江戸時代,瀬戸内海にそって設けられた街道で,西国路,山陽道,中国街道ともいう。1803年(享和3)の幕府大目付の訊問に対して,〈何国何之駅より何之駅迄を中国路と相唱候哉,右体名目差極候ては難及挨拶候〉と答申しているように,その起点・終点も不明確で,起点を京都または大坂,終点を長門の大関・下関,豊前の大里などとする説がある。また,宿次の数についても,大坂起点の場合だけで,44,47,48,51,54などの諸説がある。これは古代律令制の下で第一の官道として,令の規定では〈大路〉に格づけられていた山陽道が,中世以降その地位が低下して,近世幕藩制の下では江戸を中心とする五街道の脇街道に位置づけられたことと無関係ではない。しかも,瀬戸内海航路の利用によって,東海道などと比べて中国路の通行量が少なく,その宿駅も一般的に小規模で,〈本宿〉と〈間(あい)の宿〉との区別が明瞭でないことも深くかかわっている。実際,中国路宿駅の常備人馬は,25人・25疋を原則としながら,それ未満も多く,長州藩のように定数が設定されないところもあった。一方,休泊施設には本陣,脇本陣,旅籠屋,茶屋などが軒をならべたが,特徴的なことは,藩営の御茶屋などが民間の本陣に先行,または並存するかたちで領主階級の休泊需要に応じた点であろう。
執筆者:丸山 雍成
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山陽路・西国街道とも。東海道に続き,瀬戸内海に沿う街道。古くは官道として位置づけられ,九州大宰府と都を結ぶ山陽道と称して重要視されたが,江戸時代には幕府道中奉行の管轄からはずれ,脇往還の一つとなったため,起・終点は明確でない。京都または大坂から下関,もしくは豊前国大里(だいり)・小倉までと諸説がある。参勤交代の西国大名や長崎奉行などが通行。下関・尾道・兵庫などは並行する瀬戸内海路の結節点でもあった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…室町時代の遣明船の航路の一つ。遣明船の航路には中国路と南海路とがあった。中国路は,おおむね兵庫を発航地とし,瀬戸内海すなわち中国路を通過して博多に至り,五島に集結して適当な季節風を待ち,東シナ海を一気に横断して中国浙江省の寧波(ニンポー)付近に達する航路である。…
※「中国路」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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