十二単(じゆうにひとえ)の中の重ね袿(うちき)の一つの名称。平安時代の中ごろから宮廷の女房たちに唐衣裳(からぎぬも)をつけたいわゆる十二単の姿ができたが,この中で唐衣裳をのぞいた袿の数は不定であって,晴れの儀式などには15枚も20枚も重ねることがあった。しかし平安末から鎌倉時代にかけて十二単の着装法も一定型ができて,重ね袿の数は5枚と定まり,これを五衣と称したのである。五衣は十二単の中でも主要の部を占めるから,その地質には綾織物が用いられ,地紋にも四季草花の折枝をはじめ立涌(たてわく)も多く,色には蘇芳(すおう),薄色,蒲萄(えび),萌黄(もえぎ)などがあり,また匂(におい),薄様(うすよう),むらごなどの重ねもあった。なお後世これを比翼仕立(ひよくじたて)にして着用に便にしたのは,五衣が純然たる儀服になったためである。
→袿
執筆者:日野西 資孝
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女房装束で,表着(うわぎ)と肌着である単(ひとえ)との間に着用した衣(きぬ)。衣は袿(うちき)ともいい,寒暖の調節と袖や裾の装飾とを兼ねて数枚重ねて着用した。重ねの枚数は華美を好みしだいに増えていったため,1044年(寛徳元)に衣を5領に限定。以来,通常の女房装束の衣は5領が慣例のように解釈され,五衣の名称が生じた。同型・同寸法の袷(あわせ)の衣5枚からなり,地質は冬が練絹(ねりぎぬ),夏は生絹(すずし)を用いた。とくに上級女房の五衣は表に綾(あや)や浮織物(うきおりもの),裏に綾を用いて表裏で襲(かさね)の色とし,さらに5領の色合いもそれぞれに違え,襲色目として趣向をこらし,紅梅(こうばい)・山吹(やまぶき)・卯花(うのはな)などの名称でよんだ。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
公家(くげ)女子衣服の一種。俗に十二単(ひとえ)といわれる女房装束や小袿(こうちぎ)装束の内衣。五領襲(かさ)ねて組み合わせた袿のこと。元来、襲ねる枚数に規定はなかったが、平安時代末ごろより五領が適当となり、それを五衣とよぶようになった。この五領の配色に趣向をこらし、五領同色にしたもの、襲ねる袿の上から順次、色目を濃くしたり淡くしたりした「匂(にお)い」、うち二領を白にした「薄様(うすよう)」、また五領各異色の組合せにしたものなど、いろいろな襲ね色目のものが用いられた。
[高田倭男]
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…王朝時代の女房の感覚が,これを発達せしめたのであった。この重ね袿も,後世には5枚に定められ,五衣(いつつぎぬ)と呼ばれるようになった。物具姿(もののぐすがた)(いわゆる十二単)は,唐衣(からぎぬ),裳(も),表着,打衣(うちぎぬ),それに袿と袴と単とを着たものであるが,この正装に対して,ただ袿と袴と単とだけの袿袴(けいこ)という略装が平安中期(10世紀末)に広く行われるようになった。…
…領巾は紗や薄絹の長い肩かけ,裙帯は紕帯(そえおび)のことで腰の左右に長く垂らす飾りの細帯,釵子は簪(かんざし)。平安時代末期より重ねの袿は五領が適当として五衣(いつつぎぬ)と称した。鎌倉時代以降,公家服装の簡略化とともに,朝廷においても平常は十二単を着ず,儀式の時のみ着用した。…
※「五衣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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