江戸時代,幕府の道中奉行が直接管理する五街道とその付属街道以外の街道のことで,脇往還,脇道などともいう。幕府の勘定奉行の管掌ではあるが,一般に在地権力たる藩や郡代等の直接的関与・支配の側面が濃厚で,幕府権力は街道筋の指定や人馬賃銭の規定など,間接的支配にとどまる。脇街道の宿駅でも人馬を用意し,公用の貨客は無賃または御定賃銭,それ以外は相対賃銭で継ぎ送り,旅宿で公定の宿賃をとるなど,五街道と変りはない。しかし,人馬継立ての方法において宿駅と周辺村落との間に一体的な夫役(ぶやく)負担の方法が少なからずみられ,その御定賃銭も同一街道でありながら天領,譜代藩,外様藩の間に格差があり,また〈間(あい)の宿〉的性格の宿駅が多くて休泊施設なども不備なことなど,大きな違いがあった。
脇街道は,五街道または脇街道自身の延長か分岐道であるが,主要な脇街道は五街道からのそれである場合が多い。例えば中国路(山陽道)は東海道の延長であり,大坂を出て岡山や広島などを経由して下関にいたり,さらに豊前の大里または小倉にむかう街道で,幕府役人や参勤交代の大名の通行,庶民の私用や社寺参詣の通路となった。伊勢路は東海道の四日市から分かれ,神戸より山田までの7宿を経て伊勢神宮に達する街道,伊賀越道中は東海道の関から奈良にいたる街道である。佐渡路は江戸より佐渡にいたる街道で,これには奥州道中の白河から越後の寺泊に出る会津通,中山道の高崎から分かれて三国峠を越えて越後の出雲崎に出る三国街道,中山道追分宿で分かれて出雲崎までいく北国街道,の3道がある。北国路は,中山道の関ヶ原から加賀の立花(またはさらに延長して新潟経由,陸奥の三厩(みんまや)に達する)街道であるが,仙台・松前道は奥州道中の白川より延長して郡山,仙台,盛岡を経て箱館にいたる街道であり,羽州街道は仙台道の桑折(こおり)から山形,新庄,湯沢などを経由して青森湊に達する街道で,秋田道ともいった。このほか,中国路の延長上にある長崎路は豊前大里または小倉から天領長崎にいたるが,佐賀藩内では3道に分肢して長崎手前の永昌などで再び合流する特異な街道であった。
五街道とは直接的関係のうすい遠隔地の脇街道の場合,これが公儀御用の主要な幹線であって,とくに交通の要衝にある地域では幾筋もの脇街道が走り,これらを結ぶ数筋の街道が各地点で交差して,網の目状を呈することもまれではなかった。一方,そうでない地域では,脇街道の線上にある藩の城下の札ノ辻を中心に放射状に幾筋かの中小街道と,そこに点在する宿駅在町を相互に結ぶ横道とによって藩領の交通網と封鎖的な領域市場圏を形成していた。このことは,江戸中心の五街道の下,諸藩の城下町中心のミニ〈五街道〉ともいうべき中街道,さらに各農村を連絡する村道といった系列で,全国的交通体系が形成されていたことを物語るものである。
執筆者:丸山 雍成
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…それらの管理は初期には代官また老中なども関与していたが,1659年(万治2)以降は道中奉行を置いて専管させた。道中奉行の管理下にあったのは,東海道(品川~京都・大坂),中山道(板橋~守山,次の草津で東海道となる),日光道中(千住~日光),奥州道中(宇都宮~白河),甲州道中(内藤新宿~上諏訪,次の下諏訪で中山道に結ぶ)の五街道のほか,東海道と中山道を結ぶ美濃路(熱田~垂井),東海道の脇街道というべき佐屋路(熱田~桑名),本坂通(浜松~御油または吉田),山崎通(伏見~山陽道の西宮),中山道と日光道中を結ぶ例幣使道(倉賀野~壬生(みぶ)通の楡木へ),日光道中の脇街道というべき日光御成道(岩淵~岩槻を経て日光道中の幸手へ),壬生(みぶ)通(日光道中の小山から分かれ,飯塚,壬生等を経て日光道中の今市へ)がある。また千住から新宿(にいじゆく)・八幡(やわた)・松戸を経る水戸佐倉道はこの3宿だけが道中奉行の管轄であった。…
※「脇街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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