改訂新版 世界大百科事典 「上ッ道中ッ道下ッ道」の意味・わかりやすい解説
上ッ道・中ッ道・下ッ道 (かみつみちなかつみちしもつみち)
大和盆地を南北に縦走する直線の古道。これら3道の名称は,《日本書紀》の壬申の乱(672)の記述中にみえ,当時すでに存在していたことが明らかである。現在確認できるところでは,下ッ道の北端は,奈良山丘陵の南斜面で平城宮内であり,南端は,見瀬丸山古墳(橿原市大軽町,見瀬町,五条野町にまたがる6世紀前半から中ごろの巨大な前方後円墳)の主軸線が外濠の線と交わるあたり。下ッ道は,発掘調査により,平城宮内で2ヵ所,平城京内で1ヵ所,平城京外で1ヵ所検出されている。とくに注目されるのは,大和郡山市の稗田遺跡(羅城門から南へ約1.8kmの地点)で,下ッ道の路面(道幅16m),東西側溝(東側溝幅は約11m,西側溝は約4m),橋などが検出されたことである。
中ッ道の北端は,奈良山丘陵の南斜面,南端は飛鳥の橘寺付近。上ッ道の南端は,横大路との交差点(海石榴市(つばいち)の衢(ちまた)と呼ばれたらしい)であるが,北端については未詳。現状では,天理市の豊田丘陵より北に痕跡はないが,あるいは,東大寺付近にまで伸びていた可能性もある。これらの3道は,山,丘,川,湿地など,自然地形を無視して,ほぼ正南北に設置されている。ちなみに,中ッ道は,天香具山の頂上付近を南北に走っていた。上・中・下ッ道の相互の間隔は,ほぼ正確に等間隔で,4里(1里は531m,高麗尺6尺=1歩で1000歩)である。中ッ道と下ッ道は,藤原京の東・西京極大路に利用された。また,下ッ道はその路幅を拡張して,平城京の朱雀大路となったし,奈良盆地における条里施行の基準線でもあった。これら3道の道沿いには,国府・郡家(ぐうけ)が想定でき,古社寺も分布している。近世に至り,上ッ道と下ッ道にほぼ並行して,上街道,中街道ができた(中ッ道に並行する街道はない。また,下街道は,大和高田から御所に向かう道で,下ッ道とは無関係)。中ッ道と下ッ道,とりわけ下ッ道は,現在でもよく残っている。
執筆者:和田 萃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報