日本画家。本名津禰(つね)。明治8年4月23日京都に生まれる。1887年(明治20)京都府画学校に入学、鈴木松年(しょうねん)に師事したが、翌年中退して松年塾に入り、さらに幸野楳嶺(こうのばいれい)、ついで竹内栖鳳(せいほう)に学んだ。1890年第3回内国勧業博覧会で『四季美人図』が褒賞となり、その後日本美術協会、日本青年絵画共進会などに出品を続けて美人画に独自の境地を開いていった。1907年(明治40)の第1回文展で『長夜』が、翌年の第2回文展で『月かげ』が三等賞を受賞して画名が高まり、1915年(大正4)第9回文展で『花がたみ』が二等賞になり、翌年永久無鑑査に推された。さらに1924年帝展委員、1934年(昭和9)帝展参与、1941年帝国芸術院会員。1948年(昭和23)に女性としては初めての文化勲章を受けたが、翌昭和24年8月28日、疎開先の奈良県平城(へいじょう)村(現奈良市)の山荘で永眠。その画風は四条派の伝統を基礎にしてそれに近代感覚を盛ったもので、良家の、あるいは町方の女性を主題に清新な作品を描き続け、前期の情緒的な表現から後期の理知的表現への変化を認めることができる。前期を代表するのは前記の初期文展出品の2作のほか『焔(ほのお)』『娘深雪(むすめみゆき)』などで、後期には『母子』『序の舞』『雪月花』『夕暮』『晩秋』などがある。日本画家の上村松篁(しょうこう)(本名信太郎)は実子。
[原田 実]
『上村松篁編『上村松園』別冊『青眉抄・青眉抄拾遺』(1976・講談社)』▽『上村松篁編『上村松園』(日経ポケット・ギャラリー)』▽『『現代日本美人画全集1 上村松園』(1977・集英社)』▽『草薙奈津子著『上村松園』(新潮日本美術文庫)』
日本画家。本名津禰,京都四条通りの葉茶屋ちきり屋の次女として生まれるが早くに父を亡くし,画才を見抜いた母の手で育てられ,その才能は早くから店に立ち寄る文人墨客の間で話題になる。1887年京都府画学校に入学,翌年鈴木松年の門に入り,のち幸野楳嶺(こうのばいれい),竹内栖鳳(せいほう)に師事した。90年第3回内国勧業博覧会に《四季美人》を出品して受賞,画名を高め,1907年第1回文展に《長夜》を出品して評判となり,以後受賞を重ねた。初期の作品は浮世絵の影響が強かったが,男性に伍して写生旅行に耐え,古典を吸収すべく大量の縮図を手がけた。また漢詩,漢文を学び教養を深めるとともに,能楽に日本美の真髄を認めて画作に取りいれていった。しかし,その芸術を支え開花させたのは美人で働き者の母であった。狂女もの《花がたみ》に始まる女性心理をとりあつかった作品は,女の嫉妬を描いた《焰》において頂点に達し,《草紙洗小町》や《砧》に発展する。その背後には必ず母への思慕がある。とくに34年の《母子》と最晩年作の《夕暮》《晩秋》にそのおもかげが感じられ,働く日本女性の典型を絵画性豊かなものに昇華した。41年芸術院会員,48年には女性として最初の文化勲章を受けた。上村松篁(しようこう)はその子息。聞書きをつづったものに《青眉抄》がある。
執筆者:佐々木 直比古
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明治〜昭和期の日本画家
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