日本歴史地名大系 「亀山城跡」の解説
亀山城跡
かめやまじようあと
丹陽軍記(「桑下漫録」所引)によれば、にわかな築城であったため、桁・梁・棟板・敷材・虹梁など、
亀山城地録(「桑下漫録」所引)によれば、城郭が完全に整備されたのは慶長年中(一五九六―一六一五)岡部長盛の時といわれる。本丸・二の丸・三の丸は小早川秀秋が城主の時、普請に近隣の大名多数が手伝い、町並も改まり境界なども正したという。また一本城主記(「桑下漫録」所引)によると、この時に三重の天守が五重になったとある。北条氏勝の時に
亀山城跡
かめやまじようあと
御坊市北部の亀山(丸山とも、一二一メートル)の山頂にある湯河(湯川)氏の本城。
湯河氏は、甲斐源氏武田氏の支流奈古氏より分れた武田三郎忠長(一説に信忠)を祖とし、初め
亀山城跡
かめやまじようあと
亀山城下の西北、鈴鹿川北岸の台地上にある。自然の地形を利用した平山城。天正一八年(一五九〇)すでに
「亀山城来歴」「亀山記」(「鈴鹿郡野史」所収)によると、宗憲は
亀山城跡
かめやまじようあと
亀山城跡
かめやまじようあと
「備後古城記」「備陽六郡志」「西備名区」「芸藩通志」などによれば、治承(一一七七―八一)から元暦(一一八四―八五)の頃、奴可入道西寂の居城であったという。治承五年、伊予の住人河野通清が源頼朝の挙兵に応じ
亀山城跡
かめやまじようあと
亀山城跡
かめやまじようあと
「三河国二葉松」に「市場村亀山城 奥平八郎左衛門貞俊法名栄繁築之、同六郎左衛門、同出羽守、同監物貞文法名道頓、今ハ林ト成、世治リテ奥平氏上州小幡ヨリ旧地トテ昔ニ返シ又々此城拝領スル、則城ヲ取立住居、松平下総守旧地トハイヘトモ悪シキ所故ニ御願申上、大和国郡山へ国替、城ハ夫ヨリ掃捨ラルヽ」とある。
亀山城跡
かめやまじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報