プロコフィエフ(英語表記)Sergei Sergeevich Prokof'ev

精選版 日本国語大辞典 「プロコフィエフ」の意味・読み・例文・類語

プロコフィエフ

(Sjergjej Sjergjejevič Prokof'jev セルゲイ=セルゲービチ━) ロシア、ソ連の作曲家。帝政ロシア末期から革命を経てソ連時代にかけて活躍。明快で近代的な抒情をたたえた作風。作品は子どものための交響的物語「ピーターと狼」、ピアノ協奏曲室内楽曲など。(一八九一‐一九五三

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デジタル大辞泉 「プロコフィエフ」の意味・読み・例文・類語

プロコフィエフ(Sergey Sergeevich Prokof'ev)

[1891~1953]ソ連の作曲家・ピアノ奏者・指揮者ロシア革命アメリカへ亡命、のち帰国大衆性をもつ曲が多い。作品に、音楽物語「ピーターと狼」、オペラ「戦争と平和」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「プロコフィエフ」の意味・わかりやすい解説

プロコフィエフ
Sergei Sergeevich Prokof'ev
生没年:1891-1953

ロシア・ソ連邦の作曲家,ピアノ奏者。裕福な農業技師の家に一人息子として生まれた。ピアニストの母親に音楽の手ほどきを受け,幼少時から天才を発揮した。作曲家R.M.グリエールの個人指導を受け,1904年ペテルブルグ音楽院に入学。その保守的な学風にはなじめなかったが,N.Ya.ミヤスコフスキーB.V.アサフィエフとの交遊と〈現代音楽の夕べ〉での活動を通して,当時のロシア音楽界の最も優れた部分を吸収した。09年作曲科を卒業してピアノ科に移り,A.N.エシポワの下で一流のピアニストとしての訓練を与えられた。14年自作の《第1ピアノ協奏曲》を弾いて,ピアノ科の最高の栄誉であるルビンシテイン賞を得て卒業。ロンドンに旅行してディアギレフと知り合い,ストラビンスキーの舞台音楽に接した。この時期,バレエ曲《アラとロリー(スキタイ組曲)》や《道化師》(1915),オペラ《賭博者》,《古典交響曲》(1917),ピアノ曲集《あてこすり》や《つかのまの幻影》など,初期の名作が次々と生まれた。

 十月革命後の1918年ソビエト政府から許可を得て,極東から日本を経てアメリカに渡った。アメリカではむしろピアニストとして認められ,作品に対する評価はままならなかった。シカゴでオペラ《三つのオレンジへの恋》の初演(1921)をなんとか成功させたが,アメリカには見切りをつけて,22年ヨーロッパへ本拠を移した。23年スペイン人の歌手リーナ・ルベラと結婚,2人の息子をもうけた。同年ソ連から公式の招待を受けたが,実際に訪問するのは27年以後で,32年には真剣に帰国を考えるようになった。36年春家族を連れて最終的にソ連に復帰した。欧米での作曲活動は主としてロシアで着想したものの完成や改訂で費やされていたが,最も苦心したのはオペラ《炎の天使》であった。この上演は困難で,その素材は《第3交響曲》に利用された。ディアギレフとの関係で,バレエ曲《鋼鉄の歩み》(1925)や《放蕩息子》(1928)が生まれ,後者の素材で《第4交響曲》が作曲された。また映画音楽《キージェ中尉》(1933。34年交響組曲に改編された),バレエ曲《ロミオとジュリエット》(1936),音楽童話《ピーターと狼》(1936)などがあるが,これらはすでにソビエト的なわかりやすい作品である。

 36年ソ連でプロコフィエフを待ち受けていたのは,ショスタコービチのオペラに対する《プラウダ》の批判に象徴される厳しい文化政策であった。38年を最後に欧米への旅行も許されなくなった。第2次大戦に入り,妻リーナはスパイ容疑を受けて(のちには逮捕されて強制収容所に入れられた)家庭は崩壊した。第2の妻とされる(正式には結婚しなかった)ミーラ・メンデリソンと知り合ったのもその原因の一つである。ミーラはその後の病気がちなプロコフィエフの生活を支えた。ソ連では,オペラ《セミョーン・コトコ》(1939),《修道院での結婚》《戦争と平和》《真実の人間の物語》,バレエ曲《シンデレラ》(1944),《石の花》(1949),映画音楽《アレクサンドル・ネフスキー》(1938)など大規模な劇作品が多い。そのほかにも,《第5~第7交響曲》《第6~第9ピアノ・ソナタ》などあらゆる分野に多くの作品を残した。プロコフィエフには世紀末的な主観性とか細密画の世界は無縁である。とくに初期には,しばしば複雑な音響を用いることもあったが,彼は本質的に健康で,いたずらっぽい笑いに満ちた古典主義的な作曲家であったといえる。
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百科事典マイペディア 「プロコフィエフ」の意味・わかりやすい解説

