三善康信(読み)ミヨシヤスノブ

デジタル大辞泉 「三善康信」の意味・読み・例文・類語

みよし‐やすのぶ【三善康信】

[1140~1221]鎌倉幕府初代問注所執事法名善信。母が源頼朝乳母の妹であった関係から、伊豆に配流中の頼朝京都状況報告。のち、鎌倉に招かれて問注所執事となった。

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精選版 日本国語大辞典 「三善康信」の意味・読み・例文・類語

みよし‐やすのぶ【三善康信】

  1. 鎌倉幕府初代の問注所執事。頼朝に伊豆配流時代から通じ、京都の情報を報告、のち鎌倉で、問注所の執事となった。保延六~承久三年(一一四〇‐一二二一

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朝日日本歴史人物事典 「三善康信」の解説

三善康信

没年:承久3.8.9(1221.8.27)
生年:保延6(1140)
鎌倉幕府の吏僚。法名は善信。初代の問注所執事として鎌倉幕府の裁判,行政機構の整備に大きな役割を果たした。源氏3代の将軍の重臣として幕府の裁判,行政に重きをなし,以後の三善氏の太田・町野・矢野各家の基礎を築く。京の太政官の史の職を継承する三善の家に生まれたが,母が源頼朝の乳母の妹であったことから,伊豆に流されていた頼朝に京の情勢を知らせて治承4(1180)年のその挙兵を助けた。挙兵ののちも京にあって伊勢神宮に納める願文の草案を記すなど頼朝を助けていたが,幕府の成立とともに頼朝に招かれて元暦1(1184)年4月14日に鎌倉に下り,幕府の政務の補佐を依頼された。10月20日に問注所が幕府に設置されると,その執事となって裁判制度の整備を進めた。以後,京の故実や芸能に詳しいことから,大江広元と共に朝廷との関係で頼朝の顧問役を果たしたばかりか,文治5(1189)年の奥州合戦や翌年の頼朝の上洛では鎌倉の留守を沙汰し,問注所が康信の家に移されると,幕府の文庫の機能も担わされた。頼朝の死後も幕府の重臣としての役割を果たして,承久の乱(1221)では特に招かれて意見を求められると,主戦論を述べている。幕府勝利の直後に職を辞し,息子の康俊に譲って世を去った。以後,問注所の執事は康信の流れに固定されていった。<参考文献>五味文彦『吾妻鏡の方法』

(五味文彦)

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改訂新版 世界大百科事典 「三善康信」の意味・わかりやすい解説

三善康信 (みよしやすのぶ)
生没年:1140-1221(保延6-承久3)

鎌倉幕府初代の問注所執事。1162年(応保2)に右少史となり,次いで中宮属,翌年五位となり史を退く。母が源頼朝の乳母の妹だった関係から,伊豆の頼朝に京都の情報を伝えていたが,頼朝挙兵後の81年(養和1)に出家(法名善信),84年(元暦1)鎌倉に下って頼朝の信任を獲得した。史の経験を生かしてその年10月20日に新設の問注所執事となって,幕府の体制整備に尽くした。この後頼朝の側近として幕府の重要な政策決定に参画したが,京都の事情に詳しいことから,ことに幕府の朝廷対策において重きをなした。頼朝死後は大江広元とともに宿老の立場から幕府体制の安定化に努力し,北条氏の執権政治確立に大きく貢献したが,承久の乱直後,幕府の一大危機の克服を見て死去した。問注所執事は康信以後三善氏が独占,継承することになる。なお康信の家は一時期問注所とされ,また問注記等幕府関係の文書を保管する文庫でもあった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三善康信」の意味・わかりやすい解説

三善康信
みよしやすのぶ
(1140―1221)

鎌倉幕府初代問注所執事(もんちゅうじょしつじ)。法名善信(ぜんしん)。三善氏は明法(みょうぼう)・算道(さんどう)をもって朝廷に仕える中流貴族であったが、母が源頼朝(よりとも)の乳母(めのと)の妹であった関係で、伊豆に配流されていた頼朝に京都の情報を送っていたといわれる。幕府成立後は、大江広元(おおえのひろもと)、中原親能(なかはらちかよし)などとともに京下りの文官として頼朝の側近にあり、幕府の政治機構の整備に貢献した。1184年(元暦1)より1221年(承久3)まで問注所執事に在任。承久(じょうきゅう)3年8月死去。子孫の町野・大田両氏は鎌倉・室町幕府の問注所執事を世襲。なお高野山(こうやさん)領備後(びんご)国大田荘(しょう)の地頭職(じとうしき)を給付されたところから、子孫がこの地で領主制を展開した。

