ソビエト連邦(読み)ソビエトレンポウ(英語表記)Union of Soviet Socialist Republics

デジタル大辞泉 「ソビエト連邦」の意味・読み・例文・類語

ソビエト‐れんぽう〔‐レンパウ〕【ソビエト連邦】

ソビエト社会主義共和国連邦の略称。

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精選版 日本国語大辞典 「ソビエト連邦」の意味・読み・例文・類語

ソビエト‐れんぽう‥レンパウ【ソビエト連邦】

  1. ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう(━社会主義共和国連邦)」の略称。

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改訂新版 世界大百科事典 「ソビエト連邦」の意味・わかりやすい解説

ソビエト連邦 (ソビエトれんぽう)
Union of Soviet Socialist Republics

ユーラシア大陸の北部,ロシアの地に存在した歴史上初めて誕生し,終焉した社会主義体制の国家である。その国土は広大で,北極海をはさんで対峙(たいじ)する資本主義・民主主義の国アメリカ合衆国と対抗し,現代の世界政治に圧倒的な影響力をもった。なお,この国の1917年以前の歴史,文化については〈ロシア〉〈ロシア帝国〉,また1991年以後の国家の状況については〈ロシア連邦〉〈独立国家共同体〉などの項を参照されたい。

〈ソビエト〉とはロシア語で〈会議〉の意味であるが,1917年の二月革命で各地に〈労働者・兵士代表ソビエト〉,〈農民ソビエト〉が生まれ,それらを母体に,十月革命後,ロシア,ウクライナ,白ロシア(ベロルシア)の三つのソビエト社会主義共和国が成立した。これらのソビエト共和国が1922年にザカフカス社会主義連邦ソビエト共和国を加えて同盟条約を結び,国家の同盟,連合Soyuzとして一つの国家をつくったのである。したがって,正確にはソビエト社会主義共和国連邦ではなく,ソビエト社会主義共和国同盟ないし連合というべきである。日本では第2次大戦前より〈ソ聯邦〉という訳語が用いられており,戦後一時期〈ソ同盟〉と称すべきだと強い主張がなされたが,結局慣用の力で,〈ソ連邦〉が定着するにいたった。

 注目されることは,この名称には,歴史的・地理的・民族的呼称をまったく含んでいなかったことである。成立時の人々の考えでは,革命が拡大し,新しいソビエト共和国が出現し,同盟加入を求めてくれば,限りなく拡大していけるものと想定されていたのであろう。しかし,その後の現実では,ソ連邦は旧ロシア帝国の版図以上には拡大されなかった。したがって,ソ連という言葉はロシアという言葉と結びつけられて考えられるのは自然であるが,本来のソ連邦成立の原理からすれば,ロシアはソ連の一部にすぎない。
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ソビエト連邦が1991年末に崩壊し,15の連邦構成共和国はそれぞれ独立したため,現在は旧ソ連の領域の4分の3を占めるロシア連邦と,ウクライナベラルーシ(旧白ロシア),モルドバ(旧モルダビア),バルト3国(エストニアラトビアリトアニア),カフカス3国(グルジアアルメニアアゼルバイジャン),中央アジア5国(ウズベキスタン(旧ウズベク),カザフスタン(旧カザフ),キルギスタン(旧キルギス。ただし現在の国名正称はキルギス共和国),タジキスタン(旧タジク),トルクメニスタン(旧トルクメン))の14共和国に分かれている。ここでは旧ソ連全域を概観する。

ソ連邦はユーラシア北部を緯線方向(東西)に長く広い国土をもっていた。総面積2240万km2は地球陸地の6分の1弱を占め,中国とアメリカ合衆国を合わせた面積より大きく,ソ連を除くヨーロッパの4.5倍にあたった(ソ連崩壊後のロシア連邦の面積はソ連の76%に当たる1707km2)。島嶼(とうしよ)を除くと,ソ連はタイミル半島のチェリュスキン岬からトルクメン(現トルクメニスタン)共和国クシカ市にわたって南北約4000kmに延びていた。東西の長さは約1万km前後で,西端はカリーニングラード州グダンスク湾の砂嘴(東経19°38′),東端は大陸部ではベーリング海峡に面するデジニョフ岬,島嶼部ではベーリング海峡ラトマノフ島(西経169°2′)であった。したがって理論上は11時間の時差があるが,実用上は最東端部の2時間分の経度を同じ時間帯に組み入れているので10時間となる。GMT(グリニジ標準時)正午はモスクワ15時,ハバロフスク22時(経度の上ではほぼ日本と同じ時間帯にあるが,日本標準時より1時間進んでいる),チュコート半島で翌日午前0時である。このほか,ソ連は北極海上の多くの島を領有していた。極東部では日本とのいわゆる〈北方領土〉問題(後述の[日ソ関係]を参照),中国との国境でもいくつかの地点で境界問題があったが,これらはロシア連邦に引きつがれた。

 ソ連は12ヵ国に接する長い国境線約2万km(ロシア連邦では14ヵ国,1万9900km)のほか,北極海に面する約4万kmの海岸線をもっていた。北極中心の正距方位図法を見れば一目瞭然であるが,ソ連の北極海諸島とカナダの北極海諸島の最短距離は約1500kmであり,またソ連と北アメリカ大陸は北極海を隔てて向き合っていたという認識も必要であろう。

国土の南縁から南寄りにかけて顕著な山脈が連なる。カルパチ,クリム(クリミア),カフカス,コペトダグ(コッペダーク),パミール,天山,アルタイ,サヤンなどが西から東へ連なり,東シベリアより東方は全体に山がちである。このほか,国土の中央西寄りに南北に走るウラル山脈が孤立する。とくに隆起エネルギーの大きいのは天山からパミールにかけてであり,ソ連の最高点である天山のコムニズム峰(7495m),これに次ぐ高峰ポベーダ(勝利)峰(7439m),レーニン峰(7134m)もこの近辺にある。なおカムチャツカ半島とその付近,中央アジア南部の山岳地方,ザカフカス地方などは地震が多い地方である。

 ソ連の国土の一つの特色は,広大な低地が分布することであった。ソ連のヨーロッパ部は東ヨーロッパ低地(ロシア平原)であり,ウラル山脈(二つのプレートの衝突により形成されたという説もある)を除けば,シベリアのエニセイ川まで続く西シベリア低地と合わさって世界第一の広大な低地となる。西シベリア低地南方にもわずかな高まり(標高200mに満たない分水界で北極海と内陸との流域を分ける)を隔ててトゥラン低地があって,カスピ海東岸からカラクム,キジルクムの砂漠と〈ジュンガリアの門〉を経て中国(新疆ウイグル自治区)へと続く。これらの大きな平野は長大な河川の流路となり,シベリアでは北極海に注ぐ源流からの長さ5000km前後のオビ川,エニセイ川,レナ川,東へ注ぐアムール川(黒竜江)がある。ヨーロッパ部では3000km級のボルガ川,ドニエプル川があり,中央アジアではアム・ダリヤ,シル・ダリヤの長流がある。いずれも高峻な山地を駆け下りる短い上流(ボルガ川,ドニエプル川の源流は丘陵である)に次いで,勾配の緩い中流と落差のきわめて小さい下流がひじょうな長さをもってこれに続く。たとえばシベリアでは,オビ川やエニセイ川はシベリア鉄道との交点から河口までの3000km以上は,落差が約100mしかない。

 大河川の中・下流では河川の曲流と三日月湖,河跡湖を含む湿地が流れに沿って広く分布し,春には大はんらんを起こす。オビ川中流のバシュガン湿原では日本の面積ほどの一時的な浅い湖が出現し,アム・ダリヤでは春の洪水を利用して綿作地の土壌の塩ぬきを行う。また大河川の最下流部では長大な三角州が形成される。これらの性質はヨーロッパ部の大河川でも,規模は多少小さいが同様である。河川流量の年間配分もきわめて不均等で,年間流量の半ばまでが春~初夏の3ヵ月に流れ去り,残り9ヵ月は渇水期となり,喫水の深い大型船は航行にも支障がおこる。ボルガ川とドニエプル川の全域,オビ川とエニセイ川の上流などでいわゆる〈多目的ダム〉が次々と構築されている一つの理由は,電源開発のほか,洪水制御,水運の改善にあることも了解できるであろう。

 現在の地表は,第四紀の氷期によって大きな影響を受けた。氷河に覆われた地域ではもちろんのこと,氷河に覆われなかった南方地域においても,周氷河地形や気候変化の影響を大きく受けている。最も広く氷河に覆われたのは第四紀のドニエプル氷期(西ヨーロッパのミンデル~リス氷期に対応し,大陸氷はキエフ付近まで南下)である。現在の地表に深く爪跡を残しているのはバルダイ氷期(ウルム氷期に相当)で,モスクワ北方バルダイ丘陵でとどまった。それより北では湿地,湖沼が多く,迷子石や終堆石堤が残され,土壌はやせ,開拓に多大の努力を要する。

石炭,石油,天然ガスなどのエネルギー資源,鉄,マンガン,カリ塩,非鉄金属,アスベスト(石綿)などは世界有数の埋蔵量を誇っていた。国土が広大であることから当然でもあるが,問題はそれら天然資源の賦存(ふそん)あるいは分布状態にあった。次々と発見される資源は,当然のことながら人跡未踏のザバイカルの山地(たとえばウドカンの銅鉱石)や人口密度1人/km2以下のレナ川流域(たとえばレナ炭田)などのように,豊かな埋蔵であっても,それをどのようにして工業原料,エネルギー,労働力と結びつけるかという,いわゆる工業立地問題を解決しなければならなかった。航路や鉄道の改良と延長,長距離超高圧送電(通常600kV),流体燃料のパイプ輸送,労働力の東部への移動奨励などは,天然資源の賦存の不均等性是正に関連する技術あるいは政策とみてもよかった。

 天然資源の賦存を概観すると次のようであった。石油:カフカス,ボルガ・ウラル,ヨーロッパ部の北部,西シベリア(チュメニ),中央アジア,サハリン(北樺太)などに産する。石炭:ドネツ(ドンバス),西シベリア(クズネツク),ウラル北部(ペチョラ),カザフスタン(カラガンダ),東シベリア(カンスク・アチンスク,ツングース,レナ,ヤクート南部)。鉄鉱石:ヨーロッパ部(クリボイ・ログ,クルスク付近),ウラル,東シベリア(アンガラ・イリムスク鉄鉱床,アルダン地方)など。アルミ原鉱(ボーキサイトのほか,蛍石,カスミ石などを含む):北ウラル,コラ半島,シベリアの各地,ザカフカスなど。銅:ウラル東麓,カザフスタン(バルハシ湖北西岸),ザバイカル(ウドカン)など。ニッケルとコバルト:北シベリア(ノリリスク),コラ半島,アルタイ東方(トゥバ自治共和国)など。タングステンとモリブデン:北カフカス(エリブルス北方渓谷),中央アジア,極東地方など。ダイヤモンド:東シベリアのヤクート地方。カリ塩:西部ウラル(ペルミ地方),白ロシア共和国。地域によってエネルギー資源に乏しい場合には,地表を覆う無尽蔵の(しかしカロリーは石炭の1/2以下しかない)泥炭を燃料とする小規模火力発電所が稼働していた。塵芥を燃料として電力と熱水を都市に供給する〈熱供給センター〉も都市の郊外に多数建設されていた。

ソ連の気候を一言でいうなら,冷涼な大陸性気候が支配的で,逆にいえば広大な国土面積のわりには気候は単純である。一般にソ連では冷涼な短い夏と寒く長い冬,その間に短い春と秋が入る。広くはないが,大西洋に近いヨーロッパ部の北西部(たとえばレニングラード州)と黒海沿岸部などでは湿潤な海洋性気候,太平洋に近接した沿海州などではモンスーン気候がみられ,黒海東岸周辺では小面積の亜熱帯気候地域がある。高峻な山脈は国土の南縁にあり,ソ連の気候に大きな影響をもたない。ウラル山脈が気候に与える影響も小さい。

 ソ連の気候の大きな特色の一つは,冬の強大なシベリア気団(高気圧)の存在で,これはソ連のほとんど全土の気候を支配する。シベリア気団は寒冷でその中心はバイカル地方からモンゴル高原上空にあり,最も発達した場合の気圧は1040hPaに達する。真冬には1020hPa等圧線はシベリア全土と,ソ連のヨーロッパ部のうち北西部を除く大半を覆う。この気団の移動(日本では〈吹出し〉という)に起因する季節風は,東は東アジア,西はヨーロッパに,ときには地中海地方に影響をもつ。シベリア気団の支配下にある地方では,そしてとくに中心部では極寒,晴天が続き,雪は少ない。ソ連のヨーロッパ部の一部では,大西洋から東進する低気圧との間に前線を生じ,曇天と降水をもたらす。天気は悪いが地表の放射冷却が少なく,寒さはそれほど厳しくはない。1月の平均気温はほとんどソ連全土にわたり0℃以下で,0℃を超えるのはクリミア半島南岸,黒海沿岸,ザカフカスの一部などわずかな地域しかない(これらはソ連解体後のロシア連邦からは外れた地域が多い)。海洋性気候の影響下にあるソ連ヨーロッパ部の北西部では,1月の平均気温は0℃以下でもわりあい暖かく,レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ。1月の平均気温-8℃)はずっと南にあるモスクワより2~3℃も暖かく,内陸部のアストラハン(カスピ海北岸)とほとんど同じである。1月の等温線は,ヨーロッパ部の北西部では,緯線と平行せず,むしろ経線と平行するように描かれるのが大きな特色で,レニングラード港は不凍港(実際には厳寒時には短期間結氷する)といわれるのである。

 夏にはシベリア気団は消失し,逆に低圧部ができる。これに向かって西では大西洋から,東では太平洋から海洋性の気団が進入してくる。西からの湿気を含んだ大気は途中で湿気を失い,シベリアへは高温乾燥気団として到達するから,シベリアの夏は晴れて雨が少ない。太平洋からは夏のモンスーンとして知られる南東風が内陸部に吹きこみ,沿海州は冷涼で多湿の気候となる。ヨーロッパ部の南部はアゾレス高気圧から東へ張り出す高圧部に入り,晴天・酷暑の夏を迎え,半砂漠や砂漠が広く分布する一因をつくる。夏と冬の間には短い春と秋があるが,モスクワ地方ではおだやかで比較的長い〈黄金の秋〉を楽しむことができる。

ソ連の国土は急峻な山脈が南方に偏在し,大半が起伏の影響を受けることが少ないため,北から南へ,東西に長い数条の自然帯が識別される。もともと,気候,土壌,植物,動物の諸相は一地域では互いに密接な相互関連をもっており,この考えはとくにロシア・ソ連の自然科学の中で発展して〈自然帯〉の概念となった。数条の自然帯は,永久氷雪帯を除くと次のようになる。

(1)ツンドラ 北極海上の島嶼の南部,北極海岸に沿う大陸部に主として分布し,東部の山地では山岳性のツンドラとなり,南方へ張り出す。コケ・地衣類とわずかの低木が特徴であり,これは北方の極地ツンドラでは前2者,南方の低木ツンドラでは後者が多くなる。通常,年間降水量は300mm以下であるから,気温が高ければ当然砂漠になるが,ここは過湿地帯で水たまりも多い。夏季には日照時間が長く,地下1m程度までは凍土が融解するが,その下は地下300~400mまで凍結したままであるから,融水の逃げ道がないためである。ツンドラ帯と次の森林帯との間に広大な漸移帯があり,背の低い細いカバノキ,マツ(シベリアではカラマツも含む)などが主体となる。この部分は広いので,レソ・ツンドラ(森林凍土混合帯)と呼び,独立の自然帯とすることも可能である。

(2)タイガ ソ連の自然帯の中で最も面積の広いのはこの部分であった。年間降水量は300~600mmほどで,いずれの自然帯より多雨である。冷帯の植生の特徴として,少数の種が大面積を占める(主としてトウヒ,マツ,カラマツ,モミ属からなる)。針葉樹のタイガ(暗いタイガまたは黒いタイガ)が広大な面積に分布するが,南にゆくと針葉・広葉混合林,次いで面積は狭いが広葉樹林が現れる。カバノキ,ヤマナラシ,オオバボダイジュ,トネリコ,ニレ,ナラのような広葉樹のタイガ(明るいタイガまたは白いタイガ)が多くなる。地域的にはさらに西シベリア以西の西タイガ(樹種が多い),東シベリア以東の東タイガ(カラマツが優勢となる),極東地方のタイガ(カエデ,カシワ,ドロヤナギ,トネリコなどの樹種からなる)など,いくつかの地域的性格がみられる。土壌はポドゾルが一般的で,土地の生産力は低く,所々に湿原や湖沼が分布する。この地帯は毛皮獣,狩猟獣(オオジカ,ヒグマ,キツネ,テン,リスなど)の生息地として知られる。農牧地とするためには,排水,酸性土壌の矯正,有機質肥料の投下など,長期にわたる土壌改良が不可欠である。広葉樹のタイガとその南に続くステップとの間は,土壌の分類の上ではいわゆる黒土帯であり,ウクライナから南シベリアを幅200~300kmで横断し,東シベリアから中国東北地方,沿海州に至る。モンゴル高原の北の縁辺部にも黒土帯は点在する。シベリア鉄道の大部分は,おおまかにいえば黒土帯に入植した人々の農村集落を連ねて建設されたということもできる。

(3)ステップ タイガから南下して,降水量が少なくなり(年間300~400mm),乾燥が強くなると,カシワやナラなどの森の間に草原が広がり(この景観をロシア人はポーリェpoleと呼ぶ),ついには草原となる。短い春に野一面にスイセン,アヤメ,ケシなどの花が次々に咲くステップ,イネ科(ハネガヤ,ウシノケグサなど)を主としたステップなどに分かれるが,南に下るとヨモギを主とする単調な草原となり,さらに南下すると裸地がまじり,幅広い漸移帯(半砂漠として一つの帯を設ける場合もある)を経て最も乾燥の激しい砂漠となる。現在ヨーロッパ部の黒色土(チェルノーゼム)ないし栗色土からなるステップは,農業適地として長い歴史の間にほぼ開拓されてしまったか,もとの植生の形をとどめぬまでに人手(火入れなどを含む)が加わっている。良好な農牧地とするためには灌漑が必要な部分も多く,河川から用水を引き(たとえば南ウクライナ・北クリミア運河),溜池を掘るなどのことが行われている。

