日本歴史地名大系 「五輪峠」の解説 五輪峠ごりんだわ 鳥取県:西伯郡西伯町大木屋村五輪峠西伯町大木屋(おおきや)と日南(にちなん)町菅沢(すげさわ)との間にあり、近世には法勝寺(ほつしようじ)往来が通り、会見(あいみ)・日野両郡の郡境の峠であった。標高約四六〇メートル、前後の坂は平坦である。古くから会見郡域と奥日野を通じて奥出雲・備後方面とを結ぶ重要な峠で、馬の背による鉄荷を中心とする諸荷物の往来で賑わった。会見郡から峠に至る道は一筋であるが、日野郡に入ると峠道は菅沢のうち中津合(なかつご)・呼子(よびこ)を経て大宮(おおみや)(以上現日南町)に至り、阿毘縁(あびれ)越で出雲に通ずる道、中原(なかばら)・本山(もとやま)・生山(しようやま)(現同上)を経て多里(たり)(現同上)から鍵掛(かつかけ)峠を越えて備後に通ずる道、中原を経て日野川越で中菅(なかすげ)・上菅(かみすげ)(現日野町)方面へ至る道と三つのルートに分れていた。 五輪峠ごりんとうげ 岩手県:江刺市人首村五輪峠江刺市米里(よねさと)と遠野市小友(おとも)町の境界に位置し、標高五八一メートル。近世には人首(ひとかべ)村北東境で仙台藩領と盛岡藩領の境界であった。五倫峠とも書かれる。盛(さかり)街道から人首村で分岐した道が、当峠を越えて奥友(おとも)村へ通じていた。藩境であることから境番所が置かれ、役人が通行人や商荷などを取締った。慶長五年(一六〇〇)遠野の阿曾沼広長が南部利直の命により山形へ出陣中、謀反を起こした支族の鱒沢広勝が当峠で広長を待伏せた。逃れた広長は翌年秋旧領を回復せんと反攻し、当峠や現気仙(けせん)郡住田(すみた)町上有住(かみありす)と遠野市の境にある赤羽根(あかばね)峠などで合戦が行われた(阿曾沼興廃記)。天正一八年(一五九〇)の葛西大崎一揆の際、上大内沢(かみおおうちさわ)屋敷の上野が戦場で傷を負い本陣へ戻る途中、当峠で落馬し果てたため、塚を築き石塔を置いた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
日本大百科全書(ニッポニカ) 「五輪峠」の意味・わかりやすい解説 五輪峠ごりんとうげ 岩手県南部、遠野市(とおのし)、奥州市(おうしゅうし)、花巻市(はなまきし)の境界にある峠。標高556メートル。県道が通じている。江戸時代には盛岡藩鱒沢(ますざわ)(遠野市)と仙台藩米里(よねさと)(奥州市)の境界にあたり、両藩の関所が設けられていた。また、伝説によると、中世末の大崎、葛西(かさい)両氏の合戦で重傷を負い、この地で死んