中世音楽(読み)ちゅうせいおんがく

精選版 日本国語大辞典 「中世音楽」の意味・読み・例文・類語

ちゅうせい‐おんがく【中世音楽】

  1. 〘 名詞 〙 中世ヨーロッパの音楽。六~九世紀のグレゴリオ聖歌の確立、一二、三世紀のノートルダム楽派の全盛を経て、一五世紀ネーデルランド楽派の台頭頃までの音楽。各種典礼音楽や賛歌(イムヌス)などの教会音楽にはじまり、世俗音楽も各地に普及したが、一般に多声音楽的傾向がつよい。この間に譜表も発明されるなど記譜法も発達した。

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改訂新版 世界大百科事典 「中世音楽」の意味・わかりやすい解説

中世音楽 (ちゅうせいおんがく)

ヨーロッパ中世の音楽。ここでは,4世紀初めのローマ皇帝によるキリスト教公認から,キリスト教の権威の揺らぎはじめた14世紀までの,西欧の音楽を扱う。なお,西洋音楽史では,おおよそ850-1150年をロマネスク時代,1150-1450年をゴシック時代と呼ぶことがある。また,今日いろいろ議論されてはいるが,13世紀をアルス・アンティカ(古技法)の時代,14世紀をアルス・ノバ(新技法)の時代と呼ぶ慣習もかなり普及している。

 313年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世によってキリスト教が公認されたあと,北イタリアミラノの司教になったアンブロシウスは,東方のキリスト教徒たちの礼拝で歌を歌う習慣を採り入れ,みずからラテン語の賛歌の作詩もした。その後,西方のキリスト教会では,アウグスティヌスらによって提起された,礼拝における音楽の使用に対する懐疑が,おりにふれて思い出されはしたものの,教会当局の考えは,概して音楽の使用に対して肯定的であった。ローマに教皇庁ができてからも,グレゴリウス1世らの尽力を契機として,典礼聖歌の体系がつくり上げられていった。ローマ式典礼聖歌が確立したあとは,フランク王ピピン3世やカール大帝の政策などにもよって,フランスのガリア聖歌,スペインのモサラベ聖歌などの地方的な諸体系は消滅したが,ミラノ式典礼聖歌だけは,アンブロシウス聖歌の名で今日まで伝えられてきた。今日グレゴリオ聖歌の名で知られているローマ・カトリック教会の単旋律の典礼聖歌は,ルネサンス時代の反宗教改革の波の中で整理されたもので,中世の何世紀ものあいだに創作され改変された歌の集大成であり,地中海沿岸起源の歌よりも,フランク・ゲルマン起源の歌が多いのではないかと考えられている。12~13世紀には,聖書の物語を扱ったラテン語の劇が盛んで,対話が単旋律で歌われたりした。この種の劇は,今日,典礼劇と呼ばれている。

 850年ころ著されたとされる《音楽の手引きMusica enchiriadis》は,多声音楽の譜例が示されている最古の文献である。多声音楽は,初め,あるグレゴリオ聖歌の旋律の下に,1音符対1音符の関係で新たな旋律を与えて,それらを同時に歌う方式であったが,11世紀も進むと,グレゴリオ聖歌の旋律にのせて,新しい装飾的な旋律を歌うようになった。音高の異なった二つ以上の音を,その音程関係を意識しながら,同時に響かせ続ける西欧型の多声音楽(広義のポリフォニー)は,その後,時代とともに姿を変えながら,やがて西欧のいわゆる芸術音楽の主流になっていったが,初めの数世紀間,それは主として教会音楽の分野で発展させられた。

