ローイ(英語表記)Manabendra Nath Roy

改訂新版 世界大百科事典 「ローイ」の意味・わかりやすい解説

ローイ
Manabendra Nath Roy
生没年:1887-1954

インドの革命家。出身はベンガルのバラモン。本名ナレーンドラナート・バッタチャリヤNarendranāth Bhattacharya。スワデーシー運動末期からテロリストとして活躍。第1次大戦に際してドイツからの武器獲得を目的に出国し,改名した。アメリカで社会主義を知り,メキシコ共産党の創設に参加。レーニンの招待でソ連邦に渡ったが,コミンテルン第2回大会(1920)で,ブルジョア民族・民主運動の評価をめぐってレーニンと対立。ローイはブルジョア民族運動との協同(〈上からの革命〉)の必要を部分的に認めつつも,労働者・農民の組織化による〈下からの革命〉を強調した。1921年タシケントにおけるインド共産党の創設に参画。26年末コミンテルン代表として中国に派遣される。27年4月,第2次北伐開始に伴い,コミンテルンは中国共産党に汪兆銘の国民党左派との同盟を維持することを指令した。国民党顧問のM.M.ボロジンは汪兆銘の武漢政府が支配地における労農運動を抑制するのを黙認したが,ローイは労農運動の強化を唱えて対立した。7月には国民党左右両派が共産主義者の追放を条件に合同。ローイはからくもモスクワに逃げ帰った。しかしコミンテルン第6回大会(1928)で除名され帰印,国民会議派に参加した。第2次大戦中は連合国を支持して会議派と対立。急進民主党を結成した。戦後は急進的ヒューマニズムを唱え,1954年の死まで問題提起的な政治思想家であった。
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ローイ
Rām Mohun Roy
生没年:1774-1833

近代インドの社会運動家。ベンガルの富裕なバラモンの家に誕生(1772年説もある)。前半生はつまびらかでないが,当時の知識人の通例に従い,ペルシア,アラビア両語を学ぶうちに,イスラムの影響を受けた。1804-14年,東インド会社に勤め,英語を習得し財産を築いた。15年カルカッタに定住,アトミーヤ・サバーを結成して宗教・社会改革運動を開始した。ヒンドゥー教の偶像崇拝を批判,ベーダーンタ学派の唯一無形の神を唱導し,古代インドの哲学書ウパニシャッドを英語とベンガル語に翻訳した。また,古聖典に支持されない寡婦殉死(サティー)を批判,19世紀社会改革運動の原型を定めた。国際情勢に通じ近代思想の普及に努めた彼は,英語教育を重視しアングロ・ヒンドゥー・スクールを設立(1823)したり,ベンガル語やペルシア語の新聞を創刊するなど,教育,ジャーナリズムの分野でも先駆者であった。1828年に創設した宗教・社会改革団体ブラフマ・サバーはブラフマ・サマージに継承された。30年渡英,インドの徴税・司法制度について意見を述べるなど活躍したが,イギリスブリストルで客死した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ローイ」の意味・わかりやすい解説

ローイ(Manabendranāth Roy)
ろーい
Manabendranāth Roy
(1893―1954)

インドの革命理論家。本名Narendranāth Bhattāchārya。ベンガル農村のバラモンの家に生まれる。第一次世界大戦中に革命的民族運動に参加し、渡米。共産主義思想に触れ、1917年メキシコに入り、そこでコミンテルン(第三インターナショナル)によって派遣されたボロディンと会って交友が始まる。メキシコ共産党員として1920年のコミンテルン第2回大会に出席。そこでレーニンの要請で書いた民族・植民地に関する補足テーゼは民族運動内のブルジョアジーの役割に関してレーニンと評価を異にしたが、これによって彼の名は一躍有名になった。1926年にコミンテルンの幹部会員となり、同年末中国に渡る。モスクワに戻ったあとスターリンと対立し、1928年コミンテルンを除名される。ドイツに入り、1930年末インド帰国。ネルーらの支持も受け、社会主義者ともときに提携するが、第二次世界大戦中イギリスの戦争行為を支持し、民族運動から離脱。戦後は政治を離れ急進的人道主義運動に専念。著書は『過渡期のインド』(1922)など多数。