(4)砂漠 年降水量は150mm以下で,春に大半が降る。植生は貧しく,カラクム,キジルクムなど中央アジアの砂漠ではほとんど植生を欠く部分もある。中緯度に位置する砂漠であるから,冬には寒冷になり,雪も降る。アラル海北半は結氷する。

(5)その他の自然帯 黒海北東岸から東岸にかけて,小面積だが北国のソ連としては重要な亜熱帯性森林(日本の概念では暖帯林と記した方がよい),山地の山岳ステップ,高緯度の山地の山岳ツンドラなどがみられる。また,高い山岳地帯では低地のステップ,次いで森林帯,ステップ,高山植物帯などの自然帯の垂直変化がよく観察される。
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人口2億8888万(1990)のソ連邦は多民族国家であり,民族数は100以上に上った(ロシア連邦になった後でも,多民族性には変りない)。大は総人口の52%(1979年センサスによる。以下同じ)を占めて全土にわたって分布するロシア人(1億3739万)から,小はネギダール族(満州・ツングース族に属し,ハバロフスク地方に住む)のように人口500しかない少数民族まで,きわめて多様であった(表1)。

 ロシア人と同系の東スラブ民族に入るウクライナ人と白ロシア(ベロルシア,現ベラルーシ)人は人口数でそれぞれ第2位(4234万),第4位(946万)を占め,ロシア人と合わせて総人口の72%に達していた。

 人口数第3位の民族は,中央アジアに住むチュルク諸語に属する言語をもつウズベク人であった。中央アジアの主要民族はそのほかに,ウズベク人と同系のカザフ人,トルクメン人,キルギス人,イラン語系の言語をもつタジク人であった。上記5民族の総人口はソ連全体の9.8%であるが,人口増加率がきわめて高いことが特徴的である。ソ連全体では1970-79年の人口増加率は8.4%で,そのうちスラブ系3民族は5.8%であるのに対して,上記5民族は31.8%に達していた。この地方には漢民族系でイスラム教徒であるドゥンガンやウイグル人,また朝鮮人(大部分は1937年に極東地方から強制移住させられた)などの民族もいる。

 チュルク諸語系の民族はソ連に20民族あるといわれるが,そのおもなものは上記のほかに,ボルガ中流,南ウラルのタタール人,チュバシ人,バシキール人,南シベリアのアルタイ人,トゥバ人,ハカス人,東シベリアのヤクート人,カフカス地方のアゼルバイジャン人,ノガイ人,カラチャイ人,バルカル人などである。

 ザカフカス地方の主要民族は上記のアゼルバイジャン人と,古い文化をもつアルメニア人,グルジア人であるが,言語系統も文字も伝統宗教も異にしている。カフカス山中から北麓にかけては,グルジア語と同系のカフカス諸語の言語をもつカバルダ人,イングーシ人,アディゲ人,チェチェン人が居住し,山脈の南と北に分かれて,イラン系のオセット人の集団がある。面積5万km2,人口165万のダゲスタン地方は,主要民族だけで10,言語は30を数えることのできる,世界でもきわめて特異な地域である。

 ヨーロッパ・ロシア北西部から東ウラル地方,および西シベリア北部にかけてフィン・ウゴル語派に属する言語をもつ民族がいる。主要なものは西からエストニア人,カレリア人,コミ人,マリ人,モルドバ(モルドビン)人,ウドムルト人などフィン語系の民族と,西シベリアのハンティ人,マンシ人,それにネネツ人のウゴル語系の民族である。

 モンゴル系の民族には,バイカル湖の近くに住むブリヤート人と,ボルガ下流に住むカルムイク人(カルミク人)がいる。

 シベリア・極東のタイガ地帯,ツンドラ地帯には,主として漁労,狩猟(毛皮獣,海獣など),トナカイ飼育に従事している民族が多く住んでいる。上記のハンティ,マンシ,ネネツもその一部であるが,大部分はツングース語系諸族と旧シベリア諸族(パレオアジアート,古アジア諸族とも呼ばれる)である。前者には西シベリアからオホーツク海沿岸に分布するエベンキ族,アムール川下流,サハリン,沿海州に分布するエベン族,ナナイ族,ウリチ族,ウイルタ族(旧称オロッコ族),オロチ族などの民族が属し,後者にはコリヤーク族,チュクチ族,イテリメン族(旧称カムチャダール族),ニブヒ族(旧称ギリヤーク族),ユカギール族,ケート族などの民族が属する。

 インド・ヨーロッパ語族に属する言語をもつ民族には,前記のロシア人,ウクライナ人,白ロシア人(ベラルーシ人)のほかに,バルト海沿岸にリトアニア人とラトビア人,ウクライナの南に,ルーマニア人と言語・文化の面で近いモルダビア(モルドバ)人がいる。また極東地方にはユダヤ人もいる。

 なおユダヤ人はソ連で人口が減少している例外的な民族(1970年から27万人減)で,その原因は国外移住である。出国理由の社会的背景は,民族的偏見のきわめて少ないソ連人のなかに例外的に根強く残っているユダヤ人に対する伝統的な偏見である。ユダヤ人自治州が,ユダヤ人口の多いウクライナ,白ロシア,リトアニアではなく,極東のハバロフスク州に1934年に設置されたのも,その反映といえよう。

ソ連ほど多種多様な言語をもつ国はなかった。民族区分は主として言語によっているから,民族の数だけ言語があるということもできる。この多数の民族間の共通語はロシア語である。1979年の時点でロシア語を母語とする人口は1億5350万,そのうち1630万が非ロシア人であり,そのほか母語以外にロシア語を自由に使える人が6130万いた。ロシア語がソ連の共通語になったのは,相対的に高いロシア文化の担い手であるロシア人が,支配民族としてロシア全土に分布していたという帝政ロシアの文化状況を,ソ連が受け継いだからである。大部分の非ロシア民族にとっては,自民族の発展を図るにはロシア人の技術・文化を媒介とせざるをえなかったし,個人のレベルでも,エリート層に入るためにはロシア語を自由に使えることが必要不可欠であった。この個人レベルでの問題は,以後も変わっていない。こうした状況が民族的自負心を傷つけ,ロシア人に対する潜在的反感を育てている面があったといえる。

 ソ連の法律は15の連邦構成共和国の言語で公布され,裁判では連邦構成共和国,自治共和国,自治州,自治管区の言語(計53言語)か,もしくはその地区の多数住民が用いる言語で発言する権利が保障されていた。また母語で教育を受ける権利も法律で保障されており,57言語(1978)で小・中・高校の教育が行われていた。ただし,裁判と教育における母語使用の権利は,必ずしも確実に遵守されてはいなかった。

 120を超えるソ連内の言語(言語学者の間でも,方言と独立した言語との認定の基準に違いがあるため,この数は学者により,かなりの差がみられる)のうち,文章語をもつものは65であった。古くから文章語をもつ言語のうち,エストニア語,ラトビア語,リトアニア語はラテン文字を,グルジア語,アルメニア語は独自の文字をもっている。ソ連のユダヤ人の話すイディッシュ語にも独自の文字があるが,ロシア語を母語とする者が多く,またカフカスや中央アジアに住む少数のユダヤ人は現地の言語を母語としている。

 イスラム文化圏に入る民族の文章語には,かつてはアラビア文字が使われていたが,ソビエト政権下で文字改革が行われて,ロシア文字を用いるようになった。ブリヤート語,カルムイク語でかつて用いたモンゴル文字もロシア文字にかわった。十月革命後に初めて文章語ができた言語が多いが,これらはロシア文字を用いている。シベリア・極東に住む少数民族語は,革命後,1930年代初めにはラテン文字による北方統一文字が試みられたが,1937年以降ロシア文字に統一された。

ソ連では宗教統計が発表されなかったので詳細は不明であるが,最大の宗派は,帝政時代に国教であったロシア正教会である。ロシア正教はロシア人,ウクライナ人,白ロシア人の間だけでなく,モルダビア(モルドバ)人,チュバシ人,ウドムルト人,モルドバ(モルドビン)人,マリ人,コミ人,ヤクート人などの間にも広く普及していた。

 同じ東方正教会でもグルジアには別個のグルジア正教会があり,アルメニアには東方諸教会系のアルメニア教会がある。カトリックはリトアニアに,ルター派はエストニアとラトビアに多かった。ソ連の西部地方に多数いたポーランド人は主としてカトリック信者であり,カザフスタン,西シベリア南部に多いドイツ人はルター派信者であった。

 ソ連で第2の宗教はイスラムであった。そのうちシーア派はアゼルバイジャンに普及しているだけで,南ウラルのバシキール自治共和国(ソ連解体後はバシコルトスタン共和国)からカザフスタン,中央アジアにはスンナ派が普及している。カフカスのダゲスタン地方の住民もスンナ派信徒である。[住民]の章で述べたように,中央アジアの主要5民族の人口増加率が高く,さらに,アゼルバイジャン人の増加率も25%と高いため,イスラム教徒の比重はしだいに高くなっていたし,絶対数も増加していると推測している学者もいた。

 仏教(ラマ教)はブリヤート人,カルムイク人,トゥバ人の間に信者をもっている。そのほか,ユダヤ人のなかにユダヤ教が,シベリア・極東の少数民族のなかにはシャマニズムが残っている。なおソ連における宗教のあり方については,[社会]の章の〈教会〉を参照されたい。
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ソ連は,第1次世界大戦のさなかに,この戦争に対する民衆の反発を基礎にして,歴史上初めて社会主義者が全国的に権力を掌握し,総力戦下の統制経済の経験と,マルクス主義的理論に基づき資本主義社会とは原理的に異なった社会の実現を目ざした国である。この国は長期にわたり国際共産主義運動の本拠であった。そういうものとしてこの国の歴史が世界史に与えた衝撃力と影響は巨大であった。この国の歴史は,また後進国,低開発国が特定の方式で急速な工業化を成し遂げた一つの典型であるともみることができる。さらに,広大な国土に強力な国家が出現し,周辺に多くの同盟国を得て,世界第2の強国となり,その核武装によって,アメリカと並んで,人類の運命を左右しかねない存在となった。

十月革命は,ツァーリ権力に代わったブルジョアジーと穏健社会主義者の連合政権である臨時政府の行詰りの結果起こった。平和と土地と民族自治を求める労働者,兵士,農民,被圧迫民族の声の高まりを背景に,レーニンのボリシェビキは,首都ペトログラード(現,サンクト・ペテルブルグ),北西部,中部の労兵ソビエトの支持に基づいて臨時政府を打倒し,政権を掌握した。レーニンは,世界戦争から救われるために,これを生み出した資本主義体制を打倒せねばならないとして,ドイツに出現した総力戦遂行の経済体制を革命権力が実行することによって,社会主義へ向かおうとした。新政権は土地は全人民のものと宣言して,農民たちの志向に承認を与えたが,憲法制定会議を解散して,ソビエト権力の全国化を目ざし,その過程で早々にウクライナ民族主義と衝突した。人々があれほど熱望した平和を実現する努力も実を結ばなかった。即時停戦に応じたのはドイツだけで,ドイツとの講和をめぐる対立から,ようやくにしてできた左派エス・エル党との連立も解消されてしまった。

 ドイツとの過酷な講和で得たのはつかのまの安らぎにすぎなかった。農民からの強制的な穀物徴集をめぐって1918夏には左派エス・エル党と武力衝突にいたり,そのままチェコ軍団の反乱,反ボリシェビキ諸軍の行動開始,外国干渉軍の侵入を迎え,恐るべき内戦が始まった(シベリア出兵)。レーニン政権は,共産党一党国家となり,すでに実現していた全工業の国有化や穀物独裁などを基礎に〈戦時共産主義〉の経済をとり,徴兵制で赤軍を建設して,内戦に勝ち抜いた。2年7ヵ月の内戦が終わった21年のロシアは,国土の荒廃に加えて,100万人以上の死者を出す深刻な飢饉に見舞われた。しかし,1919年に生まれたコミンテルンを通じて,ヨーロッパとアジアの双方へ革命の影響は広まり,この国は〈全世界の被圧迫者の祖国〉と仰ぎみられるにいたった。

レーニンは内戦時の農民の不満をなだめるために,1921年穀物の割当徴発制に代えて現物税制を採用し,ついには商業の自由を認めるネップ(新経済政策)体制に移行した。ネップのロシアは政治的には一元主義的であったが,社会・経済的には多元主義的な体制といえるだろう。国営企業を拠点に経済の復興を図りながら,農民を説得によって徐々に集団経営へ導くことが目ざされた。非政治的なものであれば,さまざまな社会団体が活動を認められた。

 レーニンとスターリンは22年のソ連邦の成立をめぐって意見が対立した。スターリンは初め,各共和国を自治共和国としてロシア共和国に吸収する案すなわち〈自治化〉案を推進し,一方,レーニンは,ロシア共和国を含めて,すべての共和国は新しい〈同盟〉の中に同等の権利をもって加入すべきであるとする〈ソ同盟〉案を出した。その後民族問題の処理でもさらに対立し,レーニンは23年スターリンを党書記長のポストから解任せよとの指示を書くにいたった。その直後レーニンは発作を起こして廃人となり,1年後に死去した。この間スターリンはジノビエフカーメネフと協力してトロツキー派を抑え込むことに成功した。次いで一国社会主義論を採ったスターリンとブハーリンは提携して,ジノビエフ,カーメネフ派と争い,27年にはトロツキー派とも組んだこの合同反対派を完全に失脚させた。

 この対立の背景には,経済が1926年に第1次大戦前の水準にまで復興し,ネップの漸進主義に対する不満が頭をもたげているという事情もあった。27年にはコミンテルンの路線が中国で行き詰まり,戦争の脅威のうわさが国中をとらえ,穀物の調達危機が発生した。スターリン派は農民に対する強制措置を辞さず,翌28年にはシャフトゥイ事件(ドネツ炭田で破壊工作が行われたとして大ぜいの鉱山技師が逮捕され,公開裁判にかけられた事件)を機に技師・専門家への圧迫に乗り出して,工業化テンポの引上げを進めた。

ついに29年,ブハーリン派は追放され,スターリンの〈上からの革命〉が発動された。その構成要素は,(1)超高度の工業発展五ヵ年計画,(2)全面的集団化,(3)階級戦争としての文化革命,である。これらの目標は青年労働者の熱狂をかき立てつつ,強権的に推し進められた。五ヵ年計画は国の工業化を目ざすと同時に,経済の計画化を目ざすものであった。ソ連はめざましい工業国となり,一元化された国営計画経済が出現した。この中で労使関係観も変化し,労働組合は相対的自立性を失って,準国家機関化した。農業の集団化は共同体的小農経営の改造を目ざして,都市から労働者党員を送り込み,抵抗する農民をクラークとして追放しつつ,一挙に進められた。過程はジグザグであったが,数年間のうちに個人農は姿を消して,準国家機関的な農業生産協同組合コルホーズに組織された。

 文化革命は既成の学術・文化権威を攻撃し,学術・文化のボリシェビキ化を図るものであった。31年にこの動きにはストップがかけられたが,青年労働者に対する技術教育の拡大と技術者・学者文化人の,党・国家への無条件服従が生み出された。さらに,〈上からの革命〉によって労働組合以外のさまざまな社会団体も廃止されるか,準国家機関化されるか,あるいは,そのようなものとしての新団体(作家同盟など)が生み出された。こうして,共産党国家の肥大化のもとで,党と国家と社会団体の一体化,国家と社会の一元化は完成し,新しい社会体制が生まれた。34年の第17回党大会は社会主義の〈勝利〉を宣言した。大恐慌に苦しむ資本主義体制下の世界にとって,この体制は人類の未来を示す新しい文明として仰ぎみられた。国内では1932-33年の飢饉の傷跡は深刻であった。34年にかけて緊張緩和の措置がとられたが,その年の12月,新任の党書記キーロフが暗殺され,これが旧反対派の所業とされたことは,暗雲の前ぶれであった(キーロフ暗殺事件)。

35年のコミンテルン第7回大会は反ファシズム人民戦線の結成を呼びかけた。ナチズムは国際共産主義運動とソビエト国家の凶悪な敵として確定された。このときソ連は人類の希望を担っていた。しかし,スターリンの名が冠された新憲法が〈世界で最も民主的な憲法〉として36年12月に公布される一方で,ジノビエフ,カーメネフら旧反対派の幹部が〈ゲシュタポの手先〉として死刑を宣告される公開裁判が始められた。この動きは37年初めに打ち出されたスターリンの階級闘争激化理論によって加速され,トハチェフスキーら軍幹部の〈陰謀〉が6月に摘発されると,大量テロルの嵐が荒れ狂うことになった。党,政府,企業の幹部がドイツや日本のスパイとして処刑されたり,ラーゲリに送られ,そのあとは,〈上からの革命〉期に教育を受けた若い幹部が埋めた。しかし,軍の受けた打撃は簡単には埋められなかった。テロルの実相は国外へ伝わらず,公開裁判は反ファシズムへのソ連国家の決意を印象づけた。

 このテロルを通じて,スターリンの個人独裁が出現し,スターリン主義体制が完成したとみうるが,ここでできたものは〈上からの革命〉期に成立した体制に対する追加的な,第二次的な構造であったと考えるべきである。ともあれ,極度に強力なスターリンの指導の確立があったからこそ,39年8月,一転して,国是ともいうべき反ファシズムの旗を下ろして,ナチス・ドイツとの間に不可侵条約を結ぶことも可能となったのである。スターリンはソ連の国益のためにこの挙に出たのだが,ドイツがポーランドに侵入すると,ポーランド領の東半分を占領し,ドイツとの間に友好境界条約を結んだ。ドイツとの接近から得た最大の獲得物は,混乱した日本との間に日ソ中立条約を40年に結んだことであったろう。この間フィンランドとの戦争で国境地帯を割譲させ,40年には,旧ロシア帝国領であったバルト海沿岸の3国をソ連邦に併合するなど,強引な安全保障策を追求した。しかし,ついに41年6月22日,ナチス・ドイツはソ連を電撃的に奇襲攻撃した。

