(五味文彦)
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鎌倉幕府初代の問注所執事。1162年(応保2)に右少史となり,次いで中宮属,翌年五位となり史を退く。母が源頼朝の乳母の妹だった関係から,伊豆の頼朝に京都の情報を伝えていたが,頼朝挙兵後の81年(養和1)に出家(法名善信),84年(元暦1)鎌倉に下って頼朝の信任を獲得した。史の経験を生かしてその年10月20日に新設の問注所執事となって,幕府の体制整備に尽くした。この後頼朝の側近として幕府の重要な政策決定に参画したが,京都の事情に詳しいことから,ことに幕府の朝廷対策において重きをなした。頼朝死後は大江広元とともに宿老の立場から幕府体制の安定化に努力し,北条氏の執権政治確立に大きく貢献したが,承久の乱直後,幕府の一大危機の克服を見て死去した。問注所執事は康信以後三善氏が独占,継承することになる。なお康信の家は一時期問注所とされ,また問注記等幕府関係の文書を保管する文庫でもあった。
執筆者:五味 文彦
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鎌倉幕府初代問注所執事(もんちゅうじょしつじ)。法名善信(ぜんしん)。三善氏は明法(みょうぼう)・算道(さんどう)をもって朝廷に仕える中流貴族であったが、母が源頼朝(よりとも)の乳母(めのと)の妹であった関係で、伊豆に配流されていた頼朝に京都の情報を送っていたといわれる。幕府成立後は、大江広元(おおえのひろもと)、中原親能(なかはらちかよし)などとともに京下りの文官として頼朝の側近にあり、幕府の政治機構の整備に貢献した。1184年(元暦1)より1221年(承久3)まで問注所執事に在任。承久(じょうきゅう)3年8月死去。子孫の町野・大田両氏は鎌倉・室町幕府の問注所執事を世襲。なお高野山(こうやさん)領備後(びんご)国大田荘(しょう)の地頭職(じとうしき)を給付されたところから、子孫がこの地で領主制を展開した。
[瀬野精一郎]
1140~1221.8.9
鎌倉幕府草創期の官僚。平安末期に太政官の史や中宮少属を勤める。母が源頼朝の乳母の妹であった関係から,伊豆配流中の頼朝に月3度京都の情報を送り,1180年(治承4)には源氏追討の動きをいち早く頼朝に知らせた。その後出家して入道善信と称し,84年(元暦元)頼朝の招きで鎌倉に下向し,政務についた。頼朝の訴訟機関問注所の実務を担い,91年(建久2)問注所初代執事となって,幕府の基礎固めに努める。源家将軍3代および北条執権体制下に宿老として幕政に重きをなしたが,承久の乱直後に問注所執事の職を子の康俊に譲り没した。
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…この時把握された見作田は613町6反60歩に及んでいる。96年橘氏は幕府から謀反のとがをうけて改易され,かわって三善康信が地頭職に補任された。地頭三善氏は,その定着に際し寺家側の抵抗にあったが,一族・家人を地頭代として現地に派遣し,そのもとに有力名主を又代官という形で組みこむことによってしだいに領主制を浸透させていった。…
…この氏には二つの流れがある。(1)百済系 《新撰姓氏録》に〈錦部連は三善宿禰と同祖,百済王速古大王の後なり〉とみえる。その渡来年代はわからないが,錦部連の一部が三善宿禰への改氏改姓を許されたのは805年(延暦24)前後で,当時,後宮女官に姉継,弟姉という人物がいた。ついで三善宿禰に朝臣の姓を賜ったのは903年(延喜3)ころで,当時,文章博士兼大学頭の清行などが活躍していた。清行の子は,文江と文明が文人官吏となり,浄蔵と日蔵が出家しているが,それ以後直系の子孫に著名人は見えない。…
※「三善康信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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