修禅寺(読み)シュゼンジ

デジタル大辞泉 「修禅寺」の意味・読み・例文・類語

しゅぜん‐じ【修禅寺】

静岡県伊豆市にある曹洞宗の寺。山号は肖廬しょうろ山。延暦年間(782~806)空海の弟子杲隣こうりんの創建と伝える。鎌倉時代真言宗から臨済宗となり、戦国時代北条早雲によって隆渓繁紹が入り、曹洞宗に改めた。源範頼頼家が幽閉・殺害された寺。

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精選版 日本国語大辞典 「修禅寺」の意味・読み・例文・類語

しゅぜん‐じ【修禅寺】

静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺。山号肖廬山、走湯山。延暦一七年(七九八)空海の弟子杲隣(こうりん)の創建と伝えられ、はじめは真言宗であった。建長年間(一二四九‐五六蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が来住して臨済宗に改めたが、のち隆渓繁紹が住して曹洞宗に転じた。源範頼・頼家が幽閉殺害された所として有名。

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日本歴史地名大系 「修禅寺」の解説

修禅寺
しゆぜんじ

[現在地名]豊田町大字杢路子

豊田町の西南端、俗におたけとよばれる狗留孫くるそん山の八合目にある寺で、明治三年(一八七〇)までは狗留孫山国護院観世音かんぜおん寺と称した。山号は狗留孫山、真言宗御室派で本尊は十一面観音。

狗留孫山(六一六・三メートル)は山頂からひびき灘・日本海はもとより玄界げんかい灘・周防灘をも展望できる。頂上を弥山みせんと称し、早くから霊山として信仰の対象となっていた。江戸時代の「当山由来書」によると、「神武天皇日向国ニ御幸ノ時、当嶺ヨリ異光ヲ発シテ遠ク海上ヲ照ス」という。修験霊場としても早くに開けたらしく、大宝年間(七〇一―七〇四)に行基が狗留孫山で修行したといわれ、奥の院の観音堂には、行基が安置したと伝える聖観音を祀る。

「当山由来書」に「天平勝宝六甲午年南都東大寺実忠和尚夢相ニ由テ遥ニ此山ニ尋ネ来レリ其時霊石ヨリ金色ノ光明ヲ放チテ大悲観音ノ尊容ヲ現シ玉フ」とあり、この「霊石」は現本堂の右に高くそびえる観音岩のことという。

修禅寺
しゆぜんじ

[現在地名]修善寺町修善寺

かつら川北岸に位置する曹洞宗寺院。肖廬山と号し、本尊は大日如来。空海創建と伝え、真言宗であったという。「今昔物語集」巻一一(弘法大師渡唐伝真言教帰来語)弘法大師(空海)が苦行した場所の一つとして「伊豆ノ国ノ桂谷ノ山寺」がみえる。「元亨釈書」などにも弘仁一〇年(八一九)空海が「桂谷山寺」で大般若経を書写した話が載るが、この寺は当寺にあたると考えられている。

建仁三年(一二〇三)九月二九日、二代将軍源頼家(左金吾禅室)が「伊豆国修禅寺」に下向した。先に北条氏排除に失敗して出家させられており、先陣の随兵一〇〇騎・女騎一五・御輿三・小舎人童一人、後陣の随兵は二〇〇余騎であった(吾妻鏡)。翌元久元年(一二〇四)七月一八日に頼家は北条義時によって当寺で謀殺されている(「吾妻鏡」・「鎌倉年代記」同月一九日条、「愚管抄」)。寛元四年(一二四六)に宋から来朝した蘭渓道隆が来住して臨済宗に改宗し、寺辺の景観が故国の揚州廬山に似ていることから山号福知山を肖廬山、寺号修善寺を修禅寺に改めたという(増訂豆州志稿)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「修禅寺」の意味・わかりやすい解説

