一宮庄(読み)いちのみやのしよう

日本歴史地名大系 「一宮庄」の解説

一宮庄
いちのみやのしよう

現下関市大字楠乃くすの一帯および大字吉母よしもの辺りを荘域とする長門一宮住吉すみよし神社領。立荘の時期は不詳。

元応二年(一三二〇)六月七日の朝義打渡状写(長門一宮住吉神社文書)に「長門一宮庄」とみえる。建武三年(一三三六)三月の大宮司貞近供僧神官等申状案(同文書)

<資料は省略されています>

とある。一宮庄は異国に備えて長門警固所に寄進、長門守護職の管理に移されたため、神事も次しだい衰え社家も衰微したので、嘉暦元年(一三二六)二宮にのみや庄の例に従って一宮庄の返付を幕府に申請、長門探題北条時直は下文をもって社家訴陳の旨を幕府に上申することを約したが、世上の動乱のため延引し、建武元年にも奏聞を経たのであるが、また騒乱のため遵行されず、同三年大宮司賀田貞近と供僧神官らが重ねて神領の返付を申請している。

一宮庄
いちのみやのしよう

現森町のほぼ中心部、天宮あめのみや・森・くさ円田えんでん一宮いちみやたちばな辺りに比定される。正平七年(一三五二)正月一六日の少弐資経所領注文写(筑紫古文書追加)には資経が足利尊氏から安堵された亡父貞経の本領のうちに「遠江国 一宮庄」がある。これより前、建武三年(一三三六)二月五日の少弐貞経譲状写(同文書)によれば、「遠江国一宮太田郷内一藤名地頭職」などが前筑前守護少弐(武藤)貞経から子の資経へ譲与されている。その後、武藤氏は在地領主として当地一帯に戦国期まで勢力を張った。

一宮庄
いちのみやしよう

甲斐一宮浅間神社付近にあったとみられる庄園。末木の長昌すえきのちようしよう寺蔵大般若経奥書には、明応五年(一四九六)四月下旬書写の巻に「山梨郡一宮庄木村瑞光山長昌禅寺」、同六年四月のものに「山梨郡一宮庄塩田郷木村居住(中略)雨宮家国謹書写」などとみえる。木は末木の当て字である。永正元年(一五〇四)には栗原昌種が大竜庵敷地・中沢路候屋敷以下を広厳こうごん院に寄進しているが(同年一〇月二八日「栗原昌種判物」広厳院文書)、同寺には同八年一二月一四日に飯室吉門が大積たいしやく寺敷地等一貫二〇〇文の在所を(「飯室吉門寄進状」同文書)、また天文一二年(一五四三)八月八日には原虎吉が「南さかりの田」・山之神のうちで二貫文の在所を寄進するが(「原虎吉寄進状」同文書)、いずれも当庄内の地である。

一宮庄
いちのみやのしよう

相模国一宮の寒川さむかわ神社の周辺の社領を中心として成立した荘園。「和名抄高座たかくら郡にみえる寒川郷、天養元年(一一四四)当時の大庭おおば御厨(現藤沢市・茅ヶ崎市)西境神郷(同二年二月三日「官宣旨案」県史一)が中心となったらしいことから、荘域は寒川一之宮いちのみや付近一帯で、また鎌倉中期の年月日未詳渋谷定心所領注文(同書)のなかに「一宮内大上□□」とあることから、相模川西岸の現平塚市大神おおかみの地も含まれたか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報