スターリンがこの時点での攻撃を予想せず,また正確な情報をも挑発として退けていたため,不意を打たれたソ連軍は壊滅的打撃を受けて敗走し,ヨーロッパ・ロシアの大半が年末までに占領されてしまった。しかし,ようやくソ連軍は冬将軍にも助けられてモスクワ郊外で敵を撃退した。包囲されたレニングラードはこの冬60万人もの餓死者を出しながら耐えぬいた。42年11月スターリングラード(現,ボルゴグラード)方面で反撃に転じたチュイコフVasilii Ivanovich Chuikov軍はドイツ第六軍を包囲全滅させた。43年8月,クルスクでの戦い(クルスク戦車戦)でドイツ軍との決戦に勝って以後は,ソ連軍は退却するドイツ軍に対する追撃戦に移った。東ヨーロッパを解放して,ドイツ領内に入ったソ連軍は45年4月ベルリンに入城し,5月2日ドイツ軍は降伏した。

 〈大祖国戦争〉と呼ばれるこの戦争で,戦闘員・非戦闘員あわせて2700万人がソ連の人口から失われた。国土の荒廃は言語を絶するものがあった。しかし,人々は進んでナチスとの戦いに赴き,敬服すべき勇気を発揮した。このソ連国民の闘いこそ,ナチス・ドイツを打ち破った最も重要な力であった。ドイツに対する勝利ののち,アメリカの求めで,ソ連はヤルタ協定に基づいて,ヨーロッパから軍を東へ送り,8月8日日本に宣戦布告し,満州(中国東北)の関東軍を攻撃した。これによって日本をポツダム宣言受諾に追い込んだのである。

戦後には,領土を拡大し,かつ東ヨーロッパ諸国と北朝鮮を自らの勢力圏に収めたソ連は,アメリカと並ぶ強国として,国際政治に重きをなした。米ソは協力して国際連合を創設したが,やがて激しく対立するにいたり,〈冷戦〉が始まった。国内的には,戦争中自主性を高めた民衆・知識人を再統合し,体制のゆるみを引き締めるため,ジダーノフ批判と呼ばれる,とくに厳しい知識人統制が加えられた。東ヨーロッパではソ連の意に従わないユーゴスラビアコミンフォルムから除名した。他方,国内の経済の復興はようやく進み,49年にはソ連も原爆を保有するにいたった。中国革命も成功したこの年に,国内には反ユダヤ主義的なコスモポリタニズム批判の波とレニングラード事件が起こされている。50年にスターリンは日本共産党にアメリカ占領軍との対決を命じ,北朝鮮の武力統一戦争(朝鮮戦争)を全面支持したが,どちらも成功するにいたらなかった。

 52年に13年半ぶりに開かれた第19回共産党大会で,スターリンは全世界の共産党の代表たちから偉大な指導者とたたえられた。しかし,その偏執狂的な警戒心から政治局員にも疑いをかけ,ついに53年1月ユダヤ人医師団事件を引き起こした。

その緊張の中で,53年3月3日,スターリンは死去した。独裁者の死はソ連史に大きな変化を呼び起こすこととなった。ユダヤ人医師団事件はでっちあげであったと発表されたあと,今度はそれを明らかにしたスターリンの内相ベリヤが打倒され,次いでスターリンの指名した後継者マレンコフ首相が失脚した。党の実権を握ったのは,内戦時に入党した出稼ぎ農民の子フルシチョフであった。彼は農業面の行詰りを大胆に告発して信頼を集め,処女地開墾のキャンペーンを進めた。ユーゴスラビアとの関係を改善するための訪問ののち,56年3月,第20回共産党大会で,スターリンの〈個人崇拝〉のもたらした恐るべき諸結果を暴露する秘密報告を行った。無数の人々が名誉回復されてラーゲリを出た。スターリン批判ハンガリー事件のように東ヨーロッパでの動揺を呼び起こし,それがソ連国内の再引締めを招いた。しかし,スターリン派のモロトフらがフルシチョフ追落しを策して,逆に失脚すると,フルシチョフの地位は盤石のものとなり,58年ブルガーニンから首相の職を取り上げ,党第一書記と兼任するにいたった。

 彼は平和共存を唱えて,59年にはアメリカを訪問した。61年には,第22回党大会で,〈全人民国家〉への移行を宣言し(全人民国家論),70年までにアメリカを経済的に追い抜き,80年までに共産主義を基本的に建設するという夢想的な新党綱領を採択させるとともに,第2次スターリン批判を行った。その結果,ソルジェニーツィンという無名の作家のラーゲリ小説が刊行され,大きな衝撃を与えた。こうして1960年代には,革新的で楽観主義の気分が社会の中に横溢した。

 しかし,フルシチョフの平和共存政策は中国との厳しい対立を招き,一方,62年10月にはキューバ危機でアメリカから屈辱を被り,おそらく軍部の中心に不信感を生ぜしめたであろう。他方で,農業政策も欠陥を露呈して,フルシチョフの権威を失墜させ,党機構を工業・農業担当に2分割する62年の改革は党の幹部たちから強い反発を招いた。この結果,64年10月,フルシチョフはその部下たちによって抜打ち的に辞職を強いられるにいたった。

フルシチョフに取って代わったのは,ブレジネフ党第一書記とコスイギン首相といった党と政府機構の上層幹部の代表者であった。彼らはスターリンの〈上からの革命〉で上昇し,フルシチョフの〈スターリン批判〉でテロルの恐怖から解放された人々であった。彼らはこれ以上の改革,民主化を好まず,安定的成長の方向に政策を向け直した。安定志向は民衆の要求にも沿うものであったといえる。農業政策の手直しや若干の経済改革が行われ,新年金法や週休2日制などの福祉向上の措置がとられた。民衆は私生活の自由を享受するようになった。他方で68年のチェコスロバキアへの介入を契機として,国内の改革派勢力を解体させ,私生活の枠内の自由で満足している人々以外の〈異論派〉を法によって弾圧した。軍部との関係を改善して,アメリカと対等な軍事力を構築するために軍備の拡張を進め,ついにこれを達成した。同時に,デタント政策を継続し,この面で70年西ドイツとの条約調印を果たした。第三世界に対する政策はむしろ積極化させ,アンゴラなど多くの新興国に援助を与えて,自らの影響下に置いた。ブレジネフは77年にポドゴルヌイNikolai Viktorovich Podgornyi(1903-83)から最高会議幹部会議長(元首)のポストを取り,党書記長と兼任するにいたった。この年,新しい憲法が制定された。

 ブレジネフのソ連においてはスターリン的第二次構造の除去に立って,〈上からの革命〉でつくり出された社会体制の成熟が達成されたといえよう。

 ところで,70年代には異論派が次々と国外へ追放され,そのサミズダートも国外へ紹介出版された。ユダヤ人の出国は認められ,76年までに13万人が出国した。これらの人々や出版物がソ連社会の現実を西側世界に伝えたことは,ソ連イメージの低下をもたらした。他方で安定は停滞と腐敗をも生んだ。経済成長が鈍化し,改革派が抑圧された結果,閉塞的気分が広まった。アメリカからの穀物輸入は食肉生産の拡大のため,なくてはすまされぬものとなった。腐敗はブレジネフの身内のスキャンダルという形をもとった。国際的には,アメリカ,中国,日本の3国提携に危機感を抱き,対抗的に結んだベトナム,アフガニスタンとの軍事同盟の一角を守ろうと,79年12月,アフガニスタンに軍隊を入れ,親ソ政権の擁立を図ったが,反政府ゲリラとの戦闘は泥沼化した。これを契機として,アメリカとの関係は著しく悪化した。また東ヨーロッパでもポーランドで〈連帯〉運動が起こり,その抑えこみにはかつてないほど苦しめられた。

ブレジネフは82年11月,多くの未解決の問題を残して76歳で死去した。後任となったのは,68歳の国家保安委員会議長アンドロポフYurii Vladimirovich Andropov(1914-84)である。内政も外交もこれからというところで健康を急速に害したアンドロポフは,84年2月死去した。その後継者は彼よりもさらに年上のチェルネンコKonstantin Ustinovich Chernenko(1911-85)となった。結果的には,チェルネンコは,若いゴルバチョフMikhail Sergeevich Gorbachyov(1931- )への期待を高めるだけの役割を演じて,翌年死亡した。

ペレストロイカ期モスクワ大学法学部出身のゴルバチョフは,85年3月の就任演説で〈グラスノスチ(公開性)〉を強調して注目をひいた。その年の末に早くもレーガン・アメリカ大統領と会見するなど,米ソ関係改善に対する積極的姿勢も際立った特徴であった。86年2月の第27回党大会では,フルシチョフ綱領に代わる新党綱領を採択させたものの,古い思想はなお指導部をしめつけ,経済発展の〈加速化〉戦略の誤りも明らかになりつつあった。ゴルバチョフは4月になって,〈社会生活のあらゆる部面のペレストロイカ(建て直し)〉が必要だと語りはじめ,これが4月26日のチェルノブイリ原発事故ののちに党中央委員会の方針となり,〈革命〉的改革としてのペレストロイカがはじまることとなった。まずグラスノスチが,公開性の拡大から検閲の廃止,自由言論という原意の方向に発展した。86年末にはゴルバチョフはレーガン大統領とのレイキャビーク会談で戦略核半減,戦域核全廃の提案を出して世界を驚かせた。

 87年は〈ペレストロイカ元年〉といえる。1月には,ペレストロイカが社会の民主化と不可分であることが宣言され,6月には,企業の独立採算制と自主管理制を導入する経済改革が決定された。12月にゴルバチョフが訪米し,戦域核,INF(中距離核戦力)全廃条約に調印したのは,〈新しい思考〉に基づく外交の最初の勝利であった。89年3月に行われた人民代議員選挙ははじめての自由選挙となり,エリツィンが驚異的な得票を首都で獲得した。5月末から開会された人民代議員大会の完全テレビ中継は国民を熱狂させた。ゴルバチョフは圧倒的な支持で,大統領的な最高会議議長に就任した。なお,この間89年2月にはアフガニスタンからの撤兵も完了した。

 90年2月の党中央委員会拡大総会をうけて3月に臨時人民代議員大会が開かれ,共産党の指導的役割という憲法上の規定を削除して複数政党制の導入を決め,大統領制を新設した。初代の大統領には国民の直接選挙ではなく,人民代議員大会でゴルバチョフが選ばれた。

 この大統領選出とともに,のびのびとなっていた共和国と地方のレベルの選挙が完全に自由な選挙としておこなわれた。ロシア共和国の選挙で〈民主ロシア〉が大勝し,5月に開会されたロシアの人民代議員大会で,エリツィンが最高会議議長に選ばれた。バルト3国では3月のリトアニアを皮切りに,独立宣言を採択するにいたったが,6月にはロシアの代議員大会も〈主権宣言〉を採択し,ソ連邦はもはやもとのままにはとどまれなくなった。

ゴルバチョフ書記長に忠実であった党内官僚は強い危機感をもった。8月彼らは休暇中のゴルバチョフを別荘に監禁して,クーデタを断行した(8月クーデタ)。19日副大統領ヤナーエフをキャップにした国家非常事態委員会が設置された。エリツィンのロシア政府はソ連のクーデタ政権に宣戦を布告して,戦いに立ち上がった。クーデタ派はホワイト・ハウスに立てこもったエリツィンらを押しつぶす武力が動員できず,敗北した。

 ゴルバチョフは22日にモスクワへ戻ったが,エリツィンに押されて,クーデタに加担するか,闘わなかったソ連共産党を自ら解散するほかなかった。また独立を宣言する各共和国の動きを抑えて,ソ連邦を再建することも不可能になっていた。12月ウクライナが国民投票で独立を宣言すると,エリツィンはロシア,ウクライナ,ベラルーシ3国での独立国家共同体の設置,ソ連解体を決めた協定を結んだ。ゴルバチョフはまきかえそうと抵抗したが,かなわず,91年12月25日,辞任に追い込まれ,ソ連は終焉した。
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ソ連邦は,1922年に形成され1991年末に崩壊するが,それまでは15の連邦構成共和国(ロシア,ウクライナ,白ロシア,ウズベク,トルクメン,タジク,グルジア,アゼルバイジャン,アルメニア,キルギス,カザフ,モルダビア,リトアニア,ラトビア,エストニア,以上加盟順)からなっていた。各共和国は建て前としては連邦離脱の権利を有する主権国家であり,その主権国家の合意により,ソ連邦が国防,外交,貿易,治安などをほぼ独占的に管轄し,立法,行政,経済の一般指導と単一国家予算の作成を行っていた。実際は事実上の単一国家であって,ソ連邦共産党の集権的構成,経済・文化,言語などの諸政策から各共和国の働きは限定され,むしろソ連邦への一体化,〈ソビエト民族〉への一体化・接近が図られてきた。しかしペレストロイカのもとで民族問題が噴出し,経済的分権化を図ることとも関連して,民族の自主性強化や連邦制の見直しが課題となっていたが,連邦制のあり方をめぐって対立し,1991年末にソ連邦は崩壊した。

 制度上,ソ連邦の最高権力機関は当初は最高会議Verkhovnyi Sovet SSSR,1989年からは新設されたソ連邦人民代議員大会であって,ソ連邦にかかわるあらゆる問題を審議した。これは定例,年1回召集され,その選挙は地域別,民族=地域別,および社会団体(ソ連邦共産党,労働組合,科学アカデミー,その他の全国的自主団体など)から各750名ずつ,計2250名からなっていた。選挙は18歳以上の市民による直接秘密投票であるが,89年の選挙から複数候補制が実施された。人民代議員大会は国家権力の常設立法・執行・統制機関として連邦会議と民族会議の2院からなる最高会議(各院271名)を選出したが,これは議会にあたり,年2回3~4ヵ月ずつ会期が続いた。最高会議には幹部会が設けられ,議長,第一副議長のほか,15の共和国の議長が副議長となり,このほか各常設委員会の議長なども加わり,以前の儀礼的なそれより大きな役割を果たすものと考えられた。実際,最高会議には国際問題,国防・安全保障など14の委員会(コミテートkomitet),また両院には四つずつの常任委員会(コミッシヤkomissiya)がつくられていて,法律の起草や計画の立案に役割を果たすものとされた。91年8月のクーデタ後,9月初めの臨時人民代議員大会は,独立に動く各共和国の圧力のなか,臨時の国家評議会等をつくって,自ら解体を宣言した。

 また,90年の人民代議員大会で大統領制が新設され,初代大統領にM.ゴルバチョフが選ばれた。もっとも彼は,1991年末のソ連崩壊により,最後の大統領でもあった。大統領は首相・閣僚の任免を提案し,議会を通過した法案を拒否して最高会議に差し戻す権限を持ち,軍の最高司令官で,宣戦布告,非常事態宣言を出せ,対外的には国家元首として外交交渉を主導することになっていた。法律に違反したとき人民代議員大会によってのみ解任される。大統領のもとに大統領会議(閣僚会議のメンバーなどから15人を大統領が任命)と連邦会議(各民族共和国の利害を代表する)が置かれ,政策立案や民族問題にたずさわった。なお,1988年から任期制が導入され,役職者は2期10年を超えることはできなくなった。

 権力の分割を図り,〈法治国家〉の理念のもとで司法機関の役割を高めることもゴルバチョフの政治改革の柱であり,憲法監督委員会が人民代議員大会から選ばれることが規定された。検事総長,最高裁判所長官も,最高会議議長の提案で最高会議が選んだ。このほか,大衆による行政・経済への監督と参加をめざす人民統制委員会の議長,国家仲裁本部長も同じ手続きがふまれるものとされた。

 人民代議員大会,最高会議が,ごく単純化していえば,国会にあたるとすれば,内閣にあたるのが閣僚会議Sovet Ministrov SSSRであり,これは〈ソ連邦国家権力の最高執行,行政機関〉とされたが,法律の施行のため広範な〈決定および命令〉を発した。選挙後最初の人民代議員大会で,最高会議議長の推薦により,まず首相職にあたるソ連邦閣僚会議議長が選出され,次いで最高会議において閣僚会議議長の提案にもとづいて各閣僚,国家委員会議長を含むリストが決定された。閣僚会議は企業の直接的運営を行う経済官庁を含むため,大きな権限を有し,とくに党中央委員会との合同決定の形態でしばしば重要な経済・行政上の決定を行っていた。しかし実際の運営は,党政治局員を含む15名程度の閣僚会議幹部会がその常設機関として,日常的政策決定にあたった。もっともこれは,革命後の人民委員会議Sovet Narodnykh Komissarov SSSR(1923年7月~46年3月)のように政策決定の中心であることはなく,むしろ党政治局,中央委員会が決定したことを履行する実務機関と考えられた。各閣僚も通常,政治職というより専門技術官僚が多かった。

 この下にある各省には,連邦水準にのみ置かれて,全国一律に行政,経済を担う全連邦的省と,各共和国の省を通じて間接に執行を行う連邦的・共和国的省の区別があった。各省が特定の分野ごとに組織されるのに対し,分野を横断して組織されるのが,各種の国家委員会(国家計画委員会,科学技術国家委員会など)であった。この区分は,その後ロシア連邦でも踏襲された。

 このように国家機関は,実際はソ連邦共産党,とくにその中央委員会政治局で決定されたことを執行する性格が強かった。憲法上も共産党はソビエト社会の〈政治システム,国家機構……の中核〉であると規定されていた。しかし,90年初めに党と国家とは分離されることになり,国家の党からの自立性が強調された。

 しかも党それ自体が一つの政治体制を構成しており,党書記長,政治局・書記局と党大会,中央委員会総会の相互関係は,議院内閣制の下での首相,内閣と国会とに機能的には似ていた。中央委員会機構自体が行政分野ごとに細分化されてきたが,政治改革により一般的政治指導に純化され,部も統合された。党機関がすべてを決定し,国家=行政機関はこれを履行するだけと考えるのも正しくない。