修禅寺
しゅぜんじ

静岡県伊豆市にある曹洞(そうとう)宗の寺。修善寺とも書いた。肖廬山(しょうろさん)と号する。通称お弘法(くぼう)さん。開山は弘法(こうぼう)大師空海の高弟である杲隣(こうりん)。初めは真言宗であったが、建長(けんちょう)年間(1249~56)宋(そう)の禅僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が鎌倉からきてこの寺に入ったとき臨済宗となり、さらに1489年(延徳1)隆渓繁紹(りゅうけいはんしょう)によって曹洞宗に変わった。源範頼(のりより)は兄頼朝(よりとも)によってこの寺に幽閉され、1193年(建久4)梶原景時(かじわらかげとき)に襲われて自刃した。また、1204年(元久1)には北条時政(ときまさ)に幽閉された源頼家(よりいえ)がここで殺された。その史実を描いた岡本綺堂(きどう)の戯曲『修禅寺物語』は名高い。宝物館には頼家の顔を面作り師夜叉王(やしゃおう)が写したという古面や、放光般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)経などがある。近くの指月(しげつ)ヶ丘には北条政子(まさこ)が頼家の冥福(めいふく)を祈るために建てた指月殿(宋版一切経(いっさいきょう)を納めるため一切経堂ともいう)と頼家の墓がある。

[菅沼 晃]


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改訂新版 世界大百科事典 「修禅寺」の意味・わかりやすい解説

修禅寺 (しゅぜんじ)

静岡県伊豆市の旧修善寺町にある曹洞宗の寺。修善寺とも書かれた。山号は走湯山,肖廬(しようろ)山。延暦年間(782-806)に空海の弟子杲隣(こうりん)によって創建と伝えられ,もと真言宗であった。その後,鎌倉時代に来朝僧蘭渓道隆が入住して以来臨済宗となり,1259年(正元1)には一山一寧も当寺に住している。しかし当寺が発展するのは,北条早雲が一族出身の僧隆渓繁紹を住職にすえ,外護を加えてからである。隆渓は三河石雲院の崇芝性岱(そうししようたい)の弟子であるが,この結果当寺は曹洞宗となった。江戸時代の曹洞宗では,国ごとに録所寺院を置いて宗内寺院の統轄を行わせたが,当寺は最勝院(伊豆市の旧中伊豆町)とともに録所寺院となり,同国の曹洞宗如仲派の寺院を支配した。江戸時代の朱印地は30石であった。寺内には塔頭(たつちゆう)8庵があったが,1863年(文久3)に焼失し87年に復興した。当寺は岡本綺堂の《修禅寺物語》によって広く知られるようになったが,これは当寺に幽閉された鎌倉2代将軍源頼家に取材したものである。
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百科事典マイペディア 「修禅寺」の意味・わかりやすい解説

修禅寺【しゅぜんじ】

修善寺とも書く。静岡県伊豆市にある曹洞宗の寺。本尊大日如来。空海の弟子杲隣(こうりん)が真言宗の寺として創建という。鎌倉初期ここで源範頼・頼家が幽殺され,次いで蘭渓道隆がきて臨済宗に改めた。のち衰えたが,室町末期に北条早雲の外護を受け,隆渓繁紹を招き曹洞宗となった。
→関連項目修善寺[町]源範頼源頼家

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「修禅寺」の解説

修禅寺
しゅぜんじ

静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺。肖盧山と号す。もとは福知山と称した。俗にお弘法さんという。寺伝では空海の創建というが,空海の弟子杲隣(こうりん)あるいは2世が開創とする説もある。1194年(建久5)に源頼朝の弟範頼が,1203年(建仁3)には2代将軍源頼家がここに幽閉され,のち謀殺された。46年(寛元4)蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が来住して臨済宗の寺とし,修善寺から修禅寺と改名。室町初期に幕府が安国寺・利生塔を諸国に設置したが,伊豆国利生塔がここに設置された。戦国初期に北条早雲が隆渓繁紹(りゅうけいはんじょう)を住持に迎え,曹洞宗に改め現在に至る。境内には頼家の墓がある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「修禅寺」の解説

修禅寺
しゅぜんじ

静岡県田方郡修善寺町にある曹洞宗の寺
798年空海が弟子杲隣 (こうりん) に命じて創建させたという。1193年源範頼が兄頼朝に,1204年2代将軍源頼家が北条時政にここに幽閉され,謀殺された。その後蘭溪道隆が来住し真言宗から臨済宗に,さらに戦国末期に後北条氏の一族隆溪が来住し曹洞宗にかわった。鎌倉時代の遺物がある。

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デジタル大辞泉プラス 「修禅寺」の解説

修禅寺

静岡県伊豆市修善寺にある寺院。曹洞宗。正称は「福地山(ふくちざん)修禅萬安禅寺(しゅぜんばんなんぜんじ)」。もとは真言宗の寺。鎌倉時代に臨済宗に、戦国時代に曹洞宗に改宗して現在に至る。本尊の大日如来像は国の重要文化財に指定。

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