二条河原落書(全文)
にじょうがわらのらくしょ
口遊(くちずさみ) 去年八月二条河原落書云々 元年歟
此比(このごろ)都ニハヤル物/夜討(ようち)強盗謀綸旨(にせりんじ)
召人早馬虚騒動(そらそうどう)/生頸還俗(げんぞく)自由出家
俄(にわか)大名迷者/安堵(あんど)恩賞虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人/文書入タル細葛(ほそつづら)
追従讒人(ざんにん)禅律僧/下克上(げこくじょう)スル成出者
器用堪否(かんぷ)沙汰モナク/モルヽ人ナキ決断所
キツケヌ冠上ノキヌ/持モナラハヌ笏(しゃく)持テ
内裏マシハリ珍シヤ/賢者カホナル伝奏ハ
我モ我モトミユレトモ/巧ナリケル詐(いつわり)ハ
ヲロカナルニヤヲトルラム/為中美物(いなかびぶつ)ニアキミチテ
マナ板烏帽子(えぼし)ユカメツヽ/気色メキタル京侍
タソカレ時ニ成ヌレハ/ウカレテアリク色好
イクソハクソヤ数不知/内裏ヲカミト名付タル
人ノ妻鞆(めども)ノウカレメハ/ヨソノミル目モ心地アシ
尾羽ヲレユカムエセ小鷹(おたか)/手コトニ誰モスエタレト
鳥トル事ハ更ニナシ/鉛作ノオホ刀
太刀ヨリオホキニコシラヘテ/前サカリニソ指ホラス
ハサラ扇ノ五骨/ヒロコシヤセ馬薄小袖(こそで)
日銭(ひぜに)ノ質ノ古具足/関東武士ノカコ出仕
下衆(げす)上﨟(じょうろう)ノキハモナク/大口ニキル美精好(せいごう)
鎧直垂(よろいひたたれ)猶不捨/弓モ引ヱヌ犬追物
落馬矢数ニマサリタリ/誰ヲ師匠トナケレトモ
遍(あまねく)ハヤル小笠懸(こかさがけ)/事新キ風情也(なり)
京鎌倉ヲコキマセテ/一座ソロハヌエセ連歌(れんが)
在々所々ノ歌連歌/点者ニナラヌ人ソナキ
譜第非成(ふだいひせい)ノ差別ナク/自由狼藉(ろうぜき)ノ世界也
犬田楽(でんがく)ハ関東ノ/ホロフル物ト云(いい)ナカラ
田楽ハナヲハヤル也/茶香十炷(ちゃこうじっしゅ)ノ寄合モ
鎌倉釣ニ有鹿(ありしか)ト/都ハイトヽ倍増ス
町コトニ立篝屋(かがりや)ハ/荒涼五間板三枚
幕引マワス役所鞆(とも)/其数シラス満々リ
諸人ノ敷地不定/半作ノ家是(これ)多シ
去年火災ノ空地共/クソ福ニコソナリニケレ
適ノコル家々ハ/点定(てんじょう)セラレテ置去ヌ
非職ノ兵仗(へいじょう)ハヤリツヽ/路次ノ礼儀辻々ハナシ
花山桃林サヒシクテ/牛馬華洛(からく)ニ遍満ス
四夷(しい)ヲシツメシ鎌倉ノ/右大将家ノ掟(おきて)ヨリ
只(ただ)品有シ武士モミナ/ナメンタラニソ今ハナル
朝(あした)ニ牛馬ヲ飼ナカラ/夕(ゆうべ)ニ賞アル功臣ハ
左右ニオヨハヌ事ソカシ/サセル忠功ナケレトモ
過分ノ昇進スルモアリ/定テ損ソアルラント
仰テ信ヲトルハカリ/天下一統メツラシヤ
御代(みよ)ニ生(うまれ)テサマサマノ/事ヲミキクソ不思義共
京童(みやこわらわ)ノ口スサミ/十分一ソモラスナリ
[内閣文庫 建武記](『中世政治社会思想 下』による)
二条河原落書
にじょうがわらのらくしょ
1334年(建武1)8月(翌年8月との説もある)、京都の二条河原に掲げられたもので、『建武記(けんむき)』に収録されている。落書は落し文(ぶみ)ともいわれ、犯人を告発する匿名の投書であったが、やがて、権力や社会に対する風刺や嘲(あざけ)り、批判の書を意味するようになった。「此比(このごろ)都ニハヤル物 夜討(ようち)強盗謀綸旨(にせりんじ)」と書き出し、「御代(みよ)ニ生(うまれ)テサマサマノ 事ヲミキクソ不思義共 京童(みやこわらわ)ノ口スサミ 十分一ソモラスナリ」と結ぶ88行の落書は、平安末期に流行した今様(いまよう)の物尽くし歌によりつつ、七五調を基本とした歌謡形式を継承したもので、混乱を極める建武新政府の内実と、政権下の揺れ動く世相とを「自由狼藉(ろうぜき)ノ世界」として把握し、鋭く風刺したものである。
落書の起源が、時の吉凶を神が人の口を借りてうたわせる童謡(わざうた)にあるとすれば、「京童」の口を借りて「天下一統メツラシヤ」と建武政府の崩壊を予告した作者の手腕は、きわめて優れたものといえよう。作者は新政権に批判的な知識人集団であったと推定される。
[佐藤和彦]
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二条河原落書 (にじょうがわららくしょ)
