(読み)ツ

デジタル大辞泉 「津」の意味・読み・例文・類語

つ【津】

船が停泊する所。また、渡船場。ふなつき場。港。「三箇さんが
海上うなかみのその―をさして君がぎ行かば」〈・一七八〇〉
港をひかえて、人の多く集まる所。また一般に、人の多く集まる地域。
「十四日の夕暮、敦賀の―に宿をもとむ」〈奥の細道
[類語]港湾波止場はとば船着き場船泊まり桟橋埠頭ふとう岸壁がんぺき築港海港河港かこう商港漁港軍港ハーバーポート

しん【津】[漢字項目]

常用漢字] [音]シン(呉)(漢) [訓]
〈シン〉
舟着き場。渡し場。「津渡/河津入津要津
体から出る液体。つば・汗など。「津液
次々とわき出てうるおす。「興味津津
〈つ〉「津波津津浦浦
[名のり]ず

つ【津】[地名]

三重県中部、伊勢湾に面する市。県庁所在地。もと藤堂氏の城下町。県行政・文教の中心地。古く、安濃津あのつと称し、三津さんしんの一。平成18年(2006)1月、久居ひさい市や周辺8町村と合併。人口28.6万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「津」の意味・読み・例文・類語

つ【津】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 海岸・河口・川の渡し場などの、船舶の停泊するところ。船つき場。港。
      1. [初出の実例]「浪速の渡りを経て青雲の白肩(しらかた)の津(つ)に泊てたまひき」(出典:古事記(712)下)
      2. 「沖つ波辺波な越しそ君が船漕ぎ帰り来て津(つ)に泊つるまで」(出典:万葉集(8C後)一九・四二四六)
    2. 泉など、水の湧き出るところ。
      1. [初出の実例]「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津(つ)の上に 率(あども)ひて 未通女壮士(をとめをとこ)の 行き集ひ」(出典:万葉集(8C後)九・一七五九)
    3. 港をひかえて人の集まる土地。港町。また、一般に人の多く集まる地域をいう。古代には薩摩坊津(ぼうのつ)・筑前博多津・伊勢安濃津を三箇(さんが)の津と呼び、また、江戸時代には、特に京都・大坂・江戸を三箇の津と称した。
      1. [初出の実例]「山しろの国、あわたくちとやらんの〈略〉津におかれし事」(出典:評判記・吉原用文章(1661‐73)五三)
      2. 「十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ」(出典:俳諧・奥の細道(1693‐94頃)敦賀)
  2. [ 2 ] 三重県中東部の地名。県庁所在地。伊勢湾に面し、伊勢平野の中央部を占める。中世までは日本三津の一つに数えられ、室町時代には対明貿易で栄えた。江戸時代は、藤堂氏三十二万石の城下町、伊勢別街道伊賀街道との結節点にある伊勢(参宮)街道の宿場町として繁栄。真宗高田派の本山、専修(せんじゅ)寺などがある。明治二二年(一八八九)市制。旧名安濃津(阿野津)。

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改訂新版 世界大百科事典 「津」の意味・わかりやすい解説

津[市] (つ)

三重県中央部の県庁所在都市。2006年1月旧津市,久居(ひさい)市と安濃(あのう),一志(いちし),香良洲(からす),河芸(かわげ),芸濃(げいのう),白山(はくさん)の6町および美里(みさと)村,美杉(みすぎ)村が合体して成立した。人口28万5746(2010)。

津市北部中央の旧町。旧安芸(あげ)郡所属。1978年町制。人口1万1152(2005)。南東は旧津市に接する。西部は布引(ぬのびき)山地に属する山地で,東部は安濃川,穴倉川沿いに沖積低地が開ける。基幹産業は米作中心の農業であるが,現在は都市型農業への転換が図られている。また東端部や津市と隣接する地域では,住宅・工業用地の開発が進んでいる。安濃には戦国時代に当地を支配した細野氏の居城安濃城跡があり,連部(つらべ)にある善福寺には,重要文化財の木造毘沙門天立像がある。また田端上野には全国的にも珍しい双方中方墳と呼ばれる明合(あけあい)古墳(史)があり,古墳時代前期の築造と推定されている。