プロコフィエフ

ロシア(ソ連)の作曲家,ピアノ奏者。ウクライナ東南部の裕福な家庭に生まれ,幼年期から神童ぶりを発揮。1904年−1914年ペテルブルグ音楽院でリムスキー・コルサコフらに学び,生涯の友ミヤスコフスキーと交友。在学中からモダニズムの旗手としてめざましい活躍をみせ,作品は物議をかもす。1914年のロンドン旅行でディアギレフと知り合い,バレエ・リュッスのために《アラとロリー》(1914年−1915年),《道化師》(1915年,改訂1920年)を作曲。前者はバレエとしては上演されず,管弦楽曲《スキタイ組曲》となった。十月革命後の1918年,ソビエト政府の許可を得て1922年まで米国,その後パリを本拠に活動を続け,その間,オペラ《3つのオレンジへの恋》(1919年),同《炎の天使》(1919年−1927年,初演1954年),《ピアノ協奏曲第3番》(1921年),《交響曲第3番》(1928年)などを完成。1936年,家族とともにソ連に復帰。その後は後輩ショスタコービチ同様,ソビエト当局の芸術統制政策のもとで多難な人生を送るが,生来の歌心と才気にはよどみなく,さらに円熟味を加えた作品を書き続けた。主要作品にはその他,《古典交響曲(交響曲第1番)》(1917年),2つのバイオリン協奏曲(1917年,1935年),バレエ音楽《ロミオ(ロメオ)とジュリエット》(1936年),同《シンデレラ》(1944年),《ピアノ・ソナタ第7番》(1942年),音楽童話《ピーターと狼》(1936年),エイゼンシテインの映画(1938年)のために書かれたカンタータ《アレクサンドル・ネフスキー》(1939年)などがある。1918年の渡米の際,日本(東京,横浜)でもピアノ・リサイタルを開いた。→オイストラフシゲティロストロポービチ
→関連項目映画音楽オボーリンカバレフスキーバランチン拍子リヒテル

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プロコフィエフ」の意味・わかりやすい解説

プロコフィエフ
Prokof'ev, Sergei Sergeevich

[生]1891.4.23. ウクライナ,ソンツォフカ
[没]1953.3.5. モスクワ
ソ連の作曲家。6歳で作曲を始め,9歳でオペラを作曲。ペテルブルグ音楽院で A.リャードフ,リムスキー=コルサコフらに師事し,1914年に自作の『ピアノ協奏曲第1番』 (1911~12) を演奏し,ルビンシテイン賞を得た。 18年に日本を経由してアメリカに亡命。 S.ディアギレフの招きでパリとロンドンで自作のバレエ音楽を上演。 33年にソ連に復帰,その後社会主義リアリズム路線による批判を受けたりしたが,終始ソ連の代表的作曲家として国際的名声を保った。作品はオペラ『3つのオレンジへの恋』 (21,シカゴ初演) ,バレエ『ロミオとジュリエット』 (35) ,カンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』 (38) ,7曲の交響曲,物語と音楽『ピーターと狼』 (36) ,協奏曲,ピアノ・ソナタなど。

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「プロコフィエフ」の解説

プロコフィエフ

作曲家・ピアニスト。ウクライナの裕福な家庭に生まれ、ピアニストである母親に影響を受ける。幼少のころからその音楽的才能はずば抜けたもので、5歳で最初のピアノ曲を作曲し、その後和声・形式・管弦楽法の基礎を ...続き

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「プロコフィエフ」の解説

プロコフィエフ
Sergei Sergeevich Prokof'ev

1891~1953

ソ連の作曲家。ロシア革命を避け日本,アメリカ,フランスに移住したが,1936年帰国し,民族的色彩の濃い抒情的な作品を発表しつづけた。「古典交響曲」などがある。

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世界大百科事典(旧版)内のプロコフィエフの言及

【バイオリン】より

…J.S.バッハ以来とだえていたポリフォニックな書法を要求する無伴奏ソナタが,イザイエやバルトーク,ヒンデミットの手によって自由な新しい表現の場として復活する一方,従来のソナタや協奏曲では,印象派の語法と古典主義との融合を示すドビュッシー晩年のソナタ(1917)以来,バイオリンの演奏技術を作曲家独自の書法に従わせる傾向が強まった。20世紀の代表的なバイオリン協奏曲としては,十二音技法に基づきながらもバイオリンの調性的色彩を生かすことに成功したA.ベルクの協奏曲(1935)や抒情性と多彩なリズムを結びつけたS.S.プロコフィエフの二つの協奏曲(1917,35),さまざまな語法実験をみごとに統一させたバルトークの《協奏曲第2番》(1938)などを挙げることができる。
[日本のバイオリン]
 日本にバイオリンが導入されたのは明治時代にさかのぼる。…

【ピーターと狼】より

…ソ連邦の作曲家プロコフィエフが自国の子どもたちのために作詞・作曲した音楽童話(作品67)。1936年作曲,同年5月モスクワの児童劇場で初演された。…

※「プロコフィエフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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