1334年(建武1)8月,京都二条河原に立てられた政治批判の落書。《梁塵秘抄》にも見えている〈此比(このごろ)都ニハヤル物〉という書出しの,八五調・七五調とり交ぜた物尽し形式の落書で,全88句より成る。時は建武新政発足後1年を過ぎたころで,新政の矛盾・混乱がはなはだしくなって,機構改革,政策修正の動きが出はじめたときに当たり,洛中治安の乱れ,おびただしい訴訟人の上洛,官庁職員の膨張や人事の不公正,武士の退廃,成出者の下剋上,鎌倉風・田舎ぶりの風俗好尚の流入などが謡いこまれて,新政下の京都の混乱は〈自由狼藉ノ世界〉として,一々具体的に鋭く批判され,一旦の平和も再び破れんとする予兆まで指摘されている。作者は不詳だが,新政を不満とし冷眼視する公家か僧侶と見るのが穏当であろう。事実の取上げ方や表現に,一部《太平記》と一致するところがあるから,《太平記》の作者または素材提供者と落書の作者との間に,なんらかの関係があったかもしれない。なお近年,落書の制作の意図について,二条河原が新政の政庁所在地である二条富小路殿と至近の距離にあった点に注目して,この落書は,京の町びとの目に触れさせるためというより,新政への忿懣を天皇につきつけたもの,とする見解が出されている。《建武年間記》(群書類従所収)に入っている。
執筆者:佐藤 進一
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「二条河原落書」の意味・わかりやすい解説
二条河原落書【にじょうがわららくしょ】
建武新政当時,京都の二条河原に立てられた落書。《建武年間記》に収録。1334年8月のものといわれ,建武政権を風刺。当時の世相を知る好史料。
→関連項目京童|建武年間記|落書
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二条河原落書
にじょうがわららくしょ
建武の新政を批判・風刺した落書。後醍醐天皇による建武政権発足後の1334年(建武元)または翌35年の8月に,後醍醐の政庁の二条富小路殿にほど近い二条河原に掲げられたとされている。作者は新政に不満をもつ公家または僧侶か。八五調と七五調をとりまぜた物尽し(ものづくし)形式で88句からなり,新政の矛盾と混乱した世情を一つ一つ指摘して鮮やかに批判し,新政の崩壊をも予見。落書史上の傑作と評される。建武政権の諸法令や職員の交名(きょうみょう)などを収集編纂した「建武記」(「建武年間記」とも)に収められたものが唯一で,ほかに伝本はない。「群書類従」「日本思想大系」所収。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
二条河原落書
にじょうがわらのらくしょ
建武2 (1335) 年8月,建武中興政府の政策や当時の世相を風刺した落書。京都二条河原に立てられたもの。政府の新政策が,従来の社会の制度や慣行を無視したこと,京都を右往左往する恩賞目当ての武士の姿,成上がり者のふるまいなどを,七五調でうたい,新政府の無方針に対する不信と傍観者的な態度とが,嘲笑的な調子で表明されている。『建武年間記』のなかに収められている。
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二条河原落書
にじょうがわらのらくしょ
1334(建武元)年8月,京都二条河原に立てられた落書
建武の新政当時の混乱した世相を鋭く風刺し,新政を批判している。『建武年間記』におさめられ,「此比都ニハヤル物夜討強盗謀綸旨 (にせりんじ) ……」に始まり,成り上り武士の見苦しいありさま,公武寄合政権の無方針,論功行賞の不当など,当時の政治と世相を知る貴重な史料である。作者は不明。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の二条河原落書の言及
【落書】より
… 落書の歴史は平安時代の初頭に貴族階級のあいだで始まり,しばしば政争の具に利用されて,昇任・栄転をめぐる官僚どうしの確執・暗闘にひと役かっていたようであるが,〈世間に多々〉広まった落書として有名なのは,嵯峨天皇の時代(9世紀初め)の〈無悪善〉という落書で,史上に名だかい学者の小野篁(おののたかむら)がこれを〈悪(さが)無くば善(よ)かりなまし〉と解読したという(《江談抄》)。以後,さまざまな落書,落首が各種の文献に記録され,それぞれの時代相をうかがわせる好資料となっているが,政情の混迷,社会の矛盾を巧みな表現で鋭くついたものとしてとくに著名なのは,後醍醐天皇による建武の新政時に京都の鴨川の二条河原に掲げられたという〈[二条河原落書]〉で,落書の歴史上,比類のない傑作とまで評価されている。 匿名の投書で他人の隠れた罪状を告発する落書は,かなりはやくから寺院組織内で実施されていたが,中世に入ると荘園領主である大社寺によって荘園の支配・管理のために積極的に活用されるようになり,領内の犯罪者の検索・摘発に大きい効果をみせた。…
※「二条河原落書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」