 このほか,重要な組織として,全連邦労働組合中央評議会のような労働組合や,全連邦共産主義青年同盟(コムソモール)があり,それぞれ職場,学校などに組織された。しかし,いずれも党の指導下にあって,それぞれ独自の統轄機構,利害を有し,また《トルード》紙をはじめとする宣伝手段を有していた。後者の下にはピオネールという少年・少女の組織もあった。また作家同盟など科学・文化団体,協同組合のような社会団体も,党の監督下にあった。

 次に,ソ連邦の地方の政治構造についてごく簡単に触れてみよう。ソ連邦の行政区分では通常,全連邦の下に,構成共和国,地方(クライ),州(オーブラスチ),管区(オークルグ),地区の下級単位があり,そのほか自治共和国や自治州が置かれることもある。ロシア共和国の場合,自治共和国16と自治州5をもっていた。これはその後,ロシア連邦になって21共和国ができ,自治州は一つとなった。また市は通常,州や地区(ライオン)レベルの下にあるが,モスクワやレニングラードのように行政上共和国レベルに従属した例もある。大都市の下には,地区が置かれた。これらの行政単位には,それぞれ会議(ソビエト)が形成されたが,民主集中制の原則が貫かれており,選挙制,報告義務と並んで上級機関の決定に下級機関が服さなければならなかったことは,党の組織と同様である。

 ソ連の地方政治においても共和国や州,地区の第一書記をはじめとする党官僚機構が,事実上政策決定の中心にあり,人事,動員や経済の運営に大きな役割を果たしてきた。モスクワやウクライナ,カザフなどの有力地方党書記は,しばしば政治局の有力構成員となった。党機関内部では,組織,工業,農業など各種の利害が代表されるよう構成されていた。それぞれ,ソビエトや官庁,労働組合などと相補的構造をもっていることは中央レベルと同様である。地方ソビエトの経済的権限が拡大し,議長の役割も無視できなかった。また地区のソビエトや党委員会は企業,施設,学校を指導・統制し,社会主義競争の促進や決定の履行,動員に関心を払った。さらに地方党組織が,KGBや裁判にも統制を行うことは中央と同様であった。党とソビエトの末端機関,大衆組織は,人々の教化や参加の回路として重要な役割を果たしていた。とくに党の初級組織は,企業,施設,学校などにつくられ,そこでの任務の遂行を監督し,人事などをコントロールしていた。しかし,〈法治国家〉の理念により,ペレストロイカ以後は党も〈法の下の平等〉の扱いを受けるようになった。

ソ連邦の政治構造は,とくにスターリン体制以後,共産党と国家が一体化し,各機構が絡みあった体系をなしてきた。そこにおける政策決定でもまた,党中央委員会機構をはじめとする党官僚制の役割が大きかった。有給・専任の党職員を組織する党中央委員会機構,とくに書記局を背景に,党書記長は,党の内閣ともいうべき政治局でも中心に位置した。政治局は,この党中央委員会書記局の関係者をはじめ,モスクワ,ウクライナといった地方党組織の代表者,および閣僚会議議長や,軍事・外交を含む国家行政の指導者など十数名の政治局員,およびそれに準ずる候補とから成っていた。ソ連の最高の政策決定はここで行われるのが通常であった。もっとも規約上は最高機関である党大会や,党中央委員会総会が,政治局の対立を解決した例も,1957年の反党事件やフルシチョフの失脚のように皆無ではなかった。

 政治局は通常は週に1回程度開かれ,党と政府の重要議題を審議したが,その内容は外交上の決定から,靴の生産,小説の公表の許可にまで及んだ。また,特定の問題については政治局の下に特別の小委員会が置かれることもあった。政治局には名目的な議長職はなかったが,党の書記長が大きな発言力を有した。党に対して独裁的支配を行ったスターリンの死後には集団指導体制が強調され,フルシチョフ(当時は第一書記)の退陣後は,書記長と閣僚会議議長との兼職が行われなくなった。その後新たに党の書記長が最高会議幹部会議長を兼務する形がブレジネフ時代に現れた。ゴルバチョフ時代には当初このポストは分離していたが,1989年新設の最高会議議長(元首)に,90年にはやはり新設の大統領(元首)に党書記長兼務で就任した。

 共産党は1921年以来分派・グループを禁じ,スターリン時代には反対派も存在しなくなったこともあって,政治局での討論内容や意見・利害の対立は必ずしも判然とはしなかった。それでもフルシチョフ時代には中央委員会総会の議事が公開され,アンドロポフ書記長になって政治局の議題が公表されるようになった。分派の禁止は政策をめぐる対立を表面化させない効果をもつが,かわって党,国家での主要人事が党機関の有するノメンクラトゥーラ(指名職名表)によって上から行われ,党内部での選挙制は意味をもたないため,登用を介して非定型な人間関係ができやすかった。ソ連で指導者の〈個人崇拝〉や縁故主義,主観主義がときに問題化した理由である。

 しかし党中央委員会内部には,重工業,イデオロギー,軍事,外交といったように,強い制度的利害が表出されている分野も存在した。これらの利害関係が固定化すると一種の利益団体として機能した。また外交,法律,経済など専門家の比重が高まり,政策決定が制度化,合理化される傾向もみられた。したがって〈党の指導的役割〉が社会,国家の各領域ごとにどの程度の比重をもつかについては,各分野の発達の歴史的経緯によって異なった。

 とくにスターリン時代の重工業化政策は,膨大な技術者,労働者を含む中央集権的指令経済構造を生み出し,その後の発展の型を規定した。これにはフルシチョフが〈鉄食い〉と述べた軍産複合体の保守的利害も微妙に絡みあっていた。このためスターリン以後,消費財や農業,畜産への重点の移行がマレンコフやフルシチョフなどの指導者によって唱えられたが,実効性に乏しく,フルシチョフの地方国民経済会議による分権化は失敗した。その後もコスイギンらによる経済改革など,企業や〈合同(オブエジニェニエ)〉レベルに決定権限を移す試みが成功しなかった理由には,各種の集権的機構の制度的利害からの抵抗が考えられる。もっとも,工業化自体は合理的な志向をもつ技術者などを生み出したわけであり,分権化を要求するのもこのような層であった。

 これとの対比でいえば,農業部門は工業化政策の犠牲となってきた。このため農業関連の制度的利害は,多くの場合過小に反映されがちであり,指導部は,大きな抵抗もなく農業政策の転換を行うことができた。しかし,その転換が地区党委員会やコルホーズにより履行される制度的保障もまた十分には存在しなかった。他方,農業投資が増加し,その優先順位をめぐって,伝統的農業地域,シベリア,中央アジア,非黒土地帯などの各関係者が競い合う局面もみられた。これらは工業部門でもみられたが,一種の民族的争点とも関連して,ソ連における政治の重要な側面となっていた。

 またソ連ではイデオロギー部門の比重も大きく,かつスターリン主義の保守的影響がこの部門に残ることになった。そのため小説や歴史論文,映画や演劇の発表までが政治的争点となりがちなことは,ソルジェニーツィンらの事件で知られていた。このため1960年代後半からは創造的な知識人らはネオ・スターリン主義の台頭に抗議して,民主化運動,異論派運動を育ててきた。クリミア・タタールやユダヤ人のような民族運動,宗教運動,人権運動,自由労働組合運動などは,党や国家の定めた枠の外にも広がり,緊張緩和政策のもとで国際的争点ともなった。当局はこれに対し刑法90条や190条の〈反ソ活動〉を理由に取り締まり,活動家や知識人の市民権剝奪を行った。しかしイデオロギー的宣伝の効果はしばしば両義的であり,市民が不満を訴える根拠を提供することもあった。特定の機関や職員に不満が生じた場合には訴願を受け付けることも党中央委員会をはじめとする党機関の役目であった。また〈ブレジネフ憲法〉58条は公務員の不法行為に対する市民の損害賠償請求権を規定し,国家と市民との利害の不一致を間接的に認めた。グラスノスチ(公開制)のもとで意見の多元性が公認されて以後,宗教など異論が認められ,多様な意見への寛容がすすめられた。ペレストロイカ期には,ヤコブレフの下の宣伝部が,もっとも〈反社会主義的〉と評された。

 そのほか軍事部門もソ連の政治では無視できなかった。ソビエト権力の初期には,党の支配がフランス革命のように軍人により倒されることへの懸念もあり,赤軍には通常の党組織に加えて各種の政治的指導・統制の回路があった。中隊以上に設けられる政治部は党中央委員会直属であった。宣戦布告や動員,軍の最高統帥部人事は大統領の権限であり,大統領が発案して国防会議が具体的決定を行った。これは同時に軍需関係の省への指導も行ったが,閣僚会議にも軍事工業小委員会があった。KGBも国境警備隊を組織し,軍事的機能を有した。民間の防衛協力組織も党の指導下にあった。またソ連軍は,ワルシャワ条約機構を通じて東欧での軍事,治安にも関心を払うほか,国内の農業活動に動員されることもあった。ブレジネフ時代にソ連軍は増強され,アメリカと対等の軍事力をもつようになったが,その後ペレストロイカのもとでこれが否定され,〈防衛のための防衛〉〈合理的十分性〉の原則に従って軍縮に向かった。軍事産業の民需への転換もペレストロイカの柱となった。
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ソ連邦の裁判所は,ソ連邦最高裁判所と連邦を構成する各共和国の裁判所(共和国最高裁判所,州(地方)裁判所,人民裁判所)および軍法会議からなっていた。ソ連のすべての裁判官は選挙によって任命され,彼らは選挙人または自分を選出した機関に対し報告義務を負い,リコールされうる立場にあった。裁判官と人民参審員は独立であり,法律だけに従うとされ,いかなる国家機関も裁判過程に干渉することを許されず,そのことが社会主義的適法性の遵守にとっての保障とみなされていた。しかし,法制上のこうした要請は司法の実態には必ずしも結実しなかった。〈電話法〉といわれた行政機関や共産党の機関から電話で具体的な裁判に関連して担当裁判官に〈指示〉や圧力が加えられ,裁判が政治や〈縁故〉によって影響される状況が少なくなかった。ペレストロイカは,そうしたソ連司法の実態を知らしめ,その改革の必要を説いた意味で,法治国家(法の支配)の実現をめざすという司法改革にとっても大きな画期をもたらした。

こうしたソ連の裁判所制度は,1917年の十月革命によって旧裁判所が廃止され,地方ソビエト選出による裁判官と人民参審員からなる人民裁判所(民事・一般刑事事件を審理)と革命法廷(反革命・重要刑事事件を審理)が組織されたことから出発した。前者は県単位の人民裁判官大会が選出する人民裁判官会議を,後者は全ロシア中央執行委員会のもとに破棄審を,それぞれ上級審としていた。当時,きわめて短期間ではあったが,だれでも告訴人,弁護人,訴訟代理人になれるという〈全市民的訴追・弁護制〉が試みられたことは興味深い。

 ネップ(新経済政策)に移行した22年以後の司法改革により,裁判所制度は一元化され(軍法会議等の特別裁判所などを除いて),すべての裁判所の活動を統轄する最高裁判所が設置された。その結果,人民裁判所-県裁判所-最高裁判所という体系(三審制ではなく破棄手続による二審制)が成立した。22年には,集権的な検察機構が設立され,刑事事件における公訴人としての機能だけでなく,国家活動を適法性の観点から監督する〈一般監督〉機能をもった。ほぼ同時に,社会団体としての弁護士会も組織された。その成立は,当時急速に進んだ法典編纂(民訴法典,刑訴法典を含む)と密接に連動したものであった。36年のソ連憲法(スターリン憲法)は,裁判官の独立をうたうとともに,人民裁判所からソ連邦最高裁判所にいたる新しい選挙制の裁判所体系(ソ連崩壊まで基本的に維持)をうちたてた。しかし,当時の裁判の実態は,刑訴特例法でテロ事件,反革命事件などの被告から弁護権,上訴権が奪われるなど,憲法上の原則にも,適法性の原則にも反する重大な問題をかかえており,その克服は,56年第20回党大会の〈スターリン批判〉後にもちこされた。

1991年まで存在したソ連の司法制度は,60年代の諸改革を経て,77年憲法制定後の法改正によったものである。裁判所体系の基層は,地区(市)人民裁判所で,各選挙区で直接・平等選挙,秘密投票で選出される裁判官(任期5年)と,職場または居住地ごとの市民の集会において公開投票により選出される人民参審員(任期2年半)とからなっていた。検察官,弁護士には特別の法曹資格(弁護士の場合,高等法学教育を修了し,2年以上の法律専門職の実務経験を積み,3ヵ月以下の試験期間を要する。実務経験がないか不足する場合,半年ないし1年以下の修習制度がある)を要求されるが,裁判官には特別の資格は要求されることはなかった。定数は各地区(市)ソビエトが定めるが,通常,裁判官は5~8名,人民参審員は裁判官に1名つき75名であった。

 人民裁判所に対する上級審は,州,津法,自治州,自治管区,モスクワ,レニングラード両市(自治共和国最高裁判所も同格)に組織された。そのすべての裁判官と人民参審員は,それぞれに対応する人民代議員ソビエトにより選挙された。(任期5年)。これら州,地方などの裁判所は,民事部,刑事部,おろび幹部会からなり,同一地域の人民裁判所から任意の事件を引き取り,第一審として審理することがあるとともに,人民裁判所の判決に対する上訴(または告訴)を第二審として審理を行った(ここには,人民参審員は加わらない)。この第二審はソ連に独特なもので破棄審と呼ばれた。幹部会は,監督審(確定判決につき,異議申立てに基づく再審理)審理と再審および人民裁判所の裁判官の規律違反事件の審理を担当した。

 共和国最高裁判所は,各共和国内の最高裁判機関で,全裁判所の活動を監督した。この判決は,監督審手続による再審理の余地を残すのみで,大多数の民事・刑事事件の最終審であった。またソ連邦最高裁判所は,ソ連邦全体にわたる裁判権をもち,全裁判体系の最終審であった。これらの最高裁判所の裁判官,人民参審員は,該当する最高会議(〈最高ソビエト〉とも訳される)により選出され(任期5年),民事部,刑事部,幹部会,総会から成っていた。最高裁判所もまた,とくに重大な事件と下級審の任意の民事事件を第一審として審理することがあり,第二審(破棄審),監督審,再審を行った。総会(人民参審員は加わらない)は,問題別に,法令をどのように解釈すべきかという〈指導的説明〉を採択し,裁判所活動の統一を図るという機能を果たしてきた。この〈指導的説明〉は拘束力をもたず,裁判所を拘束する有権的解釈は,最高会議幹部会の権限に属していた。ソ連邦最高裁判所は,いわゆる違憲立法審査権はもたないが,立法的解決の必要な問題について提議権を行使することができた。また,この裁判所には,その他に軍法会議の最終審としての軍事部があった。

 なお,ソ連では法人間の財産事件は国家仲裁機関が,職場での労働紛争は労働紛争処理委員会(人民裁判所でも扱う)が解決にあたってきた。また,職場,居住地での軽微な犯罪などは同志裁判所が,少年事件は未成年者問題委員会が,社会的自治機関として問題の解決にあたってきた。

 ソ連の検事は,単に刑事訴訟だけでなく,民事についても当事者に代わって訴えを行い,民事訴訟に参加し,民事・刑事事件の確定判決について異議申立ての権利をもつという独特のものであった。また,ソ連邦検事総長を頂点とする中央集権制をとり,地方の検事は,ソビエト諸機関から完全に独立していた。弁護士は,弁護士会の一員(法律相談所を通じ)として活動するが,刑事事件では起訴段階以後にその活動が限定されており,改善を求める声も強かったが,その実現はソ連の崩壊直前まで着手されなかった。企業,国家機関,労働組合には専門職としての法律顧問がおり,弁護士は直接市民とのみかかわることになるが,弁護士会の自治はかなり認められているといえよう。

社会主義の〈再生〉をめざしたペレストロイカは,司法分野でも多くの改革の方向を提示した。その最大のものは,従来は否定されてきた憲法裁判制度を導入したことであろう。

 改革の試みは,ソ連崩壊前の1980年代末から着手されるが,実際にその制度化がすすむのはソ連の崩壊後になってからといってよい。ここでは,ロシアを例にとって現在の司法制度の概観だけを示しておくことにする。

 まずロシアの裁判制度は,連邦レベルに(1)連邦憲法裁判所,(2)連邦最高裁判所,(3)連邦最高仲裁裁判所の三つの裁判所をおき,普通裁判所の系列では,連邦最高裁判所の下に,ロシア連邦を構成する共和国・州・地方・連邦直轄都市(二つ)に共和国最高裁判所,州裁判所,地方裁判所,市裁判所が同等の位置にあるものとして設置され,その下に市裁判所,地区裁判所または複数の自治体にまたがる間自治体裁判所という日本の地方裁判所にあたる裁判所(かつての人民裁判所)がおかれている。名称は別にして,新しい制度としては,帝政時代にあった治安判事制の復活,陪審制の導入があげられ,第一審では陪審員の参加するもの,人民参審員の参加するもの,または裁判官の独任制もしくは3人の合議制などの複線的な審理のあり方がとられるようになっている。

 仲裁裁判所は,かつての行政機関としての仲裁機関を裁判機関化したもので,最高仲裁裁判所の下に連邦全体を10の管区に分けてそれぞれに管区仲裁裁判所をおいている。

 憲法裁判所は,ソ連末期の憲法監督委員会の経験をも踏まえて,ロシアで1991年に設置されたもので,旧ソ連諸国の大半の国でも導入された新しい制度である。連邦の法律や大統領令,政府決定,さらには連邦構成主体の定める法令の合憲性を判断し,憲法秩序と人権の擁護を課題とするもので,市民も申立てを行うことができることとされており,すでにいくつかの違憲判決も下しており,立憲主義・法治国家の実現にむけてその役割が期待されている。こうした裁判制度の改革とともに,憲法に人権思想を取り入れ,刑事訴訟手続における市民の権利・自由の擁護を手厚くした。被疑者・被告人が,逮捕時から弁護人依頼権を保障されることなどがその代表例である。また,司法による人権保障制度の改革とともに,人権オンブズマンの制度を新たに導入したことも注目しておいてよい。
社会主義法
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十月革命は本来,単に国内体制の変革にとどまらず,既存の国際関係のラディカルな組替えをも含意していた。ボリシェビキ指導者は,ロシア革命が西ヨーロッパ先進国の革命によって支援されない限り生き延びることはできないと確信していたからである。したがって,1918年11月のドイツの無条件降伏に続く中部ヨーロッパの激動は,帝国主義の戦線の全面的崩壊を予告するものと受け取られ,19年3月に創設されたコミンテルンには,世界革命の参謀本部の役割が期待された。しかし実際には,先進国で革命は起こらなかった代りに,ソビエト権力も孤立したままで存続しうることが明らかになり,ソ連邦と外部世界との間に,〈不安定ながらも一定の均衡〉(レーニン)が成立した。この特殊な均衡状態から不安定要素をできるだけ取り除くことを任務とした〈共存〉外交がここに登場する。伝統的外交の復権でもあった。

