二条河原落書(読み)にじょうがわららくしょ

改訂新版 世界大百科事典 「二条河原落書」の意味・わかりやすい解説

二条河原落書 (にじょうがわららくしょ)

1334年(建武1)8月,京都二条河原に立てられた政治批判の落書。《梁塵秘抄》にも見えている〈此比(このごろ)都ニハヤル物〉という書出しの,八五調・七五調とり交ぜた物尽し形式の落書で,全88句より成る。時は建武新政発足後1年を過ぎたころで,新政の矛盾・混乱がはなはだしくなって,機構改革,政策修正の動きが出はじめたときに当たり,洛中治安の乱れ,おびただしい訴訟人の上洛,官庁職員の膨張や人事の不公正,武士の退廃,成出者の下剋上,鎌倉風・田舎ぶりの風俗好尚の流入などが謡いこまれて,新政下の京都の混乱は〈自由狼藉ノ世界〉として,一々具体的に鋭く批判され,一旦の平和も再び破れんとする予兆まで指摘されている。作者は不詳だが,新政を不満とし冷眼視する公家か僧侶と見るのが穏当であろう。事実の取上げ方や表現に,一部《太平記》と一致するところがあるから,《太平記》の作者または素材提供者と落書の作者との間に,なんらかの関係があったかもしれない。なお近年,落書の制作意図について,二条河原が新政の政庁所在地である二条富小路殿と至近距離にあった点に注目して,この落書は,京の町びとの目に触れさせるためというより,新政への忿懣を天皇につきつけたもの,とする見解が出されている。《建武年間記》(群書類従所収)に入っている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「二条河原落書」の意味・わかりやすい解説

二条河原落書
にじょうがわらのらくしょ

1334年(建武1)8月(翌年8月との説もある)、京都の二条河原に掲げられたもので、『建武記(けんむき)』に収録されている。落書は落し文(ぶみ)ともいわれ、犯人を告発する匿名の投書であったが、やがて、権力や社会に対する風刺や嘲(あざけ)り、批判の書を意味するようになった。「此比(このごろ)都ニハヤル物 夜討(ようち)強盗謀綸旨(にせりんじ)」と書き出し、「御代(みよ)ニ生(うまれ)テサマサマノ 事ヲミキクソ不思義共 京童(みやこわらわ)ノ口スサミ 十分一ソモラスナリ」と結ぶ88行の落書は、平安末期に流行した今様(いまよう)の物尽くし歌によりつつ、七五調を基本とした歌謡形式を継承したもので、混乱を極める建武新政府内実と、政権下の揺れ動く世相とを「自由狼藉(ろうぜき)ノ世界」として把握し、鋭く風刺したものである。

 落書の起源が、時の吉凶を神が人の口を借りてうたわせる童謡(わざうた)にあるとすれば、「京童」の口を借りて「天下一統メツラシヤ」と建武政府の崩壊を予告した作者の手腕は、きわめて優れたものといえよう。作者は新政権に批判的な知識人集団であったと推定される。

[佐藤和彦]

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百科事典マイペディア 「二条河原落書」の意味・わかりやすい解説

二条河原落書【にじょうがわららくしょ】

建武新政当時,京都の二条河原に立てられた落書。《建武年間記》に収録。1334年8月のものといわれ,建武政権を風刺。当時の世相を知る好史料。
→関連項目京童建武年間記落書

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「二条河原落書」の解説

二条河原落書
にじょうがわららくしょ

建武の新政を批判・風刺した落書。後醍醐天皇による建武政権発足後の1334年(建武元)または翌35年の8月に,後醍醐の政庁の二条富小路殿にほど近い二条河原に掲げられたとされている。作者は新政に不満をもつ公家または僧侶か。八五調と七五調をとりまぜた物尽し(ものづくし)形式で88句からなり,新政の矛盾と混乱した世情を一つ一つ指摘して鮮やかに批判し,新政の崩壊をも予見。落書史上の傑作と評される。建武政権の諸法令や職員の交名(きょうみょう)などを収集編纂した「建武記」(「建武年間記」とも)に収められたものが唯一で,ほかに伝本はない。「群書類従」「日本思想大系」所収。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「二条河原落書」の意味・わかりやすい解説

二条河原落書
にじょうがわらのらくしょ

建武2 (1335) 年8月,建武中興政府の政策や当時の世相を風刺した落書。京都二条河原に立てられたもの。政府の新政策が,従来の社会の制度や慣行を無視したこと,京都を右往左往する恩賞目当ての武士の姿,成上がり者のふるまいなどを,七五調でうたい,新政府の無方針に対する不信と傍観者的な態度とが,嘲笑的な調子で表明されている。『建武年間記』のなかに収められている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「二条河原落書」の解説

二条河原落書
にじょうがわらのらくしょ

1334(建武元)年8月,京都二条河原に立てられた落書
建武の新政当時の混乱した世相を鋭く風刺し,新政を批判している。『建武年間記』におさめられ,「此比都ニハヤル物夜討強盗謀綸旨 (にせりんじ) ……」に始まり,成り上り武士の見苦しいありさま,公武寄合政権の無方針,論功行賞の不当など,当時の政治と世相を知る貴重な史料である。作者は不明。

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世界大百科事典(旧版)内の二条河原落書の言及

【落書】より

… 落書の歴史は平安時代の初頭に貴族階級のあいだで始まり,しばしば政争の具に利用されて,昇任・栄転をめぐる官僚どうしの確執・暗闘にひと役かっていたようであるが,〈世間に多々〉広まった落書として有名なのは,嵯峨天皇の時代(9世紀初め)の〈無悪善〉という落書で,史上に名だかい学者の小野篁(おののたかむら)がこれを〈悪(さが)無くば善(よ)かりなまし〉と解読したという(《江談抄》)。以後,さまざまな落書,落首が各種の文献に記録され,それぞれの時代相をうかがわせる好資料となっているが,政情の混迷,社会の矛盾を巧みな表現で鋭くついたものとしてとくに著名なのは,後醍醐天皇による建武の新政時に京都の鴨川の二条河原に掲げられたという〈二条河原落書〉で,落書の歴史上,比類のない傑作とまで評価されている。 匿名の投書で他人の隠れた罪状を告発する落書は,かなりはやくから寺院組織内で実施されていたが,中世に入ると荘園領主である大社寺によって荘園の支配・管理のために積極的に活用されるようになり,領内の犯罪者の検索・摘発に大きい効果をみせた。…

※「二条河原落書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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