[内藤雅雄]

『J・P・ヘイスコックス著、中村平治・内藤雅雄訳『インドの共産主義と民族主義――M・N・ローイとコミンテルン』(1986・岩波書店)』


ローイ(Otto Loewi)
ろーい
Otto Loewi
(1873―1961)

オーストリアの薬理学者。ドイツのフランクフルトに生まれ、ミュンヘン大学ストラスブール大学で医学を学ぶ。1898年マールブルク大学薬理学教授マイヤーHans Horst Meyer(1853―1939)の助手となり、薬理学を専攻。1905年オーストリアのウィーン大学薬理学教授となり、1909年グラーツ大学薬理学教授に就任して、自律神経系と化学物質との関係について研究を進めた。1933年カエルの心臓の実験の結果、神経の末端から特殊な化学物質アセチルコリンの放出を確認した。1936年「神経刺激の化学的伝達に関する発見」により、イギリスのデールとともにノーベル医学生理学賞を受けた。彼はユダヤ人で、ナチスに追われ、1940年アメリカに渡り、ニューヨーク大学教授となった。

[根本曽代子]


ローイ(Raymond Loewy)
ろーい
Raymond Loewy
(1893―1986)

フランス出身のアメリカのデザイナー。パリ生まれ。パリ大学工学部を卒業。1919年アメリカに渡り、イラストレーターとして活躍したのち、29年にニューヨークにインダストリアル・デザインの事務所を開いてからは、文字どおり「口紅から機関車まで」(彼の自叙伝の副題)を網羅するあらゆるデザインの分野で活躍した。おもなものに、ペンシルベニア鉄道の流線型機関車(1937)、たばこ「ラッキー・ストライク」(1940)、自動車「スチュードベーカー」(1947)、日本のたばこ「ピース」(1952)のデザインなど。

[高見堅志郎]

『藤山愛一郎訳『口紅から機関車まで――インダストリアル・デザイナーの個人的記録』(1981・鹿島出版会)』

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百科事典マイペディア 「ローイ」の意味・わかりやすい解説

ローイ

インドの革命家。ベンガル生れ。最高位の司祭階級バラモンの出身。本名ナレーンドラナート・バッタチャリヤNarendranath Bhattacharya。1900年代初頭の,英国のベンガル分割に反対する民族運動スワラージ・スワデーシー運動の末期から,テロリストとして活躍。第1次大戦の際ドイツから武器を獲得するため出国し,改名した。その後レーニンの招待でソ連邦に渡り,コミンテルンのメンバーとして国際共産主義運動の第一線に立つ。1920年の第2回コミンテルン大会では民族解放運動と共産党のかかわりをめぐってレーニンと論争した。1926年末コミンテルン代表として中国に派遣され,中国共産党と国民党左派との同盟維持を図ったが,1927年国民党左右両派が共産主義者の追放を決めるとモスクワに戻った。1928年の第6回大会で除名されインドに帰国,国民会議派に参加した。第2次大戦中は連合国を支持して会議派と対立し,1940年急進民主党を結成。戦後は急進的ヒューマニズムを唱えている。著書に《インドの政治的将来》(1926年)や《回想録》(1964年)がある。

ローイ

インドの宗教改革家,社会運動家。ベーダやウパニシャッドなどのインドの伝統宗教思想を研究し,宗教改革運動に着手,1828年ブラフマ・サマージを設立。唯一なるブラフマンへの絶対帰依を主張し,偶像崇拝を排斥した。学校の設立等の教育活動にも努めるとともに,寡婦殉死(サティー)等の因習の打破や女性解放運動にも努力した。1830年渡英,インドの政治・社会・宗教的独立を主張したが,ブリストルで客死。