[瀬野精一郎]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三善康信」の解説

三善康信
みよしのやすのぶ

1140~1221.8.9

鎌倉幕府草創期の官僚。平安末期に太政官の史や中宮少属を勤める。母が源頼朝の乳母の妹であった関係から,伊豆配流中の頼朝に月3度京都の情報を送り,1180年(治承4)には源氏追討の動きをいち早く頼朝に知らせた。その後出家して入道善信と称し,84年(元暦元)頼朝の招きで鎌倉に下向し,政務についた。頼朝の訴訟機関問注所の実務を担い,91年(建久2)問注所初代執事となって,幕府の基礎固めに努める。源家将軍3代および北条執権体制下に宿老として幕政に重きをなしたが,承久の乱直後に問注所執事の職を子の康俊に譲り没した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三善康信」の意味・わかりやすい解説

三善康信
みよしやすのぶ

[生]保延6(1140)
[没]承久3(1221).8.9.
鎌倉幕府の問注所執事。母の姉が源頼朝の乳母であった縁故から,伊豆に配流された頼朝にしばしば使者を使って京都の情勢を知らせた。頼朝の求めに応じて元暦1 (1184) 年京都から鎌倉に下って初代問注所執事となり,法律と京都の政治に関する知識をもとに,幕府の最高級役人として重要な役割を果した。子孫は,太田氏や町野氏など,鎌倉・室町幕府の役人として活動した。

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百科事典マイペディア 「三善康信」の意味・わかりやすい解説

三善康信【みよしやすのぶ】

鎌倉幕府初代の問注所執事。法名善信(ぜんしん)。母が源頼朝の乳母の妹であったところから伊豆に配流(はいる)中の頼朝にしばしば京都の動静を報告。1184年頼朝の招きで鎌倉に下り,問注所執事となり幕府の基礎を固めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三善康信」の解説

三善康信 みよし-やすのぶ

1140-1221 鎌倉時代の幕府官僚。
保延(ほうえん)6年生まれ。明法家(みょうぼうか)の出身。源頼朝の乳母の妹が母という縁で,配流中の頼朝に京都の情勢を月に3度連絡していた。元暦(げんりゃく)元年(1184)鎌倉幕府問注所の初代執事。子孫は町野,太田氏などに分流。承久(じょうきゅう)3年8月9日死去。82歳。法名は善信。通称は大夫属(さかん)入道。

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旺文社日本史事典 三訂版 「三善康信」の解説

三善康信
みよしやすのぶ

1140〜1221
鎌倉前期,公家出身の政治家で,初代問注所執事
法名善信 (ぜんしん) 。母は源頼朝の乳母の妹。伊豆に流罪中であった頼朝に京都の動静を報じ,1184年問注所が設置されると鎌倉に招かれて執事(長官)になる。法律に通じた官僚として幕府の基礎強化に尽くす。1221年執事を子康連に譲って隠退した。

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世界大百科事典(旧版)内の三善康信の言及

【大田荘】より

…この時把握された見作田は613町6反60歩に及んでいる。96年橘氏は幕府から謀反のとがをうけて改易され,かわって三善康信が地頭職に補任された。地頭三善氏は,その定着に際し寺家側の抵抗にあったが,一族・家人を地頭代として現地に派遣し,そのもとに有力名主を又代官という形で組みこむことによってしだいに領主制を浸透させていった。…

【三善氏】より

…この氏には二つの流れがある。(1)百済系 《新撰姓氏録》に〈錦部連は三善宿禰と同祖,百済王速古大王の後なり〉とみえる。その渡来年代はわからないが,錦部連の一部が三善宿禰への改氏改姓を許されたのは805年(延暦24)前後で,当時,後宮女官に姉継,弟姉という人物がいた。ついで三善宿禰に朝臣の姓を賜ったのは903年(延喜3)ころで,当時,文章博士兼大学頭の清行などが活躍していた。清行の子は,文江と文明が文人官吏となり,浄蔵日蔵が出家しているが,それ以後直系の子孫に著名人は見えない。…

※「三善康信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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