 しかし先進国革命への強い期待が残っている限り,国際体系の現状承認を前提とする外交は,まだ本来の機能を完全に取り戻すことはできなかった。事実,通常の外交業務を担当する外務人民委員部の活動が,コミンテルンの活動と競合し,効果が減殺されるようなことも,初期にはまれではなかった。ソビエト共和国とドイツ間の正式の外交関係を確立したラパロ条約(1922年4月)までの両国関係のたどったジグザグの道は,このような二元性の反映でもあった。

 ソ連外交につきまとっていたこの種の不透明さは,スターリンの〈一国社会主義論〉の成立をまってある程度解消された。ソ連一国だけの努力で社会主義を建設できるとするこの理論は,あくまで先進国革命に固執するライバルのトロツキーの〈永久革命論〉に対抗して打ち出されたが,同時に24年以降の資本主義世界の相対的安定期におけるソ連を取り巻く国際環境の顕著な変化に対応するものでもあった。すなわち24年には,イギリス,フランス,イタリアなど列強のソ連承認が相次ぎ,日本も翌25年その後に続いた(ただしアメリカはだいぶ遅れて1933年。表2)。

 こうしてスターリンの理論は,ロシア革命の長期の国際的孤立のもとでの生残り戦略であり,当然そこでは対外活動の重心はこれまで以上にソ連の国家的安全保障に置かれることになった。外務人民委員部とコミンテルンの対抗関係は,後者の前者への従属という方向でしだいに解消されていった。20年代末からソ連は,対外政策の分野でははっきりと現状維持に転じ,周辺の国々との中立・不可侵条約網を広げ,外からの干渉の危険を排除することに努めた。しかし,いわゆる〈資本主義による包囲〉が続く限り,このような消極的安全保障には限界があるから,積極的安全保障,すなわち自力防衛の方法にも努力を怠らなかった。28年に始まる五ヵ年計画のおもなねらいは,国防力の基礎となる重工業基盤の創出であった。

 33年1月,ドイツにおけるナチス政権の出現は,満州事変以来ソ連の極東国境に対する重圧となっていた日本の動きと相まって,ソ連にとって重大な脅威を意味した。しかし資本主義世界が現状維持と現状打破の二つの国家グループに分裂したことは,ソ連に前者の側に立って集団安全保障の理念の使徒として活躍するチャンスを与えた(1934年11月,国際連盟加入)。ソ連のデモクラシー諸国への接近政策は,35年夏のコミンテルン第7回大会で決定された〈人民戦線〉戦術で補強された。しかし新路線も,起源からみれば,コミンテルンの自主的判断が一定の役割を果たしたことは確かであったが,実践の過程でソ連外交の必要に適合させられ(たとえばスペイン内乱中の反スターリン左派勢力の粛清),結局は状況を切り開くダイナミズムを失っていった。他方,イギリス,フランスの採った宥和政策の頂点たる38年のミュンヘン協定ミュンヘン会談)は,ヨーロッパの安全保障システムからのソ連の排除を明らかにした。ソ連外交の方向転換はここに不可避となった。39年の独ソ不可侵条約はその回答であった。同時に結ばれた〈秘密議定書〉に見られるように,スターリンはいまや露骨な〈権力政治〉の道に踏み出した。すなわち,第2次世界大戦の勃発に際してソ連は,さしあたり局外に立って,北はバルト諸国から南はベッサラビアに至る近隣諸国を犠牲にした領土拡張を追求したが,反面ドイツからの侵略の可能性を過小評価する誤りを犯した。41年6月,ドイツの対ソ攻撃とともにソ連,アメリカ,イギリスの共同戦線が構築され,〈大同盟〉は枢軸国に対する勝利の原動力となった。45年,ヤルタ会談での秘密協定を受けてソ連は8月,日本に宣戦した。

 戦後,スターリンは少なくとも47年半ばころまでは,国内復興のための米ソ経済協力,その前提としての米英ソ三大国中心の平和維持にそれなりに関心をもっていたようである。しかし,トルーマン・ドクトリンマーシャル・プランによって米ソ協調の望みが断ち切られると,スターリンはコミンフォルムの創設に始まる東ヨーロッパの衛星国化を強行し,また東側陣営の自己幽閉を推し進めた。〈冷たい戦争〉はインドシナ,朝鮮半島では〈熱い戦争〉に転化した。

53年3月のスターリンの死は,ソ連に革新の風を導入するきっかけとなり,対外政策の面では,53年から56年にかけて,朝鮮とインドシナにおける休戦協定(朝鮮戦争インドシナ戦争)の促進,ジュネーブ会議への参加,ドイツおよび日本との国交回復,コミンフォルムからの破門以来,完全に冷えきっていたユーゴスラビアとの関係改善など,多彩な〈平和攻勢〉が展開された。56年2月の第20回共産党大会でフルシチョフ第一書記は,帝国主義が続く限り戦争は不可避であるとするレーニン以来の命題を否定し,核時代における平和共存に至高の価値を認めた。またアジア・アフリカ新興国の中立主義に眼を向け,援助を通じて影響力の伸長を図るようになったのもこの頃からであった。しかし第20回党大会で一挙に表面化したスターリン批判は,東欧諸国で混乱を引き起こし,秋にはハンガリーで発生した反政府暴動の鎮圧にソ連軍が投入されなければならなかった(ハンガリー事件)。さらにスターリン批判は,中ソ間の潜在的対立要因に火をつけることになり,当初の党レベルでのイデオロギー論争は,60年代には国家間関係に跳ね返るようになった。

 〈冷たい戦争〉からの軌道修正も決してスムーズにはいかなかった。1959年秋のフルシチョフの訪米を経て,翌年5月に設定された東西首脳会談はU2型機事件によって中止され,架空の〈ミサイル・ギャップ〉を理由に軍備増強に踏み切ったケネディ民主党政権のもとで,米ソ関係は62年秋のキューバ危機によって,ついに核戦争の瀬戸際にのぞんだ。しかし危機は,核大国としての米ソの責任を両国指導者に痛切に意識させることになり,核戦争の防止というミニマムの共存条件について暗黙の合意が生まれた。

フルシチョフ時代のソ連は軍事力でアメリカに近づき,第三世界にいくつかの足場を築くことに成功していたが,64年10月に成立したブレジネフ政権は,この遺産を引き継ぎ,さらに世界の大国への成長を助けた。その対外政策は,国内政策と同じく慎重な保守主義で際だっていた。その見本は東ヨーロッパにおける政策である。1956年以後,ソ連は東ヨーロッパ諸国に相対的により大きな自主性を認めるようになっていたが,68年春,チェコスロバキアで〈人間の顔をした社会主義〉を目ざす実験が始まると,しだいに警戒心を強め,ついに8月,ソ連・東欧5ヵ国軍隊を進攻させて改革の動きを圧殺した。そして個々の社会主義国は社会主義共同体全体に対し責任を負っているという〈制限主権論〉(またはブレジネフ・ドクトリン)を定式化した。こうしてソ連は,社会主義体制の〈自由化〉には絶対的限界のあることを明示した。いずれにせよチェコスロバキア事件はプロレタリア国際主義の理念を蹂躙(じゆうりん)し,共産主義運動の〈多中心化〉を促進し,中ソ関係をさらに悪化させた(1969年3月,ウスリー川で中ソ武力衝突)。

 一方,東西関係の分野では,69年に入ってから,対決より交渉のスローガンを掲げたアメリカのニクソン共和党政権の発足,西ドイツのブラント政権による〈東方政策〉の展開によって,ソ連が戦後求め続けてきた東・西ヨーロッパの現状承認の見通しが開け,また米ソ関係の改善を軸に,いわゆるデタントの時代が開幕した。75年7月,アメリカ,カナダを含むヨーロッパ35ヵ国のヘルシンキ会議とそこで採択された最終文書は,デタントの輝かしい里程標であった。ソ連はすでに70年代初め,〈いまやソ連抜きで解決できるような重要な国際問題はない〉(グロムイコ外相)と言いきるまでになっていたが,この自信を支えていたものは,72年5月の第1次戦略兵器制限交渉によって確認された米ソ間の戦略的均衡の達成であった。この均衡を背景に,ソ連はアメリカ,西ヨーロッパ,日本との政治的・経済的関係の改善に努めた。ソ連のねらいは,米中接近を牽制し,西側工業国からの資本・技術の輸入によって経済的発展を維持することであった。しかしソ連は,国際政治の中心部におけるデタントは周辺部までカバーすべきであるとするアメリカ側の解釈を受け入れなかった。第4次中東戦争の後,一時,中東問題での発言権を失ったかにみえたソ連は,アフリカでは,76年から77年にかけてアンゴラ,エチオピアに大量の軍用資材を送り込み,親ソ政権をもり立てることに成功した。

 第三世界におけるソ連のこのような行動は,着実な軍備増強と相まって,西側諸国を警戒させることになり,78年の日中平和条約,79年の米中国交正常化を経て,逆にソ連の孤立化が深まった。79年クリスマスに始まるソ連軍のアフガニスタン侵攻は,伝統的な勢力圏の外での初めての大規模な武力行使として,東西関係を一挙に凍りつかせた。しかし介入は,この孤立化に伴う危機感とアフガニスタンにおける親ソ政権の消滅への不安から出た応急策であり,地政学的動機に促された計画的なものではなかった。それまでのソ連の第三世界における活動も,現地の諸条件の中から生じた機会につけ込むという意味で受動的であり,あらかじめ立てられた戦略デザインに基づくものではなかったとする見方が一般的である。

 しかしアフガニスタン事件を境に一挙に高まった〈ソ連脅威論〉を背景とした国際緊張のエスカレーションに対し,ソ連は量的な意味での対米戦略的均衡を機械的に追求するだけにとどまり,大韓航空機撃墜事件(1983)にみられるように国際世論から自らを孤立させた。ブレジネフ時代末期の内外政策の〈停滞〉を打破するためには,若く行動力あるゴルバチョフ政権の登場(1985年3月)を待たねばならなかった。

新政権の優先的外交課題は,もはや一刻の猶予も許されなくなったソ連社会のラディカルな改革〈ペレストロイカ〉のために有利な国際環境の創出と維持であった。ここにこれまでとは異質な国際政治観が〈新しい思考〉の名のもとに説かれるようになった。これは現代世界の相互依存関係に立脚して,安全保障の分野では軍事的手段に代えて政治的手段を重視し,核,南北問題,あるいは生態学的危機のような〈グローバルな諸問題〉に対して体制を超えた共同の取組みの必要を力説する立場である。こうして軍備管理交渉における柔軟姿勢,一方的軍縮措置の実施,首脳会談方式の活用,第三世界へのコミットメントの縮小など,ソ連外交は着々と成果をあげているかのようにみえた。しかし一国の対外的地位が究極的にはその国が代表する道義的,経済的価値に依存する以上,年を追って深まる一方の国内体制の危機は,ソ連外交の作用範囲をいや応なくせばめ,最後にはソ連邦の解体とともに,ソ連外交はロシア外交へと主体を代えた。

 しかし1989年末までには明らかになった冷戦の終結にとって,〈ゴルバチョフ外交〉が決定的役割を演じたことは忘れてはならない。

もともとボリシェビキにとって,軍隊は支配階級に奉仕する暴力装置であり,革命によってまっさきに解体されるべき対象であった。そこで,ロシア革命を取り巻く状況が,革命政権もまたみずからの軍隊を組織することを余儀なくさせたとき,具体的な青写真はまだなかった。こうしてソ連軍の草創期の歴史は文字どおり試行錯誤の連続であった。

 二月革命後,ボリシェビキは工場単位で赤衛隊を組織する一方,正規軍部隊内での宣伝活動を展開した。11月8日,革命権力の成立を宣言した第2回ソビエト大会は陸海軍問題委員会の設置を決議したが,翌18年初め,労働者農民赤色陸軍(赤軍)および同海軍(以下便宜上,両軍併せて赤軍と呼ぶ)の創設と軍事問題人民委員部の新設が布告された。ペトログラード(のちレニングラード,現サンクト・ペテルブルグ)の赤衛隊と守備隊を母体とする志願制の最初の赤軍部隊がペトログラード南方でドイツ軍の進撃を食い止めた2月23日は,のちに陸海軍デーと命名された。4月以降になると,連合国側からの軍事干渉の重圧が加わって情勢はいっそう厳しさを加えたため,やがて革命の理念に反して徴兵制を施行せざるをえなくなり(ただし兵役義務は労働者と農民に限定),赤軍の兵力は10月末までに80万,1年後には300万に増大した。統帥系統では,18年末に労農国防会議が既設の革命軍事会議(RVSR)の上位に置かれ,野戦参謀部が作戦の指導に当たった。

 当時の赤軍にとって最大の難問は,階級的ないしイデオロギー的純粋性と戦闘効率とを,いかにして両立させるかであった。RVSR(議長トロツキー)の採った応急策は,旧帝政軍の将校を〈軍事専門家〉として赤軍に編入し,その政治的目付役としてコミッサールを併せて配置することであった。イデオロギーか,専門的知識・技術かのジレンマは,その後も長く尾を引くことになるが,このほかにも組織原則(正規軍対民兵)をめぐる論争があり,いずれも赤軍誕生時の事情に起因する。

 ソビエト政権は20年の終りころまでには軍事的危険から脱し,軍隊の復員も始まった。23年秋には平時編成に戻り,兵力は51万6000人まで縮小した。24年から25年にかけて,いわゆる〈軍制改革〉によって,民兵・正規軍混成制への移行が進んだ(1928年には民兵師団は全体の56%を占めた)。25年に起きたもう一つの大きな改正は,作戦・訓練の分野で指揮官をコミッサールの後見から解放する〈単独責任制〉が導入されたことである。コミッサール制の実質的廃止に等しいこの改正は,軍における党員の増加ということで正当化された。

30年代は赤軍にとって第2の変動期であった。1928年に始まる第1次五ヵ年計画の優先目標の一つは,赤軍装備の近代化であった。20年代半ば以降,党の正統理論となった〈一国社会主義論〉と裏腹の関係にあったのが自力防衛の立場であり,これは当然に軍事力の重視につながってゆく。いまや赤軍が革命の軍隊から国家の軍隊へと変貌するのは避けられなかった。いずれにせよ工業化の成功は軍備面での目ざましい進歩を可能にし,世界にさきがけて機甲部隊や空挺部隊が編成され,北洋艦隊および太平洋艦隊も新設された。物量と機動力を組み合わせた縦深作戦という,当時としては破天荒な戦術理論が生まれたのも,工業化の成功がその背景をなしている。軍での階級制が復活し,RVSRに代わって国防人民委員部が設けられ,構成も正規軍本位に戻った。30年にはすでに全狙撃師団のうち正規師団は77%を占めるまでになった。プロフェッショナルの時代が始まったわけである。

 しかし順調に伸びつつあった赤軍に突如スターリンの粛清が襲いかかった。37年5月にコミッサール制が再導入された直後,トハチェフスキー元帥以下,最高首脳7名が逮捕され銃殺刑に処せられ(6月),これを合図に粛清は赤軍内部に荒れ狂い,その犠牲者は全将校団の5分の1に達した。とくに将官クラスへの打撃は甚大であった。赤軍戦力の大幅な低下はおおうべくもなかった。

 第2次世界大戦が勃発すると,ソ連はただちに兵役法を改正して従来の階級的出自による差別を撤廃し,さしあたり中立を維持しつつ赤軍を矛として防衛空間の確保の意味も持つ版図の拡大に努めた。しかしフィンランドとのソ・フィン戦争は,赤軍の士気の停滞と戦闘能力の欠陥を暴露したため,単独責任制への復帰,将官・提督制の復活,機甲軍団の再編成などの応急措置が相次いで実施されたが,態勢の立直しが整わないうちに,41年6月22日,独ソ戦を迎えた。不意をつかれて,緒戦時には敗走を重ねた赤軍は,やがて反撃に転じ,4年に及ぶ死闘を勝ち抜いた。45年8月,ソ連は日本に対し宣戦し,極東赤軍は日本軍を圧倒した。戦争終結時の赤軍総兵力は1136万5000人に達していたが,48年までには287万4000人に縮小された。

 戦後の再建過程は同時にスターリンの専制支配の再確立の過程であり,軍(1946年に赤軍はソ連軍と改称。国防人民委員部および海軍人民委員部は統合されて軍事力省となり,50年に陸軍省と海軍省に分離され,53年に再統合されて国防省に改編)も〈個人崇拝〉のもとで窒息し,核時代(ソ連の原爆保有は1949年)という新しい軍事技術的環境に対応した軍事理論の発達は押しとどめられた。

53年3月のスターリンの死とともに,ソ連軍の歴史も新しい段階に入った。まずスターリン時代に着手されていた研究・開発プロジェクトが一斉に開花し始めた(1953年8月の水爆実験,57年8月の大陸間弾道弾(ICBM)実験など)。54年から57年にかけては核兵器・核戦争に関する討論が公然と行われるようになり,また独ソ戦の経験を一面的に絶対化したスターリン軍事理論は否定された。フルシチョフは,核兵器の抑止力を全面的に信頼し,結局は実行されなかったが,民兵制度の復活すら示唆するほどであった。59年12月には戦略ロケット軍が新たに設けられた。

