翻訳|Romanov
1613年から1917年までロシアを支配した王朝。即位した皇帝は18人。9世紀からロシアに君臨してきたリューリク朝が1598年に断絶し,スムータとよばれる混乱期となったが,1613年7月,ゼムスキー・ソボルによって16歳のミハイル・ロマノフMikhail Romanov(1596-1645)がツァーリに選ばれ,ロマノフ朝が成立した。ロマノフ家は古くからの名門貴族で,16世紀以来ロマノフを名のり,リューリク朝のツァーリ,イワン4世の妃アナスタシアはその出身で,彼女の甥の子がミハイルである。
18人の皇帝のなかで,大帝といわれるのはピョートル1世とエカチェリナ2世の2人だけであるが,300年のロマノフ朝の歴史は,この2人の治世とその前後の3時期に分けられるであろう。ピョートル1世までは王朝の創設期であり,基礎がつくられた時期である。ピョートル1世は,はじめ異母兄イワン5世とともに皇帝となったが,のち単独で帝位を占め,広範囲の改革を強行して,ロシアを一新させ,1721年,〈全ロシアのインペラートル(皇帝)〉を名のり,ロシアは正式にロシア帝国となった。ピョートル1世の死(1725)からエカチェリナ2世の即位(1762)までは特異な時期で,わずか37年間に6人の皇帝が在位したが,3人が女性,男性のうち2人が幼児(ピョートル2世は即位時に12歳,イワン6世は生後3ヵ月)で,のこり1人のピョートル3世は異常性格者であり,親から子へという帝位継承がまったくない。これはピョートル1世が1722年に制定した帝位継承法が,君主に遺言による後継者指名権を与えていたためであり,また彼の改革によって特権を奪われた貴族が,皇帝をあやつって権力の回復をはかったからである。エカチェリナ2世の死後の96年に即位したパーベル1世はただちにこの継承法を廃し,父から順次年長の男児に,男児のない場合は年長の弟にという継承順位の原則を定めたので,これ以後,混乱はおこらなかった。またピョートル3世は,女帝エリザベータの姉で神聖ローマ帝国のホルシュタイン公に嫁したアンナの子であるため,厳密にはピョートル3世以後をロマノフ・ホルシュタイン・ゴットルプ朝という。パーベル1世の短い治世からロシア革命までの百数十年間,ロマノフ家は多くの土地,工場,鉱山,宮殿,美術品などを所有する世界屈指の大富豪であり,アレクサンドル2世時代のように改革運動の先頭に立つこともあったが,国内の改革や革命の動きに対しては弾圧をもってのぞみ,国際的にはロシアはヨーロッパ反動の牙城と考えられていた。
最後の皇帝ニコライ2世は,1917年の二月革命の際,弟のミハイルに譲位したが,ミハイルは即位をためらい,3月4日,ニコライの退位勅書とミハイルの即位拒否の勅書が同時に公表され,ロマノフ朝は事実上消滅した。政権を握った臨時政府は,将来,新憲法によって帝政を復活する可能性もありうるとの立場をとったが,状況におされて9月に正式に共和国を宣言した。ニコライ2世は8月に家族とともにシベリアに移され,18年7月16日深夜エカチェリンブルグで銃殺された。ロマノフ朝ではこのほか,アレクサンドル2世がテロリストに暗殺されたり,イワン6世,ピョートル3世,パーベル1世がクーデタによって廃位,殺害されるなど,暗いエピソードが多い。
執筆者:倉持 俊一
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ロシアの王朝(1613~1917)。ロマノフ家は、イワン4世(雷帝)の最初の妃(きさき)アナスタシアの兄弟ニキタ・ロマノビチを始祖とするが、その祖先は14世紀前半のモスクワ貴族家門にまでさかのぼる。1598年フョードル帝の死により、リューリク朝は断絶するが、それに続く動乱時代のあと1613年、全国会議はミハイル・ロマノフ(在位1613~45)をツァーリに選出した。王朝の基盤が固まったのはその子アレクセイ(在位1645~76)のときで、その子ピョートル1世(在位1682~1725)時代にロシアは急速な近代化を遂げ、北方戦争(大北方戦争ともいう)勝利後の1721年に国名をロシア帝国とした。その後、エカチェリーナ1世(在位1725~27)、アンナ(在位1730~40)、エリザベータ(在位1741~62)、エカチェリーナ2世(在位1762~96)と女帝が続出したが、パーベル(在位1796~1801)が即位するに及んで、帝位は男子に限られるようになった(1797)。だが、ロマノフ家の男系は、すでにピョートル2世(在位1727~30)で、女系もエリザベータでとだえており、後者の死後当主となったのは、ホルシュタイン公フリードリッヒの子ピョートル3世(在位1762、母はピョートル1世の子アンナ)である。彼は即位後まもなくこれもドイツ人である妻のエカチェリーナ2世によって追放されるが、以後は両者の子孫が代々帝位についた。ロマノフ朝ロシアは、ヨーロッパの国際政治を左右する大帝国であったが、内にあっては農奴制を長く維持し(1861年まで)、農奴解放後も激化する革命運動に悩まされた。アレクサンドル2世(在位1855~81)の暗殺後、アレクサンドル3世(在位1881~94)、ついでニコライ2世(在位1894~1917)の政府は弾圧を強化したが、日露戦争の敗北、1905年の革命、第一次世界大戦などにより体制は根幹から揺らぎ、1917年の二月革命により、ニコライ2世は退位し、300年間続いたロマノフ朝は崩壊した(同年3月3日)。皇帝一家は翌年7月、反乱を起こしたチェコ軍団が接近するなかで、エカチェリンブルグで処刑された。
[栗生沢猛夫]
1613~1917
ロシアの王朝。1598年リューリク朝が断絶したあとの動乱時代をへて,ポーランドの虜となっていた大貴族フョードル・ロマノフ(のちの総司教フィラレート)の子ミハイル・ロマノフが,ゼムスキー・サボールでツァーリに選ばれ,1613年に即位した。ここにロマノフ朝が始まった。啓蒙専制君主のピョートル1世,エカチェリーナ2世,ナポレオンに勝利したアレクサンドル1世などの英王を出し,時代に即応する能力を持った反面,農奴制と専制政治の代名詞としてヨーロッパ中にその名を知られた。1917年の二月革命で終焉した。
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…正式には1721年にピョートル1世(大帝)が皇帝(インペラートルimperator)の称号をとってから,1917年の二月革命でニコライ2世が退位するまでをいう。帝室はロマノフ朝で,その首都はペテルブルグ。東方正教(東方正教会)を国教とし(ロシア正教会),ユリウス暦を用いていた。…
※「ロマノフ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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