津市南部の旧町。旧一志郡所属。人口1万4853(2005)。西部は布引山地に属する丘陵性山地で,北部を雲出川が南東へ曲流し,町の東端で波瀬川を合流する。集落と耕地は両河川沿いに形成され,特に合流西側に開けた肥沃な沖積低地は一志米を産する水田地帯になっている。基幹産業は農業で,米作のほかに施設園芸が盛ん。生糸の産地として知られ,養蚕農家も多い。古くから開けた地で,遺跡や古墳が多く,先土器~弥生時代の下名倉遺跡,先土器~縄文時代の田尻上野遺跡,弥生~室町時代の鳥居本遺跡やヒジリ谷古墳群上野山古墳群などがある。また大和地方と伊勢神宮を結ぶ古道が通じ,中世には六条院領日置荘が置かれた。名所・古刹(こさつ)が多く,矢頭の大杉は県天然記念物に,井関延命寺の石棺は県文化財に指定されている。JR名松線,近鉄大阪線が通じ,伊勢自動車道一志嬉野インターチェンジが近い。

津市南東端の旧町。旧一志郡所属。人口5174(2005)。北西は旧津市に接する。全域が雲出(くもず)川河口の三角州にあり,東は伊勢湾に面する。矢野浦は雲出川水運の重要な港で,中世には伊勢神宮へ周辺の御贄米などを運び,江戸時代には津藩,紀州藩の年貢米を松阪,津などへ輸送した。基幹産業は米作農業と沿岸漁業で,ノリ養殖も行われ,梨の特産がある。伊勢の海県立自然公園に指定されている東部海岸地帯は遠浅で,夏には海水浴客でにぎわう。公園内にある香良洲神社には天照大神の妹神の稚日女尊が祭られている。三重海軍航空隊が1942-45年の間あった。

津市北東端の旧町。旧安芸郡所属。人口1万7968(2005)。北は鈴鹿市,南は旧津市に隣接し,東は伊勢湾に面する。北西部は標高50m前後の小丘陵地で,谷間に集落と耕地が散在し,南東部には伊勢湾沿岸平野が開け,伊勢鉄道線,近鉄名古屋線,国道23号線が並走している。中心集落の上野は室町時代に伊勢参宮が活発になるにつれて宿場として発展し,江戸時代には本陣,問屋,紀州藩の御用飛脚などが置かれた。基幹産業は農漁業で,農業は米,野菜,果実を主産物とし,特に河芸ミカン,黒田キャベツは有名。沿岸部ではイワシ,コウナゴなどの沿岸漁業が盛んで,伊勢煮干しとして全国に出荷されている。また旧津市や北勢工業都市方面への通勤者も多く,千里ヶ丘団地が建設されベッドタウン化が進んでいる。毎年7月には奇祭として知られる〈ざる破り神事〉が行われる。

津市北端の旧町。旧安芸郡所属。人口8492(2005)。東部は安濃川の沖積低地で,集落と耕地が広がり,西部は布引山地北部の山地が占める。中心集落の椋本(むくもと)は近世,伊勢別街道の宿場町として栄え,幕末には旅籠二十数軒を数えた。当時の面影を残す角屋が現存する。基幹産業は農業で,近年,米・麦作中心の農業から野菜,果樹,茶栽培を組み合わせた都市近郊型農業に移行している。椋本に天然記念物の大ムクがあり,北端の楠原には鎌倉末期の磨崖仏,石山観音がある。安濃川上流に安濃ダム(1989年完成)による錫杖湖ができ,湖畔は宿泊施設など整備が進んでいる。伊勢自動車道芸濃インターチェンジがある。
執筆者:

津市北東部の旧市で,県庁所在都市。1889年市制。人口16万5182(2005)。JR紀勢本線,近鉄名古屋線,国道23号線が南北に貫通する。市域の西部は丘陵・台地をなすが,大部分は安濃川,岩田川,志登茂川,雲出古(くもずふる)川による沖積地で,中心市街地は前3川の河口付近に発達している。1873年三重県庁が四日市から津に移され,津は県政の中心となった。市街地の中核は安濃川と岩田川にはさまれた地区で,城跡のある丸之内は官庁街,真言宗観音寺門前の大門町は代表的繁華街であった。第2次大戦の戦災で市街地の多くは焼失したが,国道23号線を主軸として復興が図られ,中心商店街が国道沿いに形成された。その後,津駅前地区の整備が進み,さらに三重大学や公・私立短大のある北部地区と西部の丘陵地帯に市街地が拡大している。伊勢自動車道のインターチェンジがある。戦前は紡織業が基幹産業であったが,戦後は南の高茶屋地区の旧海軍工厰用地などに電気機器・食品工場が立地し,1969年には南端の伊倉津埋立地に日本鋼管津造船所(現,ユニバーサル造船津事業所)が進出した。しかし経済活動の中核をなすのは第3次産業で,その従業者比率は全従業者の68%(1995)と高く,卸売販売額も県下第2位である。北部の一身田(いしんでん)は江戸時代に真宗高田派の本山専修(せんじゆ)寺の寺内町および参宮街道の宿場として発達した。津藩主藤堂氏の山荘であった市立偕楽公園はツツジ,桜の名所で,南部の阿漕(あこぎ)浦は海水浴場として知られる。
執筆者:

伊勢国安濃郡の城下町。古くは安濃津(あのつ)と呼ばれ,博多津,坊津(ぼうのつ)と並ぶ三津の一つであったが,15世紀末の地震によって港湾としての機能は弱まり,一海浜農村になった。近世には単に津と呼ばれることが多かった。最初の築城者については諸説あるが,16世紀中葉のこととされる。織田信長の伊勢征圧で津はその支配下におかれ,以後20余年間織田信包(のぶかね)が城主となった。信包は1580年(天正8)津城を拡張,天守閣を建立し,津町を阿漕の旧地から城下に移して,住民に公課免除の特典を与えた。文禄年間(1592-96)に富田氏が入城し,関ヶ原の戦で町が荒廃した後は復旧につとめたが,城下戸数は500軒ほどにすぎなかった。

 1608年(慶長13)藤堂高虎が伊予から入国し,以後,津は廃藩置県に至るまで津藩藤堂氏の領土支配の中心地になった。この期間に近代の津市街の原型がつくられ,文物,民情,風俗,習慣,趣味,嗜好などの個性もここで形成された。高虎は有事の際に伊賀の上野城を用いることとし,津城は平時の居城として構築した。藩士も両城に分けられた。最初に侍屋敷の地割りがすすめられ,伊予から従ってきた商人のため伊予町がつくられ,市街が整備された。伊勢参宮街道(伊勢路)が城下を通過するように付け替えられ,堀川も切り開かれた。高虎以降も城下建設がすすめられ,寺院がふえ,民家集住策がとられ,町地が急速に膨張した。

 町の支配のために町年寄がおかれ,伊藤,加藤,岡の主家の世襲とされた。その下に名主がおかれ,町務や上下伝達の役をつとめた。町方の住民は伝馬以外の公課を免除されたが,藩の城下町に対する支配は厳しかった。五人組がつくられ,しばしば触書が出され,1683年(天和3)には町民生活の全般を規制する町方21ヵ条が制定された。商工業としては,米穀,津綟子(つもじ),木綿,晒布などの流通や酒造,鋳物などの生産があったが,松坂に名実とも押されてふるわず,藩の商工策も消極的であった。しかし,伊勢参宮の通り道であったため旅籠屋は多く,抜参りの年には町は多忙をきわめた。
執筆者:

津市南西部の旧町。旧一志郡所属。人口1万3040(2005)。西部は布引山地とその東側斜面の丘陵性山地であるが,南東部には雲出川が流れて沖積低地がひらける。古来,大和と伊勢を結ぶ道の要衝にあり,川口には聖武天皇の行宮(あんぐう)が置かれ,随従した大伴家持の歌に〈河口の野辺〉(《万葉集》巻六)と詠われている。また川口関は催馬楽(さいばら)や《源氏物語》にみえ,著名であった。布引山地を青山峠で越えるこの道は,近世には初瀬(はせ)街道として伊勢参宮や大和長谷寺参詣に利用され,垣内(かいと)は宿場として栄えた。山間部の物資や年貢米の運送に雲出川の舟運は重要であった。川沿いの平地では〈一志米〉と称される良質の米を産し,山地ではシイタケなどを栽培,畜産や林業なども行われる。西部の山地は室生赤目青山国定公園に含まれ,なだらかな隆起準平原の青山高原東斜面には布引の滝がある。雲出川上流には家城(いえき)ラインと呼ばれる峡谷が続く。上ノ村にある成願(じようがん)寺の木造阿弥陀如来像と《絹本著色仏涅槃図》は重要文化財。JR名松線,近鉄大阪線が通じ,かつての初瀬街道のルートはほぼ国道165号線となっている。
執筆者:

津市中部の旧市。1970年市制。人口4万2191(2005)。市域は東西に細長く,西は布引山地東側の山地で,中央部を榊原川と長野川が南東流して雲出川に合流し,下流域に沖積低地が開けるが,丘陵や台地が多い。中世,伊勢神宮領の御厨(みくりや)や御園が置かれ,また平家に伝領されてのち久我家領となった木造(こつくり)荘があった。木造には伊勢国司北畠氏から分家した木造氏が南北朝期から居城したと伝え,木造氏は戦国期には織田信長・信雄に仕え,戸木(へき)城に拠って蒲生氏郷と戦っている。久居の市街地区の発展は,1669年(寛文9)藤堂高通が津藩より分封されて野辺(のんべ)の高台に居館を築き,町場が形成されたことに始まる。1908年歩兵第51連隊,第30旅団司令部が設けられ,第2次大戦後は陸上自衛隊久居駐屯地として引きつがれている。明治中ごろからの瓦や大正中期からのタオルなどの製造業,米作を中心に野菜,果樹の栽培を行う農業が営まれるが,近年はむしろ住宅都市的性格を強めており,市外従業者比率が高く,工業団地も立地する。南東部を国道165号線が通り,南北に伊勢自動車道が走り,久居インターチェンジがある。西の布引山地は室生赤目青山国定公園に含まれ,その東麓には榊原温泉がある。近鉄名古屋線が通じる。
執筆者:

伊勢国の城下町。1669年(寛文9)津藩主藤堂高次の次男高通が宗家領のうち5万石を分領されて久居藩を創設,翌年一志郡に築塁を命じられ,雲出川を望む懸崖の地,野辺の高台の一角に居館を設計し,侍屋敷を配置,町割りを進めた。1年後藩主が入部したときは居館も板屋根であり,侍屋敷が約200戸,町家が約500戸という規模であった。城主格大名として高通を藩祖に16代続いたが,江戸時代を通じて城は築かれなかった。

 御殿と呼ばれた居館の前方に大手町,中町,北町があって武士が居住し,その外側に本町,二ノ町,幸(さや)町,旅籠町,五軒町,七軒町,万(よろず)町,愛宕(あたご)町,寺町があって商工民や僧職者が住んだ。原野を切り開いて設定されたため家中の屋敷割りは広く,T字交差の道路などに軍事上の配慮がなされている。伊賀街道から分岐した奈良道や,初瀬道が通じ,奈良・大坂方面からの伊勢参宮などに利用されることも少なくなかった。近世を通じてほとんど町域の変化はなく,明治維新を迎えた。
執筆者:

津市北西部の旧村。旧安芸郡所属。人口4094(2005)。西に布引山地の笠取山(842m),北に経ヶ峰(819m)がそびえ,中央を雲出川の支流長野川が南東流する。古くは五百野(いおの)御厨,長野御厨など,伊勢神宮の御厨が置かれていた。中世,布引山地の山並みに城を構えた長野氏は一帯に勢力を扶植し,室町幕府奉公衆にもなっている。笠取山と経ヶ峰の鞍部にある長野峠は,伊勢と伊賀や大和とを結ぶ要衝で,近世には伊勢の津と伊賀の上野を結ぶ伊賀街道(現,国道163号線)が津藩領の幹線道路であった。北長野は峠下の宿場として旅籠(はたご)や茶屋が軒を並べ,にぎわった。農林業が中心で,米作のほかシイタケやたけのこの栽培などが行われるが,村外就労者も少なくない。長野氏城跡(史)のほか,長野氏一家衆家所氏の居城跡などもある。村の西端,笠取山一帯は室生赤目青山国定公園に含まれる。

津市南西端の旧村。旧一志郡所属。人口6392(2005)。西は奈良県に接し,村域の9割近くが山林で,県境には俱留尊(くろそ)山,三峰(みうね)山など標高1000m以上の山がそびえる。伊勢湾に注ぐ雲出川が中央を北流,北部で八手俣(はてまた)川が合流する。また西部を名張川が北流する。山間にありながら伊勢と大和を結ぶ要路にあたり,南北朝期には伊勢国司北畠氏の居城霧山城(多気(たけ)城)が築かれた。上多気・下多気一帯には城下が形成されていたと考えられ,北畠氏の居館は多気御所と呼ばれ,戦国時代末期に織田信長の侵攻により大河内(おかわち)城(現,松阪市)に移るまで,北畠氏の本拠であった。江戸時代には紀州藩領と津藩領が混在した。杉,ヒノキの良材を産し,茶の産地としても知られた。霧山城跡(史),北畠氏館跡庭園(名・史),三多気(みたげ)の桜(名)など名所旧跡が多く,雲出川沿いの竹原には美杉温泉(単純硫化水素泉,18℃)がある。西部の山地は室生赤目青山国定公園に含まれる。伊勢奥津までJR名松線が通じ,名張川沿いを国道368号線が走る。
執筆者:


津 (つ)

船舶の来着・出発する海岸・河岸の交通要地の総称。ただし,地名としては,多く,特定の機能上,地形上の特徴を有する(みなと)・(とまり)・渡しなどに該当しない場合に付される。川の場合は川津と称する。古代律令制社会では,民部省の管掌下,国郡司による国家的管理をうけた。中世では,その伝統をひく国津(国府の外港)が重要な位置を占め続けるとともに,《庭訓往来》に領地開発の際設置すべきものとして〈廻船着岸之津〉が上げられているように,さまざまな津が各地域の開発にともなって簇生した。その中には,備後国尾道(おのみち)や伊勢国安濃津(あのつ)のように,荘園の倉敷や津屋が集中し,中小都市の実態を有するに至ったものも多い。また,津はしばしば市津と称されたように,市の付設が一般的であり,その地域における重要な物資集散の場,市場集落となった。これらは河海による交通障害の多い地理的条件におかれた日本中世の交通網と都市類型の歴史的特徴である。津は通関税である津料(勝載料,官食料,置石,升米,帆別銭などとも),またある場合は,それと市場税をあわせた市津料を徴収した。中世において,その得分が荘園本所から地頭にいたる領主諸階級によって分配されたことはいうまでもないが,同時に,一定部分が津の諸施設の維持・修理のためにも使用された。置石という津料の別称の一つ(津の石椋(いしくら)修固料の石材の徴収から起こった用語)は,その事情をよく示している。

 津の管理組織の形態はさまざまであるが,1065年(治暦1)の越中国解によれば北陸道の路次の津泊の刀禰(とね)らが勝載料・勘過料を徴収したといい,彼らはそれによって港湾を共同維持していたと考えられる。このような津刀禰は,《庭訓往来》に〈淀・河尻の刀禰〉がみえるように,中世を通じて長く残った。そしてさらに,中世都市の発展とともに,津の組織は,みずから〈十楽の津〉と称し〈上儀をさへ承引致さず〉といわれた伊勢国桑名や,有名なのような自由都市への展開をみせる場合があった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「津」の意味・わかりやすい解説

津(市)

三重県中部、伊勢(いせ)平野を中心として広がる市。伊勢湾に面する。県庁所在地。1889年(明治22)県下最初の市となり、1909年(明治42)塔世(とうせ)、建部(たてべ)の2村、1934年(昭和9)新町(しんまち)、1936年藤水(ふじみ)村、1939年高茶屋(たかぢゃや)村、1943年神戸(かんべ)、安東(あんとう)、櫛形(くしがた)の3村、1952年(昭和27)雲出(くもず)村、1954年一身田(いしんでん)、白塚(しらつか)の2町、栗真(くりま)、片田(かただ)の2村、1973年豊里(とよさと)村を編入。2006年(平成18)久居市(ひさいし)および河芸(かわげ)、芸濃(げいのう)、安濃(あのう)、香良洲(からす)、一志(いちし)、白山(はくさん)の6町、美里(みさと)、美杉(みすぎ)の2村を合併。市名は古代の安濃津(あのつ)、中世以来の津(つ)に由来する。面積711.19平方キロメートル、人口27万4537(2020)。県下で四日市(よっかいち)市に次いで2位である。

 市域は北東-南西方向に細長い。北東部は伊勢湾に臨み、北西は布引山地(ぬのびきさんち)、西は青山高原(あおやまこうげん)、南は高見(たかみ)山地の山並みに囲まれる。北部は志登茂(しとも)川、安濃川、岩田(いわた)川などの流域に沖積平野が展開し、南西部から中央部は、高見山地に発し、河谷平野を形成しながら北東に流れて伊勢湾に注ぐ雲出川の流域である。なお、市域南部西寄りの美杉町太郎生(たろう)地区は、淀川水系名張(なばり)川の流域にあたる。南西山間部は青山高原一帯が室生赤目青山国定公園(むろうあかめあおやまこくていこうえん)に、美杉町地区を中心とした地域は赤目一志峡県立自然公園に、伊勢湾岸の海浜部は伊勢の海県立自然公園にそれぞれ指定される。

 JR紀勢本線(きせいほんせん)・名松線(めいしょうせん)のほか伊勢鉄道、近畿日本鉄道名古屋線・大阪線が通じ、近鉄特急で名古屋へ50分、大阪へ90分で達する。道路は国道23号、163号、165号、306号、368号、422号のほか、伊勢自動車道が通じ、伊勢関・芸濃・津・久居の4インターチェンジ、および松阪市境に一志嬉野(うれしの)インターチェンジがある。

 旧市街は岩田川と安濃川の間の三角州に築かれた津城を中心に発達したもので、その背後に第四紀更新世(洪積世)の台地・丘陵が張り出している。台地の末端には先史時代の遺跡、古墳が多いが、現在は住宅化が進んでいる。海岸はヨットなどでにぎわい、冬はノリ漁場となる。

[伊藤達雄]

歴史

古来安濃津などと記された港津で、明(みん)国の茅元儀(ぼうげんぎ)(1594―1640)の『武備志』にも洞津(あなつ)として、花旭塔(博多)津(はかたつ)(福岡県)、坊津(ぼうのつ)(鹿児島県)とともに日本三津(さんしん)の一つにあげられている。対明貿易の拠点、また伊勢街道の渡津となり、4000~5000戸の町並みからなる繁栄ぶりであったが、1498年(明応7)の大地震で河口が埋まり港としての機能を失った。1568年(永禄11)織田信長は北伊勢を攻略し、弟信包(のぶかね)をこの地に配した。信包は津城を修築し面目を一新させた。その後城主は富田氏にかわったが、当時の城下の戸数は約500ほどであった。津が城下町として本格化するのは、1608年(慶長13)藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊賀国と伊勢国安濃、一志(いちし)の2郡に封じられて津城を居城と定めてからである。以後明治維新までの260年間、国替もなく津(藤堂)藩の中心として繁栄した。高虎は城の拡張を行い、伊勢街道を城下に引き入れ、商業地と農地を区別し、民家・寺院の城下への移転を奨励するなど城下経営に努めた。なお、久居は藤堂藩の支藩久居藩の陣屋町であった。1871年(明治4)安濃津県の県庁が置かれ、一時四日市町に移ったが、1873年にはふたたび三重県の県庁が津に置かれた。

[伊藤達雄]

産業

第二次世界大戦前は繊維工業が盛んであったが、戦後は電機工場が進出し、1967年(昭和42)には日本鋼管津造船所(現、JFEエンジニアリング津製作所)が誘致された。近年も工場誘致には力を入れているが、製造品出荷額7544億円余りは四日市、鈴鹿などに次いで第5位、全県の7.7%を占めるにすぎない(2010)。一方、小売業商品販売額は3030億円で県内第2位である(2010)。

[伊藤達雄]