 64年10月の政権交替は,軍事政策に本質的ななんらの変化をももたらさなかった。ただし60年代後半にはNATO(北大西洋条約機構)の柔軟反応戦略に対抗して,通常局地戦争から全面核戦争にいたるあらゆる事態に対処できる準備の必要性が強調された。70年代に入ると,第1次戦略兵器制限協定が象徴する対米戦略的均衡の実現を足場に,ソ連はアメリカとの対等性の名のもとに軍事力の国外展開能力を重視するようになった。遠洋海軍力の育成,アンゴラ,エチオピア,あるいはアフガニスタンへの介入は,この能力の実現をある程度立証している。同時に軍事力増強が西側諸国に与える衝撃を和らげるため,ソ連指導者は70年代末から,戦略的優位の追求という目標を一貫して否定し続けてきた。しかしソ連は〈対等で同一の安全保障〉の原則にあくまで固執し,アメリカもまた〈力の立場からの交渉〉の構えを崩そうとしないため,両国の接点は容易に見いだせないままであった。

ペレストロイカ期

1985年のゴルバチョフ政権の登場以来,ソ連軍もまたペレストロイカの渦に巻き込まれ,大きな転機に立たされている。ゴルバチョフ政権のもとで打ち出された〈新しい思考〉は,なかんずく国家的安全保障の問題と深くかかわっているからである。その具体的表れが〈合理的(防衛)十分性〉や〈防衛的軍事ドクトリン〉という概念である。

 たしかにこれらの概念は基本的に相対的な量を問題にするために,一義的な定義に到達することは容易ではなく,したがって軍事問題における保守派の抵抗の余地が残っている。しかしそれでも中距離核戦力(INF)全廃条約(1987年12月調印),アフガニスタンからのソ連軍の完全撤退(1989年2月),89年に始まる50万人にのぼる一方的兵力削減計画など,たんに軍事費の重圧の軽減にとどまらない,発想の転換の端緒を感じさせた。しかし,改革派が軍の〈聖域〉に踏み込めたのは,永年の特権に守られてきた軍の一時的脱力感のおかげであった。したがってペレストロイカの波が保守派によっておしとどめられるようになると,力を背景に巻き返しの先頭に立つ将軍たちの出現はさけられなかった。この動きにピリオドを打ったのは,やはり91年夏のクーデタの失敗であった。

ソ連軍の統帥機関には国防会議,中央軍事会議,参謀本部があった。国防会議の存在は76年に初めて明らかにされたが,議長たる共産党書記長のほか数名の政治局員(このほか参謀総長,国家計画委員会議長を含める人もいる)がメンバーとみられ,国防政策の最高決定機関であった。中央軍事会議は国防省に設けられた合議制機関で,国防相が主宰し軍最高首脳を網羅していた。平時における戦略的指導に当たり,戦時には大本営(スタフカStavka)がこれに代わる。参謀本部は軍と国防省を媒介し,基本的戦略計画を策定し,各軍の任務を画定する。最も重要な部局は作戦,情報,組織・動員の3部とされている。なお政治教育の総元締めである陸海軍政治本部は党中央委員会の一部局でもあった。ソ連軍は地上軍,海軍,空軍,国土防空軍,戦略ロケット軍の5軍種に分かれていたが,このほか後方勤務部,民間防衛本部および部隊,国境警備隊,内務省軍隊が含められたこともある。最後の二つは,それぞれKGB(カーゲーベー)と内務省の管轄であった。

 ソ連領内に設けられている軍管区の数は16,うち中国西北部に接した中央アジア軍管区(司令部アルマ・アタ,現アルマトゥイ)は1969年秋に新設されたものであり,バイカル湖以東にはザバイカル(司令部チタ),極東(司令部ハバロフスク)の2軍管区があった。いくつかの軍管区を併せて軍事作戦区がつくられていた。防空管区のうち,モスクワ,バクーの二つには特別の地位が与えられていた。このほかポーランド,ハンガリー,チェコスロバキア,東ドイツに計31個師団のソ連軍が駐留していたが,1994年夏までにはすべて本国に撤退した。また,アフガニスタンに展開されていた10万5000人(1983年現在)のソ連軍は,1989年2月までには撤退を終了させた。。海軍にはバルチック,北洋,黒海,太平洋の4艦隊があり,カスピ海には小艦隊が配置されている。党・政治活動の指導では,前記の政治本部の下に,各軍に政治部,軍管区,防空管区,艦隊,師団,連隊,中隊にも似たような機関が設けられ,その責任者が政治担当副指揮官となっていた。89年央現在の推定兵力数は正規軍総兵力426万人(うち戦略ロケット軍29万,地上軍160万,海軍44万,空軍45万,国土防空軍50万など)で,このほか計57万人の国境警備隊と内務省軍隊があった。
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革命前のロシアは鉱工業のほとんどの分野でアメリカ,イギリス,フランス,ドイツに遅れていたが,旧ソ連邦は,いくつかの分野でアメリカには劣るものの,ヨーロッパでは第1位の鉱工業生産高を誇っていた。アメリカと比べて経済発展度は1960年代以降急速に高まっていると自己認識され,国民所得や工業力全体ではやや低いが,石油,鋼,化学肥料,セメント等々では1980年代末までの20年ほどの間に〈追いつき追い越し〉たとされていたのである。1970年代から欧米諸国が大量の失業者とインフレーションとの同時存在(スタグフレーション)に悩まされていただけに,驚くほど長期間にわたり安定した物価水準を維持しつつ,しかもかなりの成長を遂げていたソ連経済が,非マルクス系経済学者からも注目されていたことは当然であった。革命前ロシアの外国資本による産業の分断支配,革命後の内戦,干渉戦,さらに2000万人の死者を出したという第2次世界大戦などでの困難を考慮すると,旧ソ連の経済的達成はまさに驚異的というべきものであった。

 鉱業,重工業を中心にしたこのようなソ連経済力の上昇が,独特の〈計画経済〉制度に支えられてはじめて可能であったことはよく知られている。〈計画経済〉の理念は,マルクス《資本論》が資本制社会を〈無政府的〉〈事後的調整〉の社会と把握したことの否定面として形成されたが,ソ連邦でこれが現実に制度化をみるのは1920年代の末からである(第1次五ヵ年計画は1928-32年)。1981-85年第11次五ヵ年計画,86-90年第12次五ヵ年計画というふうに〈計画経済〉が積み重ねられてきていたのである。結果的には,第13次5ヵ年計画に入った年にソ連邦は崩壊したことになる。積み重ねられた〈計画経済〉は市場経済とはかなり異なっていたので,以下そのおもな特徴を掲げる

 (1)市場での自由競争は排除され,中央計画当局が国民経済全体を計画し,行政的生産単位たる企業に対し,義務指標を課すことで経済を営んでいた。(2)国有企業(農業の半分以外はほとんどがそれであった)があげる利潤は全体がまず国家のものと考えられ,1970-80年代ではそのほぼ5~6割(日本では法人税は4割)が財政歳入として中央にいったん吸い上げられるのみならず,企業手もと分処理についても細かく上部の指示があった。(3)とくに生産財に関しては機械・資材補給省という担当省が存在していたことからもわかるように,商品化が排除されていた。(4)一般商品価格は市場で競争の中で形成されたのではなく,国家ないし共和国の価格委員会が最終的権限をもち,これを決定していた。(5)企業・機関の管理者人事は,原則として上部(管轄官庁,党)の指名によった。(6)賃金も職種ごとの賃金表が国家レベルで決定され,一定の賃金ファンドの中から配分されていた。

 土地をはじめとして重要産業部門をことごとく国有化し,教育・文化活動なども国家的事業とされる独特の国家主義的社会の中で,このようにきわめて中央集権性の強い指令型の計画経済が営まれていたわけである。鉱業の一大発展を支えた条件の一つには,シベリアをはじめとした資源の豊富さがあったであろうが,それとともに,ソ連政府が技術者・専門家を優遇し,一定の教育体系を用いて専門職種で熟練度の高い有資格熟練労働者(クワリフィツィーロバンヌイ)を継続的に大規模に育てたことも指摘されねばなるまい。あらゆる産業分野で有資格熟練労働者は優遇され,一般に高教育水準=高資格=高賃金=管理上の高地位,といった連関の位階制がみられ,それが全体の中央集権指令型の国民経済を支えていたのである。

 とはいえ1970年後半から,ソ連経済の成長率は著しく低下してきていた。国民所得(その計算方式は,とくに第3次産業部門の評価が西側諸国より低いという特徴をもっていた)の成長率は公表統計においても2~3%台というかつてなく低い水準さえ記録するようになっていた。成長率の鈍化をもたらした要因の一つが,農業生産高の低迷であったことは明らかで,農業生産高が前年を下回った年の国民所得は必ず低迷していた。しかもかつて長く穀物輸出国であったものが,1972年以降はほぼ恒常的な一大穀物輸入国に転じてしまった。そのほか,成長率の低下をもたらした要因には,石油危機以降増大していた輸出石油の価格の大幅下落,アフガニスタン戦争の出費なども指摘されていた。

 1985年登場したゴルバチョフ政権はこの経済成長率低迷を脱出するため〈加速化〉というスローガンを掲げたが,従来の経済管理システムをそのままにした〈加速化〉はかえって歪みを大きくした。そのため,その後の〈経済改革〉は従来の〈計画経済〉を根本から問い直し,〈市場経済〉に傾斜していくという意味で,全面的な構造的改革へと向かってきていたといわねばならない。以下,国民経済の諸分野ごとに簡略にその実態と改革の動向とを検討したうえ,ペレストロイカのもとでの〈経済改革〉全体の問題点を解明しておこう。

中央集権指令型の計画経済の展開の中では,国家財政がきわめて大きい役割を演じたことは当然で,いわば財政は国民経済の再生産に西側諸国以上に深く食い込んでいた。国家財政の規模と国民所得とを単純に対比しても,前者は後者の5~6割に達し,計算方式の差異や財政投融資の存否などを考慮したとしても,日本の単純な対比から得られる2割前後という数に比し,かなり高かったといえる。もともと帝政ロシア時代から財政が国民経済の中で大きな比重を占めていたのであって,1920年代末の計画経済のスタート時から財政をその重要なてことしてきた伝統をもっていたのである。

 歳入の利潤控除が諸部門の国営企業の利潤の吸上げ分であったが,これと並び取引税が従来大きな柱をなしていた。もともとは帝政時代のウォッカ酒税に起源をもつ取引税は,消費財に著しく比重が偏っていたために,経済改革を推進した人々は,〈経済的に根拠のある価格を〉との観点からこの取引税の比重を引き下げていくことを主張した。そして事実,1960年代後半以降,一時この比重は利潤控除よりも小さなものとなったのであるが,経済改革の後退とともに取引税は再び最大歳入項目となっていた。しかしペレストロイカのもとで,再度,取引税の伸びは抑えられ,利潤控除が最大の歳入の柱となりつつあった。個人所得税の比率があまり動いていなかったほか,国債は発行されていたがきわめてわずかであった点などが,西側諸国と異なる旧ソ連財政の特徴を示していた。

 さて歳出の半分以上が国民経済費に当てられていたが,先にみたような中央集権指令経済のもとで,これは企業・諸機関などへの諸投資,諸分野への補助金など企業レベルの再生産活動の一端に食い込んでいた国家資金であった。3割台を占める社会文化費とは,教育費,科学研究活動費,保健・社会保障などの支出であった。軍事費で旧ソ連当局により公表されていたのは,唯一〈国防費〉(表3)の項目だけであったが,これによると旧ソ連末期にはその絶対額が据え置かれていたために,歳出中の比率は顕著な低下を示していた。しかし旧ソ連の末期頃,ゴルバチョフ書記長自身によって,〈国防費〉は上記数字の3倍以上と訂正され,また内部の改革系の雑誌などでは〈軍産複合体〉関係の比重は国民所得の50%にも達するといった論文もあらわれたりしていた。正確な実態はついにわからずじまいであったが,軍需産業の比重の大きいことはソ連崩壊後の各国とくにロシア連邦などの〈市場移行〉をきわめて困難なものとしたことは銘記される必要があろう。

 もともと超大国アメリカと核兵器の増強をはかりながら対峙し,しかも絶えざる技術革新にさらされていた軍需工業をはじめ,国防のために旧ソ連が割いていたコストが公表数字で全部であるとは西側諸国は見なしていなかった。1970年代の前半まででも,実際の軍事支出はこの財政表上の公表数字の少なくとも2~3倍と推測されてきたのであった。アメリカCIA推計軍事費をソ連の公表国民所得と対比すると,その約17%前後だったことになる。しかし,1968年チェコスロバキア事件以降,アフガニスタン侵攻,ポーランド問題と,軍事支出はむしろ増大する一方で,中距離核ミサイルの緊張がこれに拍車をかけていたこともまちがいなかった。いずれにしろ軍事費の膨張は国民経済を圧迫し,成長鈍化を加速させた要因の一つとみられよう。とはいえ,軍需工業は武器輸出という形で重要なハードカレンシー(交換性通貨)の収益手であるとも見なされていたので(アメリカの推計では旧ソ連の武器輸出による収益は1980年代末,毎年10億~15億ドルという),軍事支出はその二面性への注意が必要であった。

財政と併せて金融が問題であり,現代諸国では一般に財政・金融の一体化が進んでいるが,旧ソ連邦の場合は,西側でいう信用創造という意味での金融は原則として存在しなかった。ゴスバンク(国立銀行)のほとんど独占的で圧倒的な一元支配下に金融はおかれていたともいえる(1987年の改革により,ゴスバンクは中央銀行として機能することになり,5行の商業銀行が新設された)が,これもいわゆるアクティブ・マネー(能動貨幣)を供給するものではなく,計画経済の枠に沿って動く物財のいわば逆等価の記帳をもって主務としたものである。いわば資金の受入れ窓口であり,資金配分機関なのであって,利殖を求めての投資機関ではなかった。確かに利子は存在していたが,一般にきわめて低利であり,〈計画欠損〉といわれる連続赤字の部門などにも貸付けが行われ,債務が累積していたことをみると,厳格な取立てが行われていたとも思えない。株式投機とか投資信託などは公的に排除されていたし,乱立する私的信用機関の預金獲得競争などはむろん存在していなかった。むしろ企業レベルの予算制約の過度のゆるやかさが経済効率を低下させているとした経済改革派は,企業がせめて流動資金だけでも企業自己責任で借り入れ,返済すべきことを主張したぐらいであった。ペレストロイカといっても実状は日本の国鉄赤字にも似て,オール国有企業システムの中にあり,金融の役目はむしろ消極的であった。庶民の賃金などは貯金局がその媒介窓口となっていたが,それはちょうど日本の郵便局のようなものである。

先進工業諸国と比較した旧ソ連末期の鉱工業生産高は表4のとおりであり,ソ連経済力の大きさがわかろう。また耐久消費財の世帯別公表普及度は,時計546%,ラジオ96%,テレビ101%(カラーテレビは34%),カメラ35%,冷蔵庫92%,掃除機70%,ミシン65%,乗用車17%(1987。ただし,以上は都市と農村との全体の平均であり,両者の格差はまだ相当残っていた)で,ほぼ日本の高度経済成長後半期ころの状況であったろうか。ただし,以上はあくまで数量比較の問題であって,商品の質では西側諸国のものの方がはるかに高級であったといえる。このことは繊維製品などでも同様であったばかりか,実は重工業関係でも指摘できた。例えば鉄鋼業では薄板に弱い等々の〈質〉の問題が大きかったことは常識でさえあった。

 1960年代初頭の経済成長率の鈍化を契機に,その論議がかつてなく高まり,65年以降ついに実施に踏み切られた経済改革の重要諸課題の一つは,この〈商品の質〉の問題であった。改革派は従来の過度に中央集権化された指令経済を分権化し,企業を単なる行政機構から自主性をもつ経営体へと移し,〈統御された市場メカニズム〉を導入することによって,商品の質問題,経済効率問題,成長率低下問題など多面的問題の解決を企図した。そのため,(1)価格体系の見直し,決定メカニズムの改組,(2)取引税縮小の方向,(3)財政歳入面では利潤控除分の増大を目ざす,(4)義務指標の数の縮小,(5)総生産高・原価という指標を重視してきたものを総販売高・利潤指標重視に切り替える,(6)企業手もと分利潤を増加し,その労働者集団への物的刺激を強める,等々の計画経済制度上の改革を行おうとしたのである。計画経済であまり重視されていなかった〈利潤〉〈利子〉が経済効率を高め,企業が消費者の真の需要にこたえる良質の商品を責任をもってつくるためのてことなると考えられたのである。表3に示されるような財政面にあらわれた取引税を上回る利潤控除の増加は,同時に企業の手もとに残される利潤残余の増大をも伴っており,新しい経済刺激方式は3年目の68年に国有工業企業総数の54%(2万6850企業),生産総額の72%,工業労働者の71%,利潤総額の81%に達していた。

 旧ソ連の統計によれば,この比率はその後も増大を続け,新方式はほとんど全国有企業に波及していったかのようであったが,実は改革はチェコスロバキア事件(1968)を契機に後退していたのである。スターリン時代に中央集権指令型の計画経済制度が導入されていた東ヨーロッパ諸国では,ソ連と時を同じくして経済改革が進められていたが,とくにチェコスロバキアでは検閲廃止,被告の人権保護,政府の党からの自立等々いろいろの分野の社会改革が一挙に推進され始めていた。言論,集会,出版,結社などの自由をブルジョア的として否定し去り,共産党一党支配体制の上にこそ集権指令経済を築いてきたソ連は,チェコスロバキアの〈人間の顔をした社会主義〉を受け入れることができなかった。

 68年8月の軍事介入と民主化の挫折はソ連内でも反改革派を鼓舞するものであった。経済改革の挫折は旧来の集権制への復古,市場原理の後退を意味した。70年代以降,鉱工業生産高が見かけ上あれだけ伸びながらも,その後もなおいろいろの問題が指摘されたのはこの改革の失敗の影響といって過言ではなかった。取引税の増大などのほか,価格体系のひずみの例とされていた石炭業が,改革期以降しばらくの間だけ黒字部門となっていたものが再び赤字部門に転落したことなどにも,その事情は反映していたのである。経済改革の失敗がソ連崩壊を促進した要因の一つであったことは確かであろう。

