近世以前の日本建築では,鐘楼や金閣・銀閣のような楼閣建築を除くと,二階あるいはそれ以上の階に部屋を設けた建築は非常に少なかった。法隆寺金堂のような古代の大規模な仏堂は外見は二階建てであるが,二階に床板を張って部屋としているものは少ない。三重塔,五重塔,多宝塔のような層塔建築も,部屋を設け仏像を祭るのは一階のみであった。しかし鎌倉時代に中国の寺院を模して建てられた禅宗寺院では,山門や法堂などの二階に部屋を設けて仏像を祭るものがあり,二階と呼ばれていた。このように当時の寺院建築には,ほんとうに二階建てのものと,重閣や二階堂などと呼ばれても見かけだけが二階建てのものとの2種類があった。一方,内裏の建築をはじめ寝殿造や書院造の様式による貴族住宅では平屋建てが原則であり,二階建て以上は庭園に建てられた遊宴用の楼閣建築にのみ行われた。このように当時の日本建築が,中国建築を熱心に学びながらも中国に多い二階建てを積極的に採用しなかったのは,おそらく居住空間の接地性を重視する,古くからの日本人の習慣に基づくものと考えられる。
桃山時代に入ると当時の積極的な気風を反映して,城の天守をはじめ西本願寺飛雲閣のような楼閣等の二階建て以上の建築がかなり建てられた。風俗画に描かれた桃山時代から江戸初期にかけての京都,江戸等の町家でも二階屋が多く,三階建ての町家や土蔵も見られる。三階建ての町家はまもなく幕府の禁令により消失したが,二階建ての町家は建て続けられた。ただし,これらは二階の一部のみに部屋を設け,他は物置とするものが多く,おもな部屋は一階にあった。町家の二階に広い客座敷が設けられ始めるのは幕末期からで,大名の邸宅でも同じころから二階に座敷を設けるものが現れた。旅籠(はたご)や遊廓の建築でも,二階に客室を設けるものが多くなった。このように二階座敷が普及し始めると,階段もそれまでの急勾配のものからゆるい勾配のものに改められ,町家等では階段の側面に引出しを組みこんだ箱階段も採用された。農家もほとんどは平屋であった。ただし,白川郷の農家のように簣の子(すのこ)を用いて屋根裏に2ないし3段の床を設けるものがあり,江戸時代後期になると群馬県その他の養蚕地帯には,土間の上だけに中二階を設けたり総二階にして,それらを養蚕のために使うものが現れた。
都市の庶民住宅に二階建てが普及するのは明治後期から大正時代にかけてで,狭い敷地を利用した都市内の借家には二階建てが多く,一階には台所や茶の間等を置き,客座敷を二階に置く間取が一般的になった。町家でも,一階に店舗,茶の間,台所を配置し,二階に客座敷や家族の居室を置くものが普及したが,農家は敷地の余裕があるので古くからの平屋建ての形式を守り続けるものが主であった。
執筆者:大河 直躬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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