二本松城跡(読み)にほんまつじようあと

日本歴史地名大系 「二本松城跡」の解説

二本松城跡
にほんまつじようあと

[現在地名]二本松市郭内

寛永二〇年(一六四三)二本松藩主となった丹羽氏の居城でかすみヶ城ともいう。城地・城郭は同一ではないが、室町時代―江戸時代初期には当城の前身ともいうべき畠山氏の居城があり、これはきりヶ城・霧山きりやまの城などとよばれていた(積達館基考・山口道斎物語)

〔霧ヶ城〕

奥州管領畠山氏は貞和二年(一三四六)に奥州に下向したが、その時に二本松に居住したか否かは不明。文和三年(一三五四)五月二二日に畠山王石丸(平石丸、国詮)が白河三河守に書状(結城家文書)を出しているが、この時点での居所は現宮城県内であったと推定される。「余目氏旧記」は観応二年(一三五一)畠山平石丸が吉良氏に敗れて二本松に逃れ、そのまま二本松殿となったと記している。「松府来歴金華鈔」には畠山国詮が最初に居住したのは、塩沢しおざわ村の田地でんちヶ岡であると記されているが、確証はない。同書によれば国詮の子満泰は田地ヶ岡は平城で要害の地でないので、南にあたる霧山の白旗しらはたヶ峰に城を移したという。この城が霧ヶ城である。

天正年間(一五七三―九二)頃の城主は畠山義継であった(「性山公治家記録」同二年四月四日条など)。同一三年一〇月、義継は伊達輝宗の麾下に属すこととなり、輝宗の在陣する宮森みやもり(現岩代町)に赴いた。交渉成立後の同月八日、礼のため輝宗に会った義継は、輝宗を捕らえて当城に逃帰ろうとしたが、伊達側の攻撃により輝宗もろとも殺された。義継の家臣鹿子田和泉(義綱)は、義継の子国王丸を擁して当城に立籠り、以後度々政宗(輝宗の子)の攻撃を受ける。翌一四年三月には、畠山氏重臣箕輪玄蕃・遊佐丹波・氏家新兵衛・堀江越中らが内通したため、伊達方の兵が箕輪みのわ館に入ったがこれを撃退(箕輪館の戦)、四月にも攻撃を受け再びこれを退けた。しかし七月一六日、相馬義胤の調停により降伏することとし、国王丸は城に火を放って会津へ落ち(「政宗記」など)、二本松畠山氏は滅亡した。八月政宗は片倉小十郎景綱を当城在番とし(「貞山公治家記録」同月一二日条)、九月景綱は政宗の指示に従い知行割を行い、年貢高三七四貫文(うち切田五万四千八〇〇刈)の地および在家二四八軒が箕輪玄蕃ら五八名に配分された(同月七日「二本松配分日記」伊達家文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「二本松城跡」の解説

にほんまつじょうあと【二本松城跡】


福島県二本松市郭内にある城跡。霞ヶ城、白旗城とも呼ばれる。阿武隈(あぶくま)山系の裾野に位置する標高345mの白旗ヶ峯を中心として、南・西・北を丘陵で囲まれ、東にやや開くという自然の要害地形に立地する。城跡は白旗ヶ峯頂上部の本丸を中心に、東側にそれぞれ二の丸、三の丸を配する構造で、東西約560m、南北約640mの範囲に及ぶ。1414年(応永21)、奥州管領(かんれい)・畠山国氏(くにうじ)の孫、満泰(みつやす)がこの地に本拠を構えて二本松城と呼んだのが始まりとされている。1586年(天正14)、畠山氏が伊達政宗に滅ぼされた時、城に火が放たれたという。伊達氏の支配を経て、1590年(天正18)の豊臣秀吉の奥州仕置きによって二本松は会津に入部した蒲生氏郷(がもううじさと)の所領となり、二本松城には城代が置かれ、会津地方の領主の支城となった。このころ城は大幅な改修が行われた。そして、1643年(寛永20)、陸奥白河から丹羽光重が入封した。丹羽光重は城内の石垣・堀などの修築を行うとともに、観音丘陵を境に郭内(城内を含む武家屋敷)と郭外(社寺・町家屋敷)とを分離する城下町整備を行った。以後、二本松藩丹羽氏歴代の居城となり、幕末の戊辰(ぼしん)戦争で城は焼失した。発掘調査の結果、本丸直下の南方平場で畠山氏時代の新城館の火災を整理した大規模な土坑が見つかり、本丸に残る穴太(あのう)積みの石垣は、会津の支城だった慶長年間(1596~1615年)ころのものと考えられる。さらに掘立柱の塀や門を、礎石建ちの塀や門に改修したことなど、中世城館を近世城郭に改変した痕跡は城内各所で見つかった。また、城跡の南東約750mに位置する大手門跡は、1832年(天保3)に幕府の許しを得て造営した櫓(やぐら)門の跡で、この門は奥州街道から郭内に入る城門でもあった。現在、門の枡形と石垣などが残されており、2007年(平成19)に城跡とともに国の史跡に指定された。二本松城は東北地方を代表する近世城郭であり、中世城館から近世城郭へと継続して利用されていた状況もうかがえ、中世から近世への政治体制を理解するうえでも貴重なものである。現在は霞ヶ城公園として整備され、石垣と再建された箕輪(みのわ)門がある。JR東北本線二本松駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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