日本大百科全書(ニッポニカ)「色目」の解説
色目
いろめ
衣服の色づかい、配色の色名。とくに平安時代以降、貴族階級の間に行われた襲(かさね)装束における色づかいについていわれることが多い。
装束における色目には通常、(1)織り色目と(2)表裏の色目、それに(3)襲色目の3種がある。(1)は、織物の経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の違いによるもので、これは経緯の糸の太さと密度を同じにして織った場合には、いわゆる「玉虫」になって、光線のぐあいでひだの高低にしたがって、2色が交錯して見える。また経緯の太さを変え、そのいずれかを浮かせて文様を織り出せば、いわゆる2色の綾(あや)になって地と文様の色が相対する。紫、縹(はなだ)などの経綾地に緯に白を配して文様を表した緯白(ぬきじろ)の綾などが、男性の指貫(さしぬき)などに多くみられる。また緯糸に数色の色を入れて、これを浮織に織ったものが、男性の狩衣(かりぎぬ)や女性の表着(うわぎ)や唐衣(からぎぬ)、袿(うちき)などに用いられた。(2)の表裏の色目は、たとえば男性の直衣(のうし)などでも「桜の直衣」などというように、衣服の表地と裏地の2色の配合によるもので、袷(あわせ)仕立ての場合当然現れる色目である。
以上の二つは、織物、仕立てを考えた場合、とくに平安時代の襲装束でなくてもいくらもおこる問題で、あえて異とするに足りない。襲装束の特長を生かし、その美しさを発揮することにもっとも効果のあったのが、ここにいう(3)の襲色目であり、これは表衣の下に重ねる襲の着装の配色で、とくに襲装束の代表ともいうべき十二単(じゅうにひとえ)の美しさなどは、これによってつくりあげられたものといっていい。襲色目の取り合わせには、色の濃淡で階層的に構成される「匂(にお)い」、と異なった色の対照的な効果をみせたものとがあったようである。
紅梅襲の袿といえば、紅梅色から朱色に戻る袿を濃淡に従ってそろえたもの、これに対して「柿(かき)、桜、山吹、紅梅、萌黄(もえぎ)の五色をとり交わしつつ云々(いい)。三色着たるは十五ずつ云々、多く着たるは十八、二十にてでありける」(栄花物語)というのは、濃淡を含めた異系統の数色による襲色目であろう。
奈良時代から平安時代に入ると、染織における色名の称呼に大きな変化がみられる。すなわち、赤、青、黄の三原色に白と黒を加えた抽象的な5色以外の色には、紅、紫、支子(くちなし)、橡(つるばみ)、藍(あい)、茜(あかね)といった染料の名称が多く用いられていたのが、上述の襲の色にもみるように、紅梅、桜、山吹、竜胆(りんどう)といった具体的な自然の植物の色そのものからとった色名が非常に多くなってくる。そしてこのことは、しだいに色そのものが季節と結び付く傾向を生じ、季節にあった色目を用いることが好ましいものとされ、ついにはすべての色目に対していちいち着用の時期が定められて、これに従って四季折々の衣服の配色がなされたようにみえる。しかしこうした堅苦しい規則のようなことは、貴族の服飾が爛熟(らんじゅく)を経て形式化した平安末か、むしろ鎌倉時代以後にできあがったもので、今日襲色目としてあげられているものも、これらがすべて平安時代と同じものであるとは考えられない。衣服の表と裏の色目なども、元来は襲色目とは別のものであったのが、いつしかこれと一つに考えられるようになった。
襲色目も、室町時代以後は公家(くげ)文化の衰退に伴う襲装束の簡略化、小袖(こそで)服飾の勃興(ぼっこう)によって、しだいに廃絶してしまい、わずかに江戸時代の形式的な再興や、明治以後の宮廷儀式服のなかにその残骸(ざんがい)をとどめている。しかし伝統的な日本の服装における重ね着の場合、上下の衣服の配色や、裾(すそ)や襟回しなどの色づかいには、現在でもこうした色目に対する細やかな感情の伝統が生き続けているといえるであろう。
[山辺知行]