文化・観光

津市には県庁などの行政機関、国立三重大学、県立看護大学のほか短大など教育施設が多く、県立美術館、県立博物館もある。国の指定史跡に江戸時代の国学者谷川士清(たにがわことすが)の旧宅と墓がある。一身田は真宗高田派の本山専修(せんじゅ)寺の寺内町だった所。御影(みえい)堂、如来(にょらい)堂(ともに国宝)などの建築物のほか、親鸞筆三帖和讃(さんじょうわさん)(国宝)など寺宝も多く、美しい庭園も知られる。このほか聖徳太子の創建と伝えられる四天王寺、津城跡、偕楽(かいらく)公園、阿漕浦・御殿場浜海水浴場、1975年国体開催の際につくられたヨットハーバーなどがある。10月の津まつりで行われる唐人踊りは県の無形民俗文化財に指定されている。

[伊藤達雄]

『『津市史』全5巻(1959~1961・津市)』『『津の昔と今』(1968・津市観光協会)』


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普及版 字通 「津」の読み・字形・画数・意味


常用漢字 9画

[字音] シン
[字訓] しみでる・つ・わたしば

[説文解字]
[金文]

[字形] 形声
正字はに作り、(しん)声。は〔説文〕聿部三下に「聿(いつ)(筆)のりなり」とするが、は辛形の針を以て皮膚を刺し、そこより津液のにじみ出る形。その津液を器皿に収めることを(しん)といい、字条五上に「气液なり」とみえる。は入墨のときの津液、そのときの傷痛を(きよく)という。の字の従う(ひよく)の形は、(せき)の字にも含まれており、は女子の両乳をモチーフとして、そこに加える文身の象。その文身の美をいう字である。津はの繁文で、その形声の字。〔説文〕十一上に「水渡なり」とするのは別義の字。〔説文〕が津の古文として録する舟と淮とに従う形が、渡し場を意味する字である。〔論語、微子〕に孔子が津を問う話があり、〔書、微子〕に「大水をるに、其の、津涯無きが(ごと)し」とみえる。に従うものが津液、舟・淮に従う字が津涯の意の字である。

[訓義]
1. しみでる、気液や津液がしみでる、しみでるもの、津液。
2. つば、あせ、なみだ。
3. うるおう、ぬれる、つや。
4. つ、ふなつきば、わたしば。
5. つて、つたえる。
6. あまのかわ。

[古辞書の訓]
〔和名抄〕津 豆(つ)〔名義抄〕津 ツ・ワタル・ウルホス・ウルフ 〔立〕津 ワタル・シルノフ・ウルホス・ウルフ・ツナリ・ホトリ・ウツル・タスク・ツ・スルソ

[熟語]
津頤・津液・津駅・津河・津涯・津岸・津寄・津渠・津逕・津口・津航・津済・津・津潤・津渚・津渉・津津・津人・津送・津湊・津唾・津逮・津注・津貼・津亭・津頭・津・津発・津筏・津沫・津門・津要・津梁
[下接語]
河津・外津・関津・旧津・曲津・江津・集津・知津・釣津・通津・渡津・迷津・問津・要津・梁津

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百科事典マイペディア 「津」の意味・わかりやすい解説

津【つ】

船舶が出入りする海岸・河岸の交通の要地。(とまり)とも称し,のち(港)などとよばれるようになった。古代律令制下では国家貢納物を移出する国津(国府の外港)や郡衙(ぐんが)の外港として機能した郡津があった。古代末期以降,荘園などの開発が進むに伴い各地に津が成立した。普通,津にはが付設され,その地域における重要な物資集散の場となった。鎌倉時代初期,伊勢神宮がその神人(じにん)に対する津料賦課の免除を〈諸国往反津泊預〉に要求した例にみられるように,中世には各地で通関税である津料(勝載(しょうさい)料・官食料・置石・升米・帆別銭などともいう)が徴収されていた。津料,あるいは市場税も合わせた市津料の一部は,津の諸施設の維持管理のために使用された。津の中には中世都市として発展し,伊勢国桑名の〈十楽の津〉や泉州のように自由都市となる場合もあった。おもなものに7〜8世紀に栄えた難波(なにわ)津や日本三津とされる薩摩坊津(ぼうのつ)・筑前博多津・伊勢安濃津(あのつ)などがある。なお日本三津は明(みん)の《武備志(ぶびし)》にみえ,三箇の津ともよばれた。→港湾港町

