改訂新版 世界大百科事典 「石川氏」の意味・わかりやすい解説
石川氏 (いしかわうじ)
中・近世の武家。(1)清和源氏源満仲の後裔で奥州の中世豪族。満仲の孫頼遠は前九年の役で討死し,その子有光が石川地方(福島県)に住し,石川氏を称したと伝える。平安後期には開発により石川荘を形成した。鎌倉時代前期ごろの石川氏は一族・庶子が分立し,石川荘内で一族結合を進めた。鎌倉後期になると北条氏の御内人となり,石川一族もそれぞれ独立的な動きをするようになっていった。1333年(元弘3)には新田義貞に従い鎌倉攻めに参加し,建武政権に仕えた。南北朝内乱が始まると足利尊氏に従い,一族内に南朝方に属するものもあったが,隣接の結城氏と対抗するため北朝方に属することが多かった。内乱中に石川荘の一部に結城氏の支配が及ぶようになり,室町期には結城氏の風下に立つようになった。戦国時代には結城,蘆名,伊達,佐竹らの有力大名に囲まれながら戦国末期まで存続したが,1590年(天正18)石川昭光が小田原不参のかどによって豊臣秀吉に所領を没収され,伊達の家臣となった。
執筆者:伊藤 喜良(2)江戸時代の譜代大名。家伝によれば源義時の後胤で河内国石川荘を領してより石川氏を称したという。室町時代では三河守護一色氏の被官とする説もある。代々,小川城に住し,安城を居城とした松平氏(徳川氏)の重臣となり,他方,三河の一向宗門徒武士の旗頭でもあった。三河一向一揆のさい一族は一揆方と家康方に分かれた。永禄(1558-70)末年,石川家成が西三河の諸士を指揮する旗頭となり,これを継いだ甥の石川数正は家康家臣団を代表する重臣でありながら突然出奔し,豊臣秀吉に臣属した。その子康長は大久保長安のことに連座して断絶した。家成の外孫で遺領を継いだ忠総の系統は美濃大垣5万石から転々とし伊勢亀山6万石で廃藩。維新後,子爵。忠総の子総長は1万石を分知され(のち2万石に加増),子孫は下総下館に移住。維新後,子爵。
執筆者:煎本 増夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報