伊予国(愛媛県)和気郡,伊予灘に臨む松山城下町の外港。1603年(慶長8)加藤嘉明の時代に初めて船場を設け,船奉行を置いた。35年(寛永12)松平定行の松山入封時に,藩船と船手400戸を船奉行に,町方を町奉行に管轄させた。1773年(安永2)町奉行を廃して,船奉行が町方を支配することになった。1663年(寛文3)三津肴問屋が置かれ,95年(元禄8)石積みの防波堤が造成された。このころの生魚問屋株は18で,近世初期から瀬戸内有数の魚市が発達していた。1833年(天保4)諸問屋御定書が制定され,問屋の業務は詰会所で行われることになった。44年(弘化1)には防波堤が拡張され,港はいっそう完備して繁栄した。55年(安政2)外港としての重要性から砲台が築造された。松山城下の三津口(みつぐち)から三津町の間は三津道が整備されていた。1906年,三津港の北に高浜港が開港され,両港の間には競合関係が発生してくる。40年松山市に合体。
執筆者:三好 昌文
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…平安京遷都以後は,京都の東の外港として栄え,はやく《蜻蛉日記》はその殷賑(いんしん)の有様を描いて,〈いとものむつかしき屋ども〉が建ち並び,近辺の浜には〈湖面(うみづら)にならびてあつまりたる屋どものまへに,船どもをきしにならべよせつゝあるぞいとおかしき〉と記す。また《新猿楽記》には,東は〈大津,三津〉,西は〈淀の渡,山崎〉にと走り回る馬借・車借が描かれており,西の淀・山崎とともに,東の大津・三津が京都の外港として栄えていたことがうかがわれる。なお三津とはのちの下坂本を指し,志津,今津,戸津の三つの港があったところから,こう呼ばれたものである。…
…人口1万2999(1995)。北は東広島市,東は竹原市に接し,中央部を三津大川が南流して三津湾に注ぐ。中心集落の三津は古くから瀬戸内海航行の港として栄え,近世には広島藩の年貢米を収める藩蔵が設けられていた。…
※「三津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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