ向けてのさまざまな模索を行ったが、20世紀のもう一つの人民大革命である中国革命に大きな影響を与えた。また、第三世界の発展にとっては避けて通れない多くの問題を提起した。[藤本和貴夫]
日本への影響
十月革命に対する日本政府の対応は、1918年(大正7)8月から1922年10月に至るシベリア干渉戦争(シベリア出兵)であった。ロシアが革命によって弱体化したのを機に、朝鮮、満州(中国東北)に続き、バイカル湖以東のロシア極東部を日本の勢力圏に組み込もうとするものであった。その過程は、極東進出をねらうアメリカとのさまざまな対立を生みながら進行したが、最終的には成功しなかった。他方、大逆事件以来「冬の時代」にあった少数の社会主義者は、十月革命に期待を寄せた。シベリア出兵反対運動や労農ロシア承認運動が大衆運動として展開されるのは1921~1922年で、小牧近江(おうみ)らの『種蒔(ま)く人』の呼びかけたロシア飢餓救済運動(1921)などに始まる。1922年の東京のメーデーでは「労農ロシアの承認」が決議された。1925年1月、ソ連と日本との間に日ソ基本条約が調印され、国交が樹立された。しかし、日本の支配階級は、ボリシェビズムが日本、とくに日本の植民地とされた朝鮮に浸透することを恐れた。治安維持法はその対策の一つであった。[藤本和貴夫]