 第1回十字軍が派遣される少し前ごろから,南フランスの封建貴族(騎士)による世俗歌曲の創作が盛んになった。これらの歌の多くは,1人の手で作詩・作曲されたと考えられるが,貴族の中には,旅芸人を雇い入れて協力させる者もいた。残された歌はすべて単旋歌であるが,歌唱に際しては,多くの場合,楽器がなんらかの役割を果たしていたことだろう。これらの歌は,いずれも,トルバドゥールのフーケ・ド・マルセーユ(フォルケ・ド・マルセリャ)が言い表したように,〈歌われない詩は,水の流れていない水車のようなものだ〉という考え方に基づいていた。詩の形式の一つにカンソcanso(歌)と呼ばれるものがあったが,日本の短歌が歌と呼ばれるのと一脈あい通じるところがある。アルビジョア十字軍や貴族の結婚などを契機として,世俗歌の創作活動は,北フランスに波及し,やがてはドイツ文化圏においても継承された。その担い手は,南フランスではトルバドゥール,北フランスではトルベール(いずれも〈見いだす人〉の意),ドイツではミンネゼンガー(愛を歌う人)と呼ばれた。イタリアにもトロバトーレがいて,ダンテらもその影響を受けたらしいが,彼らの音楽は伝わっていない。13世紀には,アッシジフランチェスコの宗教運動と結び付いた,俗語による単旋律宗教歌ラウダlauda(賛美)が中部イタリアで作られ,同じ頃スペインでは,カンティガcantiga(歌)が作られた。これらの非典礼的宗教歌は,形式的には単旋律世俗歌の一形式であるビルレーvirelai(スペインではビリャンシーコvillancico)と深いかかわりをもち,聖堂外での信徒の集団的な宗教行為(悔悛の苦行など)に用いられた。

 初めは修道院中心に発展させられた多声音楽は,ゴシック様式の大聖堂が次々と建築される頃になると,大聖堂の広大な空間にこだまするようになった。とくにパリのノートル・ダム大聖堂では,12世紀後半から13世紀前半にかけて,レオナンの2声の《大オルガヌム曲集》や,ペロタンの3~4声のオルガヌムに代表される多声の宗教音楽がつくり出された(ノートル・ダム楽派)。ある一曲のオルガヌムの特定の一部分(クラウスラ)の第2の声部に,新しい歌詞を与えて歌うことから始まったモテットは,そのような一種の替歌としてではなく,初めから2~4声の曲として作曲されるようになった。モテットではグレゴリオ聖歌の旋律が概して長い音価で最低部に置かれ,その上に第2,第3の声部が付け加えられるのが常であったが,新作の声部は,それぞれ異なった歌詞をもっていた。歌詞は,初めのうちは,ラテン語の宗教的な内容のものであったが,時とともに,フランス語の世俗的な内容のものが多くなっていった。13世紀にはまた,ラテン語の宗教的な一つの歌詞が歌われる2~3声のコンドゥクトゥスconductusも数多く作られた。この種目では,全声部が新作だったようである。

 14世紀には,フランスとイタリアを中心に,2~3声の世俗歌が数多く生み出された。フランスでは,トルベールによって確立されたバラード,ビルレー,ロンドーrondeauの,詩と音楽の形式が継承発展させられた。代表的な詩人兼作曲家としてマショーが挙げられる。イタリアでは,マドリガーレマドリガル),バッラータballata(フランスのビルレー系),それにカノンの技法によるカッチャcacciaが数多く作られた。ヤコポ・ダ・ボローニャJacopo da Bologna(14世紀中ごろ活躍),盲目のランディーニらが知られている。フランスには楽器伴奏付きの独唱歌が多く,イタリアには重唱歌が多い。14世紀には,世俗歌の創作が盛んであった半面,宗教曲としては,アビニョンの教皇庁で作られたもののほか,見るべきものはほとんどない。その中にあって,マショーのミサ曲は,1人の作曲家による,ミサの通常文を通しての多声の作品として最古のものである。

 14世紀に世俗音楽の創作が盛んになり,宗教音楽の創作が振るわなくなったのは,教皇のアビニョン捕囚や教会の大分裂に見られるように,封建社会の精神的支柱であったキリスト教会の権威が失墜したこと,封建社会に楔を打ち込んだ中世都市コミューンの成長(これは教会の権威失墜の誘因),さらには,そのような社会的状況のもとで,ボッカッチョの《デカメロン》やチョーサーの《カンタベリー物語》などを生み出させた精神的・感性的風土が挙げられるだろう。

 13世紀末まで,多声音楽の発展は,主として宗教音楽によって担われてきたが,14世紀に,世俗音楽も多声に作曲されるようになったことによって,今やヨーロッパの音楽的中枢においては,芸術音楽の作曲とは,広義の多声音楽を作ることを意味するようになった。英語などで,作曲をコンポジションcomposition(構成,元来は〈いっしょに置くこと〉)と呼ばれているのも,このような事情と深くかかわっている。世界中のどの民族にもどの地域にも,西欧型の多声音楽はあるが,作曲,すなわち多声音楽を作ったのは,西欧のシーリアス音楽だけである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中世音楽」の意味・わかりやすい解説

中世音楽
ちゅうせいおんがく

ヨーロッパにおいて、4、5世紀ごろから15世紀前半ごろまで展開された音楽の総称。

 中世ヨーロッパの音楽は、キリスト教教会聖歌の成立とともに始まった。東方から西方地域に至るまで広範囲に広まった初期キリスト教教会は、各地で独自の典礼を確立していったが、同時に独自の聖歌も成立させていった。東方諸教会では、ビザンツ聖歌、シリア聖歌、アルメニア聖歌、コプト聖歌、アビシニア聖歌などが、西方諸教会では、ローマ聖歌、アンブロシオ聖歌、モサラベ聖歌、ガリア聖歌などが成立し、展開された。やがて西方では、ローマ教会がキリスト教世界の中心となってゆき、7、8世紀にはローマ典礼聖歌の大きな発展をみた。また、アルプス以北のガリア・ゲルマン地域では、8世紀にローマ典礼が公式に採用されたことにより、ガリア聖歌の伝統が失われてゆき、かわってローマ典礼に基づく新しい聖歌が成立することになった。9世紀ごろから15世紀ごろにかけてこの地域を中心に生み出された聖歌は、普通、グレゴリオ聖歌とよばれている。

 新しいグレゴリオ聖歌の登場とともに、聖歌の注釈としてのトロープスやセクエンツィアという曲種も生み出された。また既存の聖歌に対旋律を付加して生まれたオルガヌムとよばれる多声楽曲も9世紀ごろに登場した。オルガヌムは12世紀に飛躍的に発展し、12世紀後半から13世紀にかけてはパリのノートル・ダム大聖堂を中心に大きな繁栄をみせた。オルガヌムからはさらにクラウズラやモテトゥスなどの曲種が生み出されていった。

 一方、世俗音楽も、初期キリスト教時代より行われていたが、11世紀から13世紀にかけて、ゴリアルドゥスとよばれる放浪の下級聖職者あるいは学生たちによってラテン語による単旋律世俗歌曲が展開された。また12、13世紀には、南フランスで騎士階級を中心としたトルーバドゥールたちによってオック語の、北フランスで同じく騎士階級を中心としたトルーベールたちによってオイル語の単旋律世俗歌曲が栄え、13、14世紀には、南ドイツでミンネゼンガーたちによるドイツ語の騎士歌曲が展開された。

 14世紀に入ると、世俗音楽の分野でも多声楽曲が飛躍的な展開をみせ、フランスではマショーを中心に多声シャンソンが、イタリアではランディーニらによる多声のマドリガーレやバラータなどが栄えた。一方、ミサ通常文聖歌の多声化も多くなり、1人の作曲家による史上初の通作ミサ曲がマショーによって書かれた。通作ミサ曲の作曲は15世紀になってさらに盛んとなり、イギリスのパウアーやダンスタブルによって、ミサ曲全体を共通の定旋律によって統一する試みがなされ、新しいルネサンス音楽への方向が示されたのである。

[今谷和徳]

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