中山高陽(読み)なかやまこうよう

精選版 日本国語大辞典 「中山高陽」の意味・読み・例文・類語

なかやま‐こうよう【中山高陽】

  1. 江戸中期の画家土佐国高知県)の人。名、象先別号、松石斎・酔墨山人。京都に出て南画の先駆者彭城百川(さかきひゃくせん)に学ぶ。山水画に長じ、描線独得風格がみられる。代表作「蘭亭曲水図」一巻。享保二~安永九年(一七一七‐八〇

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改訂新版 世界大百科事典 「中山高陽」の意味・わかりやすい解説

中山高陽 (なかやまこうよう)
生没年:1717-80(享保2-安永9)

江戸中期の文人画家。名は象先のち廷冲,字は子和,別号に松石亭,酔墨山人など。高知商家に生まれ,藩儒富永惟安に詩を,彭城百川さかきひやくせん)に絵を学び,詩画ともによくした。さらに古今名画を模写して修業し,人物,山水を得意とした。宝暦年間(1751-64)には江戸に出て儒学を学び,また諸国を歴遊して木村兼葭堂,井上金峨らと交流した。画談《画譚鶏肋》,東北歴遊の紀行《東游日記》などの著書がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中山高陽」の意味・わかりやすい解説

中山高陽
なかやまこうよう
(1717―1780)

江戸中期の画家。名は象先(しょうせん)、通称を清右衛門、字(あざな)は廷沖、高陽は号。高知の商家に生まれる。幼時富永惟安(これやす)について儒学を学んだが、画(え)は画論、画譜類による独学であった。1758年(宝暦8)より江戸に住して井上金峨(きんが)や沢田東江らの詩人儒者と交遊、高陽も詩画をもって聞こえた。72年(安永1)には7か月余り奥羽へ旅行し、途中『象潟(きさがた)真景図』を制作。画には南宗(なんしゅう)的なところが少ないが、日本南画の先駆者の1人とされている。ほかに『蘭亭曲水(らんていきょくすい)図巻』『鳳凰図屏風(ほうおうずびょうぶ)』などがある。画論『画譚鶏肋(がたんけいろく)』を著し、また旅行記『奥游日録』を残している。

[星野 鈴]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中山高陽」の意味・わかりやすい解説

中山高陽
なかやまこうよう

[生]享保2(1717).土佐,高知
[没]安永9(1780).3.12. 土佐
江戸時代中期の南画家。商家の出身。名は象先,字は廷冲,号は高陽。彭城 (さかき) 百川に師事したともいわれる。宝暦8 (1758) 年江戸に上る。その間,京坂,奥羽などを遊歴。著書『画譚鶏肋 (がだんけいろく) 』 (75) ,『高陽山人詩稿』 (78) ,『京摂遊記』『熱海紀行』など。主要作品『象潟真景図』 (蚶満寺) ,『蘭亭曲水図巻』 (78) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中山高陽」の解説

中山高陽 なかやま-こうよう

1717-1780 江戸時代中期の画家。
享保(きょうほう)2年生まれ。土佐(高知県)の商家の出身で,高知藩の儒者富永惟安(これやす)に詩を,彭城百川(さかき-ひゃくせん)に絵をまなぶ。宝暦8年江戸にでて一家をなした。安永9年3月12日死去。64歳。初名は象先,のち廷冲。字(あざな)は子和。別号に鎌川,松石斎,酔墨山人,玩世道人。著作に「画譚雞肋」「高陽山人詩稿」。

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