平安末・鎌倉初期の公卿(くぎょう)。藤原姓。中山内大臣とも称す。権中納言忠宗(ごんちゅうなごんただむね)の二男で母は藤原家保(いえやす)の女(むすめ)。蔵人頭(くろうどのとう)を経て34歳で参議となり、昇進して61歳で内大臣に至り極官となった。妻が平時忠(ときただ)の女という関係から平氏の全盛期には、中宮平徳子(とくこ)の中宮権大夫(ちゅうぐうごんだいぶ)や安徳(あんとく)天皇の皇太子時代に春宮大夫(とうぐうだいぶ)を兼ねるなど平氏と近かった。彼は朝儀や故実(こじつ)法制にも明るかったこともあって、源氏の世になっても源頼朝(よりとも)の覚えもよく議奏(ぎそう)公卿に選ばれた。彼の日記『山槐記(さんかいき)』は平安末から鎌倉初期にかけての激動の歴史を知るうえでは欠かせない重要な文献である。ほかに往来物の『貴嶺(きれい)問答』がある。『今鏡(いまかがみ)』『水鏡(みずかがみ)』の著者にも比定されているが確証はない。書に優れ、その筆跡は、文覚(もんがく)に依頼されて55歳のとき書いた『神護寺(じんごじ)四十五箇条起請文(きしょうもん)』(現神護寺蔵)によって知られる。
[朧谷 寿]
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平安末~鎌倉初期の公家。藤原北家花山院忠宗の子。中山家の祖。平氏全盛期に中宮(建礼門院平徳子)権大夫,春宮(とうぐう)(後の安徳天皇)大夫に任じ,平氏滅亡後しばらくは官位の移動がなかったが,1191年(建久2)内大臣正二位に任官。激動期に記した日記《山槐記》は史料として貴重。有職故実に関する往来物《貴嶺問答(きれいもんどう)》(《群書類従》所収)も忠親の撰といわれる。また《今鏡》《水鏡》の作者に擬せられることがあるが確かではない。
執筆者:飯田 悠紀子
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1131~95.3.12
平安末~鎌倉初期の公卿。羽林(うりん)家である中山家の祖。藤原忠宗の三男。母は藤原家保の女。中山内大臣と称する。1140年(保延6)従五位下。蔵人頭・参議・権中納言などをへて91年(建久2)内大臣。有職故実に通じ,朝儀に明るく重んじられた。85年(文治元)源頼朝の推挙で議奏公卿となる。日記「山槐記(さんかいき)」は治承・寿永の乱前後の重要史料。著書「貴嶺問答(きれいもんどう)」。
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