幕末の尊王攘夷派の公卿。実美の父。1831年(天保2)議奏,48年(嘉永1)武家伝奏を経て,57年(安政4)内大臣となった。翌58年3月に官を辞したが,とくに許されて朝議に加わった。徳川斉昭,松平慶永,島津斉彬と結んで将軍継嗣問題では一橋慶喜を推し,また青蓮院宮や近衛忠凞と親しく,幕府が奏請した日米修好通商条約の勅許には,積極的に反対した。さらに同年8月,幕府の条約調印は遺憾である旨を記した水戸藩あての勅諚(戊午の密勅)の降下にも参画した。安政の大獄がはじまると,領地である久世郡上津屋村に身を避け,ついで一条寺の邸宅に移ったが,59年6月,落飾謹慎を命ぜられた。死後の追号を忠成という。典礼に通じ,和歌にもすぐれていた。
執筆者:小野 正雄
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幕末の公卿(くぎょう)。享和(きょうわ)2年2月15日清華家(せいがけ)三条公修(きんのぶ)の子として京都に生まれる。幼名千代麿(ちよまろ)。1824年(文政7)権大納言(ごんだいなごん)、31年(天保2)議奏(ぎそう)、48年(嘉永1)武家伝奏(でんそう)、57年(安政4)内大臣を歴任。翌58年日米修好通商条約の勅許問題が生じると勅許反対の立場で朝議を動かし、また前後しておきた将軍継嗣(けいし)問題では一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推し、朝廷内の一橋派の中心人物となった。大老井伊直弼(いいなおすけ)が条約無勅許調印を強行すると、それに対抗して水戸(みと)家への勅諚(ちょくじょう)発出に尽力し、佐幕派の関白九条尚忠(くじょうひさただ)の排斥運動を行った。そのため安政(あんせい)の大獄に連座し、59年落飾、慎(つつしみ)に処せられ、同年10月6日病死した。
[毛利敏彦]
(保延有美)
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