津[市]【つ】

三重県中部の市。1889年市制。県庁所在地。伊勢湾に面し,伊勢平野の安濃(あのう)川,雲出(くもず)川流域一帯を占め,布引山脈東部を含む。中心市街は古く日本三津(さんしん)の一つ安濃津(あのつ)として知られた港町で,中世は伊勢街道の宿場町,近世は藤堂氏の城下町として発展,〈伊勢は津でもつ〉と呼ばれる繁栄をみた。市街を南北に通じる国道23号線沿いに津城跡,中心街がある。紀勢本線,名松線,近鉄名古屋線,大阪線,伊勢自動車道が通じ,伊勢鉄道が分岐する。第2次大戦前は繊維工業が中心であったが,戦後は機械,電機,輸送機器工業が行われ,卸売などの商業活動も盛ん。三重大学,谷川士清(ことすが)旧宅(史跡),県立の博物館,美術館がある。周辺では米(一志米),野菜を産し,湾岸ではノリを養殖。北部の一身田(いしんでん)は専修(せんじゅ)寺の門前町・寺内町として発達。2006年1月久居市,安芸郡河芸町,芸濃町,安濃町,美里村,一志郡一志町,香良洲町,白山町,美杉村を編入。711.11km2。28万5746人(2010)。
→関連項目三重[県]三重大学

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【渡し】より

…官道においても渡海を要する場所は〈渡〉と呼ばれたようで,《出雲国風土記》に〈隠岐の渡,千酌(ちくみ)の駅家(うまや)の浜〉とある。《延喜式》によれば越後国の渡戸駅に船2艘を配しているのも,佐渡国の渡津であったからであろう。《続日本後紀》の承和2年(835)条には,東海道,東山道の河津において,渡舟が少なく橋の設備もないため,諸国から調を京に運ぶ運脚夫たちが渡ることができないので,渡舟2艘を増すべき旨の勅が記されている。…

【安濃津】より

…伊勢国の地名。現在の三重県津市。元来は安濃郡の津の意。…

【伊勢商人】より

…江戸時代〈江戸に多きものは伊勢屋,稲荷に犬の糞〉といわれるほど伊勢出身の商人が多く,その商業活動が目覚ましかったが,それは中世における伊勢商人の台頭や活躍と無関係ではなかった。中世の伊勢には東国に多数分布する伊勢大神宮領から送進される年貢物の集散や陸揚げを行う大湊など港津が発達し,また畿内と東国を結節する地理的条件に恵まれたため桑名のような自治都市の成立もみられ,多くの廻船業者,問屋が輩出した。安濃津(あのつ)(現,津市)も大神宮領からの年貢物の取扱い,さらには海外貿易港として発展し,山田の三日市・八日市には多数の市座商人や土倉がたむろし,活躍していた。…

【三重[県]】より

…面積=5773.66km2(全国25位)人口(1995)=184万1358人(全国23位)人口密度(1995)=319人/km2(全国20位)市町村(1997.4)=13市47町9村県庁所在地=津市(人口=16万3156人)県花=ハナショウブ 県木=神宮スギ 県鳥=シロチドリ近畿地方の東部にある県。南北に細長く,北東は伊勢湾,南東は熊野灘に臨む。…

【港湾】より

…船を安全に出入り,停泊させ人や貨物などの水陸輸送の転換を行う機能をもつ沿岸域の空間。日本では古来,(つ),(みなと),(とまり)などと称していた。これらの語に代わって新たに港湾ということばがつくられ用いられるようになったのは明治になってからである。…

【旅券】より

…【山本 泰男】
[中国]
 中国では古来国内旅行にも身分証明書を必要とした。旅行者を取り締まるため陸上交通では関,水上交通では津を置いた。漢代では旅行者の身分を証明する文書は一般に伝と呼ばれたが,そのうち木簡に書いたものを棨(けい)といい,本人の居住する郷の嗇夫(しよくふ)という官が前科のない旨を証明し,県の長吏が副署し,津関においてとどめないように依頼する形式であった。…

※「津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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