第10次五ヵ年計画期(1976-80)までは平均水準では穀物生産高は増加してきていたが,旧ソ連邦はその末期に数百年に1度とさえいわれる6年連続の凶作を経験した。年間3000万~4000万tに達する穀物輸入が日常化していた。輸入総額中のその比重も,かつての3~5%から10%にも達した。工業化,都市化が酪農品需要を激増させ,飼料需要が急増してきていたためであった。政府はすでにフルシチョフ時代から,(1)農産物買付価格の引上げ,(2)農業労働者の所得保証,(3)農作業の機械化,農業の化学化,(4)コルホーズの統合・巨大化やソホーズへの転換,(5)個人副業経営の容認・奨励など,さまざまの政策を打ち出して対処してきたが,農業はアキレス腱といわれる状況からついに脱することに成功しなかった。その原因の第1には,乾燥・寒冷地帯が広いという自然条件の厳しさを挙げねばならないが,何百万という中堅農民が逮捕,投獄,流刑などの犠牲になったといわれる農業集団化をはじめとした諸社会的原因を無視することはできない。

 農企業のトップ人事はコルホーズも含め実質的には上部機関(共産党)が掌握していた。彼ら企業指導者層の多くは都市の大学農学部などの出身で顔は都会に向き,生活様式も都会風で,地元よりも上部指令に忠実であろうとする傾向が強かった。農企業下層には特別の資格をまったくもたない無資格不熟練労働者(老人,婦人が多い)が旧ソ連末期にも約半数を占めていたのであり,この農村下層とトップの間に機械手や畜産労働者が位置し,ここでも教育水準,所得,管理上の責任権限に明瞭な位階制が貫徹していた。ところが,青年たちは高等教育機関,兵役を二大パイプとして農村から脱出していたために,農企業は絶えず老齢化,弱体化の危機にさらされていたのである。また野菜,果樹,ジャガイモ,酪農などを中心に残っていた個人副業は,集団農場と補完関係もあった一面,作業の季節ピークの重なりなどから,それとの緊張関係も強かった。ブレジネフ時代以降も,政府が農業に投資してきた資金は莫大な額に上ったとみられるが,それは農産物生産高の目ざましい増大とは必ずしもつながっておらず,そのために価格差補助金の累積のような形での矛盾は深まる一方であった。旧ソ連末期に請負耕作が奨励され,実質的な集団農場離れが強まっていたところに,ソ連農業の直面するジレンマの決定的な様相が反映していた。

1920年代のネップ期には存在していた私営商店も,30年代には国営や協同組合商店に取って代わられ,旧ソ連末期にはこの2類型で全取扱商品高の98~99%(うち国営69~73%)を占め,商業も集権型に徹していた。残り1~2%が自由市場での取引であったが,これはむろん一般工業製品も含む統計であり,農産物に限ればこの自由市場の比重ははるかに高かった。旧ソ連では社会給食(公共食堂)も商業に含めており,しかもほとんどの婦人が社会的職業に就いていたため,社会給食企業数は1965年の19万から87年の34.5万に増え,その就業者をも含めての〈商業労働者〉は,445万から777万へと飛躍的に増大していた。農業就業者がこの間31%から19%に低下していたのと対照的に,この分野の就業者は6%から8%に比重を増していた。にもかかわらず市場原理の導入をも意図した経済改革挫折の影響もあってか,全体としてのサービスの悪さは旧ソ連期を一貫して続いたのであり,スーパーマーケット方式の導入といった改善が一部にはみられたものの,全体としての需要過多・供給過少(とくに高品質のもの)からくる〈行列〉は結局解消しなかった。それどころか,ソ連崩壊のなかで2年間ほどは〈行列〉はかえって長くなっていた。またドル・ショップと一般商店との差異は以前よりも少なくなってきていた。

国営企業の労働者総数は1965年から87年に7700万から1億1860万へと増加していた。しかし旧ソ連邦末期の工業生産成長寄与率はその圧倒的部分を労働生産性の増大に負うており,労働者数の増大による部分は小さかった(1961-65年前者60.3%,後者39.7%。76-80年90.3%対9.7%)。農業部門からの新規労働力の流入などもしだいに期待できなくなっていた。このこともあって,もともと高かった労働者の流動性が強まり,企業はその定着化に腐心していた。流動の直接の原因は,賃金水準への不満も多かったが,専門資格が生かされていないなど労働条件への不満も高まってきていた。経営,労働組合,党の三者体制(トレウゴリニクtreugol'nik)は1930年代から企業長単独責任制へと移り,現場の位階制は強まっていたが,旧ソ連邦末期でも例えば平均月221.9ルーブル(1987)の工業労働者賃金は,技術者・職員234.0ルーブル,労働者219.2ルーブルと格差表示されていた。なお労働者の半数強は婦人であったが,平等性の強い社会とはいえ,婦人にはこれらが負担であったことは,出生率の低下などに如実に反映していた。ポーランドの〈連帯〉に呼応した自主労組運動はいち早く弾圧されたことなど,〈ソ連労働者階級の状態〉も行き詰まっていたといわねばならない。

貿易バランスはソ連邦末期ころ,毎年40億~50億ルーブルもの黒字であったが,その内訳をみると,対西側赤字,対発展途上国・対共産圏の黒字から成っている。しかも黒字のかなりの部分は非交換性通貨によるものであり,西側諸国への支払には直接は転用できなかった。金や武器の販売を含むはずの国際収支は非公開であったが,増大する穀物輸入の支払問題は深刻なものとみられていた。石油および同製品の輸出額は総額の4割近くに達し(天然ガスも合わせると5割近い),1960年ころの20%未満と比較し,相対的には旧ソ連の工業国的性格を強めていたとさえ思われる。〈昔穀物,今石油〉の輸出構造は注目に値する特徴であった。

日本の面積の60倍という広大な旧ソ連では交通は重大問題であった。貨物輸送は伝統的に鉄道を主としており,第2シベリア鉄道(BAM(バム))も完成をみていた。気候条件の悪さもあり,舗装道路の発達度が低かったことからも,自動車輸送の比重はアメリカなどより低かった。石油輸出とも関係するが,パイプライン輸送量が顕著に増大していた。旅客輸送では1970年代後半に自動車が鉄道を抜いてしまい,20年前鉄道の5分の1にすぎなかった航空が鉄道の半分に達していた。

 都市化が激しい勢いで進んできていたため,都市・近郊交通問題は旧ソ連でも深刻であった。マイカーは公共交通機関を優先させてきた政策的影響で,相対的には西側諸国より比重が小さかったが,通勤ラッシュ,通勤遠距離化,ターミナル駅の混雑(とくに休日前),また交通事故などの現象はここでも日常化していた。日本ではほとんど姿を消した路面電車(トランバイ)は,首都でさえむしろ延長工事をしていたが,それとともに地下鉄路線も全国的にいよいよ伸びていく傾向にあった。東京圏の地下鉄営業距離約200kmに対しモスクワ197km(1984)を比較しても,旧ソ連がすでに相当の地下鉄国であったことは明らかであろう。

 通信量も爆発的ともいえる増加を示していた。電話や電報なども飛躍的に増大していた。しかし家庭の電話の普及率は旧ソ連邦末期でもまだ低く,日本の国鉄の〈緑の窓口〉にみられるようなコンピューター処理はほとんど普及していなかった。民生部門が遅れていたのである。紙幣に対し硬貨でつり銭が出る切符の自動販売機などはまったくみられなかった。また政策的な面も多少あったのであろうが,コピー機器は街にはほとんど存在しなかった。これが大量に登場するのはやはりソ連崩壊後である。このような情報処理の構造自体が経済効率の低下,ひいては体制崩壊への要因の一つになったといえよう。
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社会保障はソ連がその充実ぶりを最も誇った領域であった。すべての勤労者が民族,性,信教などの差別なく普遍的に社会保障の恩恵を受けて,財源が国費と社会的資金によってまかなわれるので,勤労者の賃金からの積立ては行われていない。また社会保障がきわめて多面的であり,万能であるとも主張された。しかしながら,全国民に対する同一基準の年金制度の確立は意外に遅く,コルホーズ農民への年金を定めた1964年10月17日の法によって成就したのである。老齢年金の受給年齢は,男が60歳,女が55歳であるが,特殊のカテゴリーの者については5~10年早く支給された。受給に必要な勤続年数は男は25年以上,女は20年以上であった。これには大学や中等専門学校の在学期間も算入された。年金額は賃金の50~100%であった。法律により最低限度額と最高限度額(月120ルーブル,約3万5000円)が定められている。特別に国家に功労があった者,経済・文化・学術の面ですぐれた業績をあげた者には個人年金が与えられるが,それは一般年金の最高限度額をはるかに超えるものであり,当人の死後は家族にも与えられた。このほか,年金は廃疾者,扶養者を失った労働能力のない家族員にも与えられた。社会保険の手当としては,一時労働不能手当,婚姻・出産手当,分娩手当,埋葬手当,技能転換手当が支給された。年金と手当の決定には,すべて労働組合があたっていた。

 医療は完全に国営であった。都市では4000人,農村では5000~7000人を単位に医療区を設け,総合診療所(ポリクリニカ)が置かれ,入院を要する患者は病院(ボリニーツァ)に送られた。診療所の医師は往診もするし,救急システムもある。診療や処置,手術は無料であり,入院中は薬代も食事代も無料であるが,診療所での薬代はほぼ半額が有料であった。医師は大量に養成されており,その数107万1200人(1982)は,世界の医師数の3分の1を超えていたが,社会的な評価が他の国よりも低く,給料も比較的低かった。他方でよりよい医療の質,よい医師を選ぶ患者の志向が当然に存在した。最高の医療機関はいわゆるクレムリン病院である。

ソ連では教育機関はすべて国営であった。7歳入学で10年制の義務教育が施行されていた。8年を終えたところで,そのまま残って普通総合技術学校の課程で9,10年を終える者と,職業技術学校,中等技術学校へ進む者に分かれた。普通コースに進んだ者は10年を終えると,高等教育機関を受験できる。高等教育機関は全国で891,学生数は531万5200人(1982/83)に達した。卒業には4~6年かかる。初等教育から高等教育まで無料であり,高等教育の場合は奨学金が与えられた。寮も整えられている。クラブ活動の費用もすべて国家もちである。大学入試は日本ほどではないが,モスクワ,レニングラードの両大学を中心にかなり激しいものであった。また,この2大学のほかに国際関係大学というエリート養成大学が存在した。

 マス・コミュニケーションもすべて国営であった。新聞は《プラウダ》が共産党中央委員会の機関紙で,《イズベスチヤ》は最高会議幹部会の機関紙という名目上の違いがあるが,モスクワとその周辺では前者は朝刊紙で,後者は夕刊紙という程度の違いにすぎない。前者の発行部数は966万部,後者は1010万部(1989)であった。これらの新聞には,投書も取り上げられるし,ときとして地方の欠陥は鋭く批判されるが,中央政府への批判は反映されることはなかった。〈プラウダ(〈真実〉の意)はなく,ただイズベスチヤ(〈通知〉の意)だけ〉と一口話のたねになる上意下達の性格は宿命的なものであった。この点,作家同盟の機関紙《文学新聞》はときに記者の鋭い批判精神を表す記事をのせることがあった。

 テレビは1975年には6000万台に達した。このうちカラー・テレビは100万台にすぎなかったが,その後急速にのびた。チャンネルはモスクワ地区では,全国共通が第1,第2チャンネルで,モスクワの地方番組が一つある。テレビはきわめて強力な政府の国民教育の手段となっており,夜9時のニュース・ショー〈ブレーミヤ〉の視聴率は全国的にかなり高かった。

 ソ連では出版もまた完全に国家に独占されていた。出版にあたっては,著者と出版所との関係だけでなく,グラブリトと呼ばれる検閲機構を通さなければならないし,場合によっては関連官庁,KGB(カーゲーベー)(国家保安委員会)その他の事前検閲を経なければならなかった。したがって,出版される書物の思想は念入りにコントロールされた。

 部数の決定は,需要の見込みよりは政治的配慮と計画枠とのかねあいで決定され,当局が政治的に必要と考えられるものが大量に出版される。例外的なものを除いて,売れるからといって増刷されることはなかった。したがって,大量の書物が出版されるが(1982年8万0700点,19億2500万冊),これらはパンフレットも含む数であり,全国に図書館が13万2800もあるので,個人の市民が本屋で買える本は少なかった。そのため,文学作品を中心とする評判の書物に対しては飢餓状態が存在した。本の闇市が立っているが,一般に探しているものを買うことはほとんど不可能で,友人間での貸借とタイプライターによるコピーが盛んに行われていた。

1977年憲法第51条には〈共産主義建設の目的にしたがい,ソ連邦市民は政治的積極性および自発性の発展ならびに多様な市民の利益の充足を促進する社会団体に結集する権利をもつ〉とあり,この〈社会団体〉の性格は同第7条で〈労働組合,ソ連邦共産主義青年同盟,協同組合組織およびその他の社会団体は,それぞれの規約上の任務に照応して,国家的および社会的事業の管理に,政治的・経済的および社会的・文化的問題の解決に参加する〉と規定されていた。非国家的・非政府的な団体はソ連では自発的・自立的結社として存在しえず,国家のコントロールを強く受け,国家機構と結びついた団体としての性格をもっていた。

 そのようなものとして労働組合が典型的である。労働組合は労働者・職員のほか,学生を含むが,1970年代後半にはコルホーズ農民まで含むようになった。82年に組合員数1億3120万,うち労働者・職員1億1020万,コルホーズ農民1190万,学生910万という内訳である。労働者・職員はほぼ100%の組織率である。労働組合は企業,事業所,機関,学校,コルホーズといった単位に基礎組織がつくられ,その執行部として地域委員会ないし支部委員会(メストコム)が選ばれた。この基礎組織は全国25の産業別組織にまとめられ,その上に全連邦労働組合中央評議会が立っていた。労働組合と並んで,ソビエト連邦作家同盟をはじめ,美術家,音楽家,映画人,演劇人,ジャーナリストら創造家の団体があるが,これらの団体も労働組合と共通する性格をもっていた。労働組合と創造家団体でソ連の全市民はほぼすべて組織されたことになり,これらの団体が年金,各種手当の算定から各種のサナトリウム,〈休息の家〉(保養所)への旅行の割当て,コンサートの切符の配布など,国家の与える利益,サービスの分配伝達の機構となっていた。成員の苦情を取り上げ処理する機能も果たしているが,その要求を下から結集して交渉を行うという機能は弱かった。

 このほか,社会団体の中には,ソ連平和委員会や各国との友好団体などの政治的団体,医学者や科学技術者の団体,戦争に参加した元兵士の会,それからスポーツ団体,趣味の団体などがあった。この中で,1966年に創立された歴史文化記念物保存協会はロシア・ナショナリズムを基礎に,下からのイニシアティブでつくられたもので,急速にひろまり,77年には1200万人の会員を擁するにいたり,古いロシアの教会や美術品の修復・保存などの活動を行っていた。

教会

ソ連では,憲法上,良心の自由が認められていた。個人がある宗教的信仰をもち,そのために教会で祈ること,教会で説教し,宗教的儀式を執り行うことは認められた。しかし教会堂の外で信者・非信者を問わず,不特定の人々に対し,宗教的働きかけを行う活動,布教の行為は禁止された。逆に不特定の人々に対し反宗教的宣伝を行うことは良心の自由の内容の一つとして憲法上認められた。したがって,信教の自由は制限されていたといわねばならない。信仰者の共同体としての教会は,外に向かって,国家・社会に働きかける主体ではなく,信仰者に許された避難所としてのみ存在していたのである。その限りで教会は国家により土地・建物の提供を受け,国有財産たる教会堂の使用を許されるなどの便宜を与えられていた。国家は閣僚会議付属宗務会議を通じて教会を監督した。

ソビエト連邦科学アカデミーは帝政時代からの伝統に立つ特殊な学術機関である。会員,準会員はともに,空席の生じた場合にのみ,現会員,準会員だけの選挙によって補充される。この選挙にあたっては,各種機関より候補者が推薦されるが,投票はまったく自主的・自立的に行われるもので,共産党のコントロールが及ばなかった。こうして選ばれる正・準会員は終身きわめて名誉ある地位を保証され,この会員と準会員からなる総会が科学アカデミーの方針を決定するのだが,この決定には当然,党中央委員会科学教育機関部の指導が加わる。いずれにしても,この総会の管轄下に多数の国立研究機関が存在しており,これがソ連の科学研究の主力であった。科学アカデミーはその成員の選出原理によって,非国家機関としての自立性を有していた。

祝日として休みとなっているのは,1月1日の新年,3月8日の国際婦人デー,5月1~2日のメーデー,5月9日の戦勝記念日(第2次大戦でのドイツに対する勝利を記念するもの),10月7日の憲法記念日,11月7~8日の革命記念日であった。このうち国際婦人デーが休日となったのは1964年からであり,憲法記念日は77年新憲法施行よりこの日に移されたものである。政府はこれらの祝日の前夜には食品を大量に放出し,お祭り気分を盛り上げた。政治的には,戦勝記念日と革命記念日が最も重要であるが,前者は戦没者の墓地,慰霊碑に各人が詣で,戦友たちが集まる。それに対して,後者は政府,党,軍のパレードが行われた。新しい祭日である3月8日には,当局は南の地より花を運んで売り出し,町に春の到来を告げる気分をつくり出し,また日ごろ世話になっている女性に贈るようにカードを売り出した。反対に,その直前の有給休日にならない記念日,2月23日の陸海軍記念日が男性の日となって,女性から男性へ贈物が贈られるようになっていた。

 1967年の革命50周年記念日を期して,週5日労働制,土・日の2日休日制が全国一律に採用された。このほか年間の有給休暇は15日と定められている。したがって,メーデーと革命記念日の前後は土・日曜日とつなげると,長い休暇となる。休日の前日は慣習的に午前中までしか仕事が行われない。長い休暇は人々を公的生活から解放し,私生活の比重を高めることになった。

ソ連では〈働かざる者食うべからず〉という原則と,戦争の影響からもくる絶対的な労働力不足の双方に基づいて,男女の別なく労働能力ある成人は必ず社会に出て働くことになっていた。このことは低い賃金の面からも必然化された。女性は全人口中で52.7%(1989)を占めているが,高等教育機関の学生の52%,中等専門学校の学生中の57%を占めており(1981/82),教育の面でほぼ男子と対等である。就業者総数に占める比率も,50.3%(1970)でほぼ対等である。女性の就業者の3分の2は肉体労働に従事しているが,しばしば建設業や道路保全のような単純重労働にも女性の姿がみられた。