ローイ

レーウィとも。ドイツ生れの米国の薬学者。フランクフルト大学に学び,グラーツ,ブリュッセル等の大学教授を経て1940年渡米し,ニューヨーク大学教授。心臓の抑制神経を刺激すると神経末端からアセチルコリンが分泌されることを発見。1936年ノーベル生理医学賞。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ローイ」の解説

ローイ(ラームモーハン)
Rammohun Roy

1772/74~1833

インドの宗教・社会改革者。インドにおける近代の黎明期に多面的な活動をし,「近代インドの父」と呼ばれる。ベンガルザミンダールの家に生まれ,ペルシア語,サンスクリット語,英語などを学び,ヴェーダーンタ哲学のほか,イスラームやキリスト教の教理を研究した。当時のヒンドゥー教のあり方に対する批判を強め,後半生はカルカッタで改革運動に専念した。1815年にアートミーヤ・サバーを結成。28年には宗教・社会改革団体ブラフモ・サマージを創立した。偶像崇拝を批判し,唯一神ブラフマンを信じることを説くと同時に,サティー(寡婦殉死)に反対するなど社会改革運動を展開した。ジャーナリストとしても先駆者的な活動をした。30年に渡英。イギリス議会でインドの地租制度や司法制度について証言し,ブリストルで客死した。


ローイ(M.N.)
Manabendra Nath Roy

1887~1954

インドの政治家。ベンガルの出身で,本名はナレンドラナト・バッタチャリヤ。ベンガル分割反対運動のときにテロリストの革命家グループに加わり,政治活動を始めた。第一次世界大戦に際し,海外に脱出。東南アジア,日本を経てアメリカに渡り,ここで社会主義を知った。メキシコ共産党の結成に参加したのちソ連に行き,20年のコミンテルン大会で,植民地における革命路線などをめぐってレーニンと論争。同年,タシケントインド共産党の創立に参加した。コミンテルンの執行委員になり,代表として中国に派遣されたりしたが,28年に除名され,帰国した。晩年には急進的ヒューマニズムを説いた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のローイの言及

【コミンテルン】より


[植民地・民族問題]
 コミンテルンは,ヨーロッパ中心主義を脱却できなかった第二インターナショナルとは違って,植民地,従属諸国における民族運動のエネルギーを高く評価し,これを先進国における変革に連結する反帝世界革命の構図をえがいていた。植民地・民族問題の核心は,本来ブルジョア民主主義運動である民族解放運動を共産党がどこまで支持すべきかという点にあり,コミンテルン第2回大会でレーニンとインド人共産主義者ローイM.N.Royの論争を呼んだ。論争は,民族解放運動を支持しながら,同時に共産主義者の自主性をあくまで維持するという折衷案に落着した。…

【民族資本】より

… 両大戦間期には,社会主義革命を指向する運動と民族資本の主導する民族主義との関係をめぐる理論領域が複雑にからみあっていた。第2回コミンテルン大会におけるM.N.ローイ(1887‐1954)とレーニンとの対立,トロツキーとスターリンとの対立がこの問題把握の難しさを示している。レーニン,スターリンは民族資本の運動を支援することによって,社会主義的勢力の成熟を期待した。…

【ブラフマ・サマージ】より

…近代インドの宗教・社会改革運動に最も重要な役割を果たした宗教団体。1828年R.M.ローイがカルカッタにブラフマ・サバーを結成した時点をもって,ブラフマ・サマージの創設とみなすのが通説である。唯一・無形・遍在の神を礼拝し,偶像崇拝を排し,普遍的信仰を標榜するブラフマ・サバーの活動は,ローイの渡英(1830年末)以降振るわず,43年タゴールDevendranāth Tagore(1817‐1905)が20名の青年を率いて入門儀礼を受けることによって復活した。…

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