三条実万(読み)サンジョウサネツム

デジタル大辞泉 「三条実万」の意味・読み・例文・類語

さんじょう‐さねつむ〔サンデウ‐〕【三条実万】

[1802~1859]江戸末期の公家実美さねとみの父。光格仁孝孝明の3天皇に仕え、朝権伸張に尽力日米修好通商条約勅許に反対して大老井伊直弼いいなおすけと対立し、幕府より謹慎を命ぜられた。

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精選版 日本国語大辞典 「三条実万」の意味・読み・例文・類語

さんじょう‐さねつむ【三条実万】

  1. 江戸末期の公卿武家伝奏。内大臣。公修(きんのぶ)の二男。実美(さねとみ)の父。幕末公武の間に処して朝威の回復に尽力。将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立に関係し、日米修好通商条約調印問題では開国反対の立場をとって条約拒絶を主張。のち幕府の嫌疑を受け、落飾、謹慎を命ぜられる。享和二~安政六年(一八〇二‐五九

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改訂新版 世界大百科事典 「三条実万」の意味・わかりやすい解説

三条実万 (さんじょうさねつむ)
生没年:1802-59(享和2-安政6)

幕末の尊王攘夷派の公卿。実美の父。1831年(天保2)議奏,48年(嘉永1)武家伝奏を経て,57年(安政4)内大臣となった。翌58年3月に官を辞したが,とくに許されて朝議に加わった。徳川斉昭松平慶永島津斉彬と結んで将軍継嗣問題では一橋慶喜を推し,また青蓮院宮や近衛忠凞と親しく,幕府が奏請した日米修好通商条約の勅許には,積極的に反対した。さらに同年8月,幕府の条約調印は遺憾である旨を記した水戸藩あての勅諚(戊午の密勅)の降下にも参画した。安政の大獄がはじまると,領地である久世郡上津屋村に身を避け,ついで一条寺の邸宅に移ったが,59年6月,落飾謹慎を命ぜられた。死後の追号を忠成という。典礼に通じ,和歌にもすぐれていた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三条実万」の意味・わかりやすい解説

三条実万
さんじょうさねつむ
(1802―1859)

幕末の公卿(くぎょう)。享和(きょうわ)2年2月15日清華家(せいがけ)三条公修(きんのぶ)の子として京都に生まれる。幼名千代麿(ちよまろ)。1824年(文政7)権大納言(ごんだいなごん)、31年(天保2)議奏(ぎそう)、48年(嘉永1)武家伝奏(でんそう)、57年(安政4)内大臣を歴任。翌58年日米修好通商条約の勅許問題が生じると勅許反対の立場で朝議を動かし、また前後しておきた将軍継嗣(けいし)問題では一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推し、朝廷内の一橋派の中心人物となった。大老井伊直弼(いいなおすけ)が条約無勅許調印を強行すると、それに対抗して水戸(みと)家への勅諚(ちょくじょう)発出に尽力し、佐幕派の関白九条尚忠(くじょうひさただ)の排斥運動を行った。そのため安政(あんせい)の大獄に連座し、59年落飾、慎(つつしみ)に処せられ、同年10月6日病死した。

[毛利敏彦]

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朝日日本歴史人物事典 「三条実万」の解説

三条実万

没年:安政6.10.6(1859.10.31)
生年:享和2.2.15(1802.3.18)
幕末の公家。父は三条公修,母は一条輝良の娘。天保2(1831)年議奏,安政4(1857)年5月内大臣。同5年,日米修好通商条約調印,将軍継嗣問題を契機に,松平慶永,島津斉彬ら一橋派からの入説を受く。条約奏請のため上京した老中堀田正睦に,条約反対・徳川慶喜継嗣擁立の勅書が下るよう画策し,同年8月には条約調印を不満とする孝明天皇の意志に基づいて,水戸藩に幕政改革の密勅を降下すべく尽力。幕府との協調路線をとる九条尚忠を指弾し,関白の辞職を迫った。9月,老中間部詮勝の上洛に伴い志士の捕縛が進むなか,朝廷会議出席を辞退し隠棲,翌6年4月落飾・慎に処せられ籠居先の一乗寺村で没。

(保延有美)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三条実万」の解説

三条実万 さんじょう-さねつむ

1802-1859 江戸時代後期の公卿(くぎょう)。
享和2年2月15日生まれ。三条公修(きんおさ)の次男。母は一条輝良(てるよし)の娘。文化11年従三位にのぼり,文政7年権(ごんの)大納言,安政4年内大臣となる。日米修好通商条約の勅許に反対。将軍継嗣問題では,一橋派の中心として関白九条尚忠(ひさただ)と対立した。安政の大獄に際して出家。従一位。安政6年10月6日死去。58歳。贈右大臣。贈正一位。法名は澹空。手記に「三条実万手録」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三条実万」の意味・わかりやすい解説

三条実万
さんじょうさねつむ

[生]享和2(1802).2.15. 京都
[没]安政6(1859).10.5/6. 京都
江戸時代末期の公卿。号は虚中,落飾して澹空と号した。内大臣公修の次男。嘉永1 (1848) 年武家伝奏となり,開国問題以後の朝幕交渉にたずさわり,朝権回復に努めた。将軍継嗣問題では一橋派と結び,佐幕派の関白九条尚忠を排斥。安政の大獄で引退。

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367日誕生日大事典 「三条実万」の解説

三条実万 (さんじょうさねつむ)

生年月日:1802年2月15日
江戸時代末期の公家
1859年没

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世界大百科事典(旧版)内の三条実万の言及

【梨木神社】より

…京都市上京区にあり,三条実万(さねつむ),三条実美(さねとみ)父子をまつる。実万は幕末の外交政策刷新などに活動し,孝明天皇に信任されたが,安政の大獄に際して落飾した。…

※「三条実万」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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