 女性が圧倒的な比重を占めている職業としては,看護婦,保母,秘書,出納係,店員などであるのはふしぎではないが,この国の特徴は,図書館員の95%,医師の74%,学校教師の72%が女性であり,経済専門家の82%,物理学者の74%も女性であることにあろう。管理職では商店の店長の64%,中学校の副校長の65%が女性である。最高級の知的水準を表すものとして,博士号保持者をとると13.1%が女性であり,ソ連邦科学アカデミーの正・準会員と正教授の9.9%が女性である。かなり進出しているが,ここでは男性に大きく水をあけられている(以上は1970年の数字)。政治面でみると,共産党員中の比率が1971年には22.2%であったものが,82年には27%に上がってきている。党中央委員会,中央統制委員会には第24回共産党大会(1971)の段階で21人の女性が出ている。このように,ソ連の女性は社会に出て男性と対等に働いていた。しかし,そのことは仕事と家事と出産・育児の三つをともに行わねばならない義務を課するために,女性の負担をきわめて過重なものにする結果となった。

家族は1930年代に社会の基礎細胞として重視され,37年以後は,忠誠の連帯保証を行う装置としての意味を与えられていたが,スターリン批判以後は,保護政策のみ残され,束縛からは解放された。まず独身者には本給の6%にも上る独身税がかけられ,結婚が奨励された。産休は産前56日,産後56日と定められ,社会保険によりふつう給料全額分の手当が保証されている。子どもの扶養手当,多子の者に対する追加手当も定められ,とくに14歳未満の子どもの病気看護のための7日間までの有給休暇も認められている。保育所が整えられていることはいうまでもない。これらは職業をもつ女性に出産を奨励するための方策であった。平均的にはソ連では1夫婦当りの子ども数は1人ないし2人であり,3人以上の子どもの出産は60年には全体の出産の35%であったものが,82年には23%に下がっている。このため出生率(人口1000人当りの出生児数)は全ソ連邦では60年の24.9より87年には19.8に下がった。この点,中央アジアの4共和国ではなお30以上の出生率を保ち,際だった対照をなしていた。

 さらに大きな問題は離婚である。スターリン時代の離婚制限などは撤廃され,1966年初めより1回の裁判による離婚手続が導入され,68年改革では裁判ぬきの離婚も認められるにいたった。この結果,1960年には人口1000人当りの離婚件数は1.3であったものが,87年には3.4とほぼ3倍に増えている。この年の1000人当り結婚件数が9.8であるので,結婚3組に対し,離婚1組の割合である。大都市ではこの比率は高く,2対1程度とみられている。この高い離婚率が女性の社会進出,地位向上と結びつき,私生活の自由とも結びついていることは否定できない。

家族の解放とともに,ブレジネフ時代のソ連に確立したのは私生活の自由である。これには,住宅建設の進展による間借生活の解消,各家族への独立住居の保証,電話の普及などの物質面の改善も影響しているが,やはり政府の側でも,国民の側でも,公と私の区別の原則が受け入れられたためである。公的には,あるいは公の場,職場や社会的会合では,公式のイデオロギーや政策路線を踏みはずすことは許されないが,私生活,自分の住居の中,親しい友人同士の仲ならば,いかような考えも表明しうるし,いかような書物も読むことができる。外国のロシア語放送(VOA,BBC,〈ドイツの波〉)も短波放送で聴くことができるし,短波付きラジオが売られている。また外国人を自宅に招くことも可能である。私生活に対する権力の介入の最大のものは同性愛の弾圧である。これはなお刑法上の犯罪とされている。もとより私生活をこえて,非公式的な見解をもった文書を流布させるとなると,当局の監視を受け,最後には抑圧された。中間的に精神病院への強制入院措置がとられることもあった。したがって,私生活の自由には外から枠が強くはめられていた。内部的には,問題化しているのは,子どもの教育の問題である。子どもは家庭と社会の双方で教育されるものであるために,公私の使い分けは子どもを混乱させることになる。

十月革命によってソビエト政権が出現すると,日本は早くから干渉の動きを示し,1918年8月,アメリカとの共同出兵の形で1個師団を派遣した(シベリア出兵)。しかし,たちまち3個師団(7万2000)に増派され,アメリカが20年1月撤兵したのちも,シベリアに居座り続けた。結局,ロシア革命に干渉した列強の中で,最大の兵力を最長期間ロシアの国土に侵入させたのは日本ということになる。日本軍は22年10月まで4年2ヵ月とどまり,さらに北サハリン占領は25年5月まで続いた。日本は侵略した側であったが,1920年春,ニコラエフスク市の日本人居留民虐殺事件,いわゆる〈尼港事件〉は〈過激派〉の恐ろしさを日本国民に印象づけるために十二分に利用された。

シベリア戦争に結着をつけ,日ソ国交を開いたのは,25年1月20日調印の日ソ基本条約と付属議定書であった。日本はソ連に1905年のポーツマス条約を認めさせ,北サハリンにおける油田の50%の利権供与を約束させた。日本国内ではコミンテルンの指導下に生まれた日本共産党が活動を続けており,知識人の間にソ連への関心がしだいに高まった。とくに第1次五ヵ年計画の開始は,昭和恐慌にあえぐ日本にも強い印象を与えた。

日本は31年満州事変を引き起こし,翌年満州国をつくり上げた。満州を通る中東鉄道は中ソの合弁経営であったため,ソ連の態度が注目されたが,ソ連は33年5月,満州国に同鉄道の売却を申し出て,宥和的な態度をみせた。ナチス・ドイツの登場によって西に危険をかかえるソ連としては,日本が次にどう出るかが最大の関心事であった。当時のソ連の新聞には毎日のように日本の記事がのった。日本の側も,満鉄調査部と参謀本部を中心にソ連の国力,抗戦力の分析を進めていた。36年11月25日の日独防共協定の締結はソ連を恐怖させた。37年7月日本は日中戦争を起こし,侵略の方向を南にとったが,その後に,38年7月には朝ソ国境で張鼓峰事件,39年5~8月には満州・モンゴル国境でノモンハン事件と,2度にわたりソ連軍との本格的衝突を起こした。このうち,とくに後者において日本軍はソ連軍の機甲兵力の前に完敗した。このことは,39年8月28日の独ソ不可侵条約の締結の衝撃とともに,対ソ冒険派を後退させた。その結果が41年4月13日に結ばれた日ソ中立条約であった。

独ソ戦争が始まったなかで,日本がドイツに呼応して対ソ攻撃に向かう可能性があらためて生まれた。このときソ連のスパイ,ゾルゲ尾崎秀実の諜報工作が行われた。結局,日本は41年12月対米英戦争に踏み切った。いまや世界中が敵味方に分かれ戦争していたとき,日本とソ連は奇妙な平和的友邦であったのである。45年2月,アメリカはヤルタ会談でソ連から対日戦参戦の約束を取り付け,その代償として,南サハリンはもとより千島列島をもソ連に与えることを約束した。ソ連は45年8月8日の準備完了と同時に,9日未明より対日戦争を開始した。戦闘は満州,サハリン,千島で,ほぼ8月18日まで続いた。日本軍の死者は8万,捕虜は59万4000と発表された。ソ連は同年4月5日,1年後に期限のくる日ソ中立条約を延長しないと事前通告していたが,もとより開戦時には条約は有効であった。したがって,ソ連の参戦が中立条約に違反するものであるのは明らかであるが,広島への原爆投下によってもポツダム宣言の受諾を決めえなかった日本政府は,ソ連参戦の報に驚き,8月14日,初めてその受諾を決めたのである。

ソ連は南サハリン,千島列島に加え歯舞(はぼまい),色丹(しこたん)両島を占領し,これらの島に住む日本人を日本に立ち退かせた。サハリンの朝鮮人はそのままとどめられた。さらに60万の戦争捕虜はすべてシベリアに送られ,厳しい労役につかせられた。この捕虜の帰還は49-50年になされた。またハバロフスクでは731部隊の細菌戦準備の責任を問われて関東軍首脳の戦争犯罪裁判が行われた。ソ連の代表デレビャンコ中将Kuz'ma Nikolaevich Derevyanko(1903-55)は対日理事会に参加し,しばしばマッカーサー司令部を批判して,日本の民主化,非軍事化を強めるように影響を与えた。復活した日本共産党に対しては,50年にコミンフォルムが批判を行い,活動を急進化させるように促したが,かえって占領軍の抑圧を招いた。しかし,戦後の日本の知識層,学生の間では,ソ連社会主義の権威と文化的影響は決して小さくなかった。

ソ連は対日講和条約の準備からは疎外され,日本はアメリカ陣営の一員として,51年9月,サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を結んだ。しかし,スターリン死後の国際情勢の変化の中で,日ソ国交回復交渉が始まった。日本は歯舞,色丹両島の返還をミニマムな妥結条件として交渉にのぞんだが,ソ連が早々にこれらの島の引渡しを表明すると,国後(くなしり),択捉(えとろふ)両島も含めた4島返還の要求を出し,交渉は行きづまった。結局,56年10月19日,訪ソした鳩山一郎首相が日ソ共同宣言に調印した。これは領土問題を棚上げにした国交樹立であったが,共同宣言の中でソ連側は平和条約調印の際には歯舞,色丹両島を日本に引き渡すことを約束していた。

60年6月日米安全保障条約改定がなされると,ソ連は反感を強め,グロムイコ外相が,沖縄,小笠原諸島が返還され,外国軍隊が撤退しない限り,歯舞,色丹両島の引渡しは行わないと言明した。一方,日本では,72年沖縄返還がなされると,次は〈北方領土〉問題だという議論が台頭した。73年10月,田中角栄首相は,デタントの雰囲気と日ソ経済協力拡大の展望の中で,訪ソし,懸案問題の扱いでの多少の歩みよりを得て,文化交流面での拡大を果たした。しかし,70年代後半になると,米中,日中の接近は,かえって北方領土問題をよりクローズアップする方向に働いた。ソ連側は,米中日の反ソ連合の成立を警戒した。その中で生じたアフガニスタンへのソ連軍の侵攻は,西側に強い反発を引き起こし,80年のモスクワ・オリンピックのボイコットにいたった。81年,ついに日本政府は2月7日を〈北方領土の日〉として制定するにいたるのである。70年代はソ連社会主義の知的権威が低下した時期であり,かつ高度経済成長時代が去って,日本の経済界からは日ソ経済協力への意欲が失われていた。このような条件のもとで,領土問題による両国関係の緊張の膠着(こうちやく)化ともいうべき最悪の状況が続いた。

しかしながら,ゴルバチョフが登場して,ペレストロイカと〈新しい思考〉外交が開始されると,日ソ関係にも変化が生じた。86年1月シェワルナゼ外相が訪日して,外相の定期協議が復活した。5月には安倍晋太郎外相が訪ソして,はじめての日ソ文化交流協定が調印され,新方式で北方墓参が復活することになった。日本国内の専門家からは2島(歯舞,色丹)返還入口論,2島返還プラス4島(歯舞,色丹,国後,択捉)非軍事化・共同開発論が出され,論争が起こった。88年7月になると,ソ連側からもさまざまな観測気球的な提案が出されるなかで,中曾根康弘元首相が訪ソして,ゴルバチョフと領土問題を語り合った。ここにおいてソ連側の姿勢の変化が確認された。

 88年12月末シェワルナゼ外相が再度訪日し,宇野宗佑外相は日本側の領土要求の根拠を体系的に説明した。このとき,平和条約締結のための作業グループを常設し,〈両国関係に存在する困難の除去〉のために討議を進めることで合意が成った。もっとも領土問題では,日本側が4島一括返還の主張に固執しているもとで,ソ連側も89年初めより,自らの主張を行う番になると,領土問題解決ずみの主張をまとめて展開した。このなかで日本外務省も89年に入ると,〈政経不可分〉論から少し変えて,領土問題と平行して,ソ連側の各種協定締結の提案も検討していく,領土問題で少し歩み寄りがあれば,経済協力もその分進めるという〈拡大均衡〉の考え方をとるようになった。しかし,ペレストロイカの進展とともに,共産党の権威がさがり,ナショナリズムが高まったソ連では,かえって領土問題での譲歩がむずかしくなるという事態が発生した。

91年4月日本に来たゴルバチョフは2島返還を約束した56年共同宣言の再確認にも踏み切ることはできなかった。彼ができたことは4島について日本との間に交渉をおこなうということと,4島へのビザなし渡航を認めることであった。海部首相との長時間にわたる交渉で視察の時間が短くなったが,日本国民は彼に好意を示した。
ロシア →ロシア帝国
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「ソビエト連邦」の意味・わかりやすい解説

ソビエト連邦【ソビエトれんぽう】

ユーラシア大陸の北部,ヨーロッパからアジアにまたがる広大な地域を占めた社会主義国家。ソ連と略称。正称はソビエト社会主義共和国連邦Soyuz Sovetskikh Sotsialisticheskikh Respublik。略称SSSR(ロシア文字ではCCCP)。15構成共和国からなる典型的な多民族国家であったが,1991年12月崩壊した。首都モスクワ。2240万2200km2。2億8000万人(1990)。〔多民族性と連邦制〕 ロシア帝国の版図を継承したソ連において最大の民族はスラブ系のロシア人であったが,ウクライナ人,ベラルーシ(白ロシア)人やトルコ系のウズベク人など100万人を超える民族だけでも約20あり,計110以上の民族が住んだ。それぞれの構成共和国の主要民族をなす15民族のほか,タタール人,チュバシ人,モルドバ人,バシキール人が多く,ユダヤ人,ドイツ人,ポーランド人も多かった。ロシア連邦共和国に16,アゼルバイジャンとウズベキスタンに各1,ジョージアに2,計20の自治共和国がおかれ,さらに8自治州,10自治管区(1977年以前は民族管区)があって一定の民族自治が行われた。このようにソ連の連邦制は民族原理を基軸としたため,民族問題と連邦制の問題が重なりあっていた。そして社会主義の理念のもとで諸民族の同権が唱えられたが,実質上はロシア中心であった。1922年の連邦発足後も,共産党組織においては〈党の連邦制〉は否定され,一貫して中央集権的原理が採られたし,また1925年以後,他の共和国とは異なってロシアにだけは〈ロシア共産党〉はつくられなかった事実も,逆にこのことを裏書きしている(ロシア共産党はソ連解体直前の1990年に発足)。なお,1924年の最初の憲法以来,各共和国の〈連邦からの自由な離脱権〉が保障されていたが,発動されることがないままに連邦崩壊に至った。言語については,ロシア語が実質的には全連邦国家語の位置を占めて,諸民族の言語生活を圧迫してきたが,1970年代にロシア語を民族間媒介用の〈族際語〉と規定するキャンペーンが行われたりした。〔歴史〕 1917年レーニン指導下のボリシェビキを中心とするロシア革命により帝政が崩壊,1918年ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が成立,1922年これを中心にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)が成立。革命直後本格化した列国の対ソ干渉戦争と国内反革命勢力との対決の危機を,赤軍の組織,戦時共産主義政策の採用で克服。1921年以後,ネップの採用により経済再建に成功,1928年五ヵ年計画,1929年農業集団化が始められ,1930年代半ばには工業国となった。この間スターリンの指導権が確立,1936年ソビエト連邦憲法(スターリン憲法)が制定され,国際政治では孤立していたが国際共産党組織(コミンテルン)を通じて指導権を確立した。一方,その背後には強制収容所の体制や1930年代の大粛清があった。第2次大戦ではドイツに完勝,戦後は東欧諸国を勢力圏としてCOMECONワルシャワ条約機構を組織して,その指導者的地位を占め,また米国と並ぶ国際政治上の指導勢力となり,米ソ対立下で冷戦を招来。しかし1956年スターリン批判後,東欧諸国の離反でその影響力は弱まる傾向にあった。1970年代はブレジネフ書記長の指導体制が固まり,西側とのデタント(緊張緩和)政策が進展した。しかし1970年代後半にはソ連のアフガニスタン侵攻などにより,西側とくに米国との関係が悪化。一方,対アフリカ,中東,アジア外交も1970年代に活発化したが,ソ中対立(中ソ論争)は中越戦争などにより激化。1985年共産党書記長に就任したゴルバチョフは,ペレストロイカ(再建)を標榜して内政,外交の両面で積極的な改革,民主化を推進し,米国,中国との関係も改善された。ゴルバチョフの改革は,一方で各共和国,各民族において民族主義や主権を主張する動きを産み出し,東欧革命をも誘発,他方では保守派の反発を招いた。1990年3月にリトアニアが独立を宣言するや,主権宣言をする共和国が相次ぎ,1991年8月,危機感を覚えた保守派がクーデタを起こしたものの,三日天下に終わった。しかし,このクーデタを契機に情勢は急展開し,同年12月,11の共和国が独立国家共同体(CIS)の設立に合意,ソビエト連邦は69年間の歴史に幕を閉じた。〔政治・経済制度の特質〕 ソ連の政治的基礎はプロレタリアート独裁の権力機関としての〈ソビエト〉(勤労者代表ソビエト)であり,その指導の中核はソビエト連邦共産党であった。経済の基礎をなすのは生産手段の社会主義的所有と社会主義的計画経済であった。中央機関のゴスプランが五ヵ年計画などによって国民経済全体を設計し,行政単位の国営企業に業務指標を課すことによって経済が営まれ,市場での自由競争は排除され,価格は公定とされた。賃金も職種ごとのノルマに対応して国家レベルで決定された。農業ではコルホーズソフホーズによる集団農場経営が中核で,国家管理の枠外の副業経営(自留地などによる)は残余の部分であった。産業部門が全連邦規模の分業として配置されるために,中央アジアにおける綿作モノカルチャーにみられるような産業構造が形成された。ペレストロイカの過程でこのような〈中央集権指令型〉経済の非効率を改革する模索が行われているうちにソ連は崩壊に至った。→ロシア
→関連項目社会主義民族自決モスクワオリンピック(1980年)

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