ロシア革命の研究史


ソ連・ロシアと欧米
ロシア革命の研究は革命直後から始まり、1920年代にはソ連と欧米で大量の史料が刊行され、回想録が書かれた。ソ連では、1920年代初めからロシア革命の研究を専門とする月刊の『プロレタリア革命』誌や『赤い年代記』誌などが刊行され、豊富な史料・回想・研究が数多く公開された。
 これらの雑誌は1930年代初めにスターリンによって廃刊に追い込まれたが、国外に追放されたトロツキーがベルリンで出版した『ロシア革命史』(1931~1933年刊)は、このような1920年代に発表された史料・回想や研究書を総括した上で革命の指導者自身が書いたロシア革命史として、現在でも高く評価されるものである。
 その後、スターリン時代に停滞した革命史研究は、1956年のソ連共産党第20回大会でのフルシチョフによるスターリン批判後に研究の見直しが始まり、革命50周年に当たる1967年を中心に膨大な1905年革命や1917年革命の史料集が刊行された。これらの史料集ではボリシェビキと労働者が中心で、時の権力の政策やボリシェビキと異なる政治的諸潮流はほぼ無視されたものであったが、多くの貴重な史料を研究者は利用できることになった。
 1920年代から1930年代初めの研究がペテルブルグやモスクワといった中央での動きやボリシェビキ・労働者に集中していたのに対し、スターリン批判以後の研究は各地域や諸民族の動向にも注目するようになったことが特徴である。また1970~1980年代にはボリシェビキ以外の社会民主主義政党であるメンシェビキや自由主義政党のカデット(立憲民主党)なども、批判的にではあるが、研究の対象とされるようになった。
 ソ連での主要な研究の方向が、革命の主体、革命の勝利の必然性の解明にあったとすれば、初期の欧米での研究に大きな影響を与えたのは、革命による亡命者たちであった。したがってここでは、革命の原因論と責任論が大きな比重を占めた。革命で倒された臨時政府の首相であったケレンスキーが編集した史料集『ロシア臨時政府』(全3巻)などは、それらをめぐる論争の産物である。
 他方、このような立場と一線を画したイギリスのE・H・カーは、『ボリシェヴィキ革命 1917~1923』(全3巻)などで革命とそれが生み出した政治・経済・社会秩序の体系的な分析を行い、欧米や日本の研究者に大きな影響を与えた。
 ソ連でペレストロイカ(改革)が開始されるとソ連国内での歴史研究に対するそれまでの制限が急速に弱まった。禁書であったブハーリンやトロツキーらの著作が相次いで刊行され、ブルジョア史学と批判されていたE・H・カーなど欧米の歴史家の研究が相次いで翻訳されるようになった。
 さらに、1991年12月のソ連崩壊は、それまで歴史研究に加えられていた多くの制限を取り除いた。共産党関係を中心に秘密とされてきた多くのアルヒーフ(公文書館史料)への接近がかなり自由になり、外国人研究者もロシアの研究者と同様にアルヒーフで研究できるようになった。これは中央の諸機関のものだけでなく、それぞれの地方のアルヒーフにも及んだ。
 これと並行して、これまで公開されることのなかった、アルヒーフに保存されている膨大な諸政党や諸事件の史料が、マイクロフィルムや書籍として公刊されるようになった。そのためこれまで実態が明確にならなかった革命と内戦期の農民、諸民族や諸地域とソビエト権力との関係についての研究も、これらの史料を使ってようやく進みつつある。[藤本和貴夫]
日本
日本でのロシア革命研究が本格的に始められたのは第二次世界大戦後、とくにスターリン批判後である。1968年に出版された共同研究(江口朴郎(ぼくろう)編『ロシア革命の研究』)によって初めて1905年革命と1917年革命が本格的な研究の対象とされた。
 1970年代に入ると、1917年革命の過程の研究が進むなかで首都やレーニンに集中された革命像の克服、革命が生み出した矛盾に注目する必要が認識されるようになった。そして諸地域における革命の構造を解明する「革命の地域研究」や諸民族地域の革命の構造が問題とされるようになった。ロシア革命は1917年の首都におけるソビエト権力の樹立で終わるものではなく、基本的には1922年まで続いた諸民族地域を巻き込んだ内戦・干渉戦争を含む過程である。
 そしてロシア帝国の「辺境」にあたるザカフカス、中央アジア、極東などの諸民族地域は、ロシア帝国にとっての植民地として存在していたものであり、ロシア革命は植民地解放の問題としてもとらえなければならないとの理解が広まった。はたしてこれらの地域は、ロシア革命によって植民地からの独立を果たしたといえるのかが問題とされるようになったのである。その結果、ウクライナ、ザカフカス、中央アジア、シベリア・極東などの革命の地域研究が進められた。
 また、1970~1980年代にスターリン時代の研究が進むにしたがい、革命によって樹立されたソビエト政権と諸地域・諸民族との関係が、スターリン主義の成立を含めてその後のソビエト体制の歴史にきわめて重要な意味をもつことも同時に明らかにされるようになった。1991年のソ連崩壊による各共和国の独立は、まさに革命による植民地の解放がなされなかったことを主張したものであったということができる。
 連邦崩壊後、日本でもロシアで新しく公開されたアルヒーフを使った研究がようやく現れるようになっている。また各国が独立したことにより、ウクライナ語やジョージア語文献を利用したウクライナ史、ジョージア史などの研究成果も生まれつつある。これらの研究によってロシア革命が新たな光をあてられることになることが期待される。[藤本和貴夫]
『江口朴郎編『ロシア革命の研究』(1968・中央公論社) ▽和田春樹・和田あき子著『血の日曜日』(中公新書) ▽保田孝一著『ロシア革命とミール共同体』(1971・御茶の水書房) ▽長尾久著『ロシヤ十月革命の研究』(1973・社会思想社) ▽菊地昌典編『ロシア革命論』(1977・田畑書店) ▽西島有厚著『ロシア革命前史の研究――血の日曜日とガポン組合』(1977・青木書店) ▽和田春樹著『農民革命の世界――エセーニンとマフノ』(1978・東京大学出版会) ▽辻義昌著『ロシア革命と労使関係 1914~1917』(1981・御茶の水書房) ▽山内昌之著『スルタン・カリエフの夢――イスラム世界とロシア革命』(1986・東京大学出版会) ▽藤本和貴夫著『ソヴェト国家形成期の研究(1917~1921)』(1987・ミネルヴァ書房) ▽E・H・カー著、原田三郎・宇高基輔他訳『ボリシェヴィキ革命 1~3』(1967~1971・みすず書房) ▽中井和夫著『ソヴェト民族政策史』(1988・御茶の水書房) ▽長谷川毅著『ロシア革命下ペトログラードの市民生活』(中公新書) ▽原暉之著『シベリア出兵』(1989・筑摩書房) ▽菊地昌典編『社会主義と現代世界 1 社会主義革命』(1989・山川出版社) ▽高橋清治著『民族の問題とペレストロイカ』(1990・平凡社) ▽木村英亮著『スターリン民族政策の研究』(1993・有信堂) ▽石井規衛著『文明としてのソ連』(1995・山川出版社) ▽梶川伸一著『飢餓の革命――ロシア十月革命と農民』(1997・名古屋大学出版会) ▽梶川伸一著『ボリシェヴィキ権力とロシア農民――戦時共産主義下の農村』(1998・ミネルヴァ書房) ▽トロツキー著、藤井一行訳『ロシア革命史』全5冊(岩波文庫) ▽J・リード著、小笠原豊樹・原暉之訳『世界をゆるがした十日間』(1977・筑摩書房) ▽カレール・ダンコース著、高橋武智訳『崩壊した帝国――ソ連における諸民族の反乱』(1981・新評論)』

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世界大百科事典内のロシア革命の言及

【戦間期】より

…その特徴を国際関係と思想,文化の側面から概観してみよう。
【国際関係】

[ロシア革命と〈新外交〉]
 交戦国のいずれもが短期戦と予想していた第1次大戦は意外な持久戦となったが,戦局の行詰りは1917年に起こった二つの事件,アメリカの参戦とロシア革命によって破られ,1年後に戦争の幕は下りることになった。いわばヨーロッパから燃え広がった戦争は非ヨーロッパ大国の介入によって消し止められたわけである。…

【レーニン】より

…ロシア革命の指導者,ソ連社会主義の創設者。本姓ウリヤーノフUl’yanov。…

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