中島川(読み)なかしまがわ

日本歴史地名大系 「中島川」の解説

中島川
なかしまがわ

長崎市街地東部を流れる二級河川。流路延長五・五三キロ、流域面積一九・一平方キロ。長崎市木場こば町・本河内ほんごうち町の山間部を水源とし、上流御手水おちようず川または本河内川で、本河内水源地・本河内上水場が設けられ、中流部以下では矢の平やのひら川・鳴滝なるたき(馬込川)若宮わかみや川、さらに西山にしやま川が合流する。戦国期末、長崎市中が建設される以前は深江ふかえ浦と称され、深く入江が入り込み、溢水があれば瓊杵にぎ(金比羅山)三丘さんのおの麓まで達するほどであったという。永禄年間(一五五八―七〇)明人がこの入江の景観をみて抱擁したことから周抱海と称したと伝え、林道春が神応港とよんだともいう(長崎名勝図絵)。イエズス会を通して南蛮貿易が始まると入江は埋立てられて町割が行われ、残された水路がのち中島川筋となった。こうした地勢のため洪水被害は頻繁で、正保四年(一六四七)・正徳三年(一七一三)・享保六年(一七二一)・寛政四年(一七九二)・同七年・同八年・文化七年(一八一〇)などに起きている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中島川」の意味・わかりやすい解説

中島川
なかしまがわ

長崎市の中心市街地を流れる川。延長3キロメートル余。上流は本河内(ほんごうち)、鳴滝(なるたき)、西山(にしやま)の三つの渓谷に分岐し、いずれも急勾配(こうばい)をなす。これらの合流点に桃渓(とうけい)橋があり、付近の桜馬場(さくらばば)に中世、長崎氏の山城(やまじろ)があり、流域に小さな町屋がみられたが、近世、とくに鎖国以後、港や代官所を軸に城下町が急激に発展し、中島川の河口では、新地(しんち)、大波止(おおはと)などの埋立地のほか出島(でじま)が構築された。1634年(寛永11)には眼鏡橋(めがねばし)(国指定重要文化財)の架橋があり、続いて高麗(こうらい)橋(1652)、袋(ふくろ)橋(1655)、一覧(いちらん)橋(1657)、東新橋(ひがししんばし)(1673)、ときわ橋(1679)、すすきはら橋(1681)、あみだ橋(1690)、古町(ふるまち)橋(1697)、大井手(おおいで)橋(1698)、魚市(うおいち)橋(1699)、編笠(あみがさ)橋(1699)など20の石橋が架橋され(そのうち10橋は長崎市指定文化財)、中島川両岸の町屋は急速に発展した(ちなみに、これらの石橋も水害によって流失し、架け替えの歴史をもつものが多い)。上流の本河内は、長崎の東の入口をなした日見(ひみ)峠に通ずる渓谷であるが、明治時代に構築された日本最古に属する水源池(近代上水道用のダム)があり、西山には昭和時代の水源池がある。

 1982年(昭和57)7月22日の長崎水害に際しては、上流の三渓谷では、山崩れによる土石流での被災が大きく、下流の市街地では、濁流による急激な増水で被災が大きく、石橋群の破壊もみられた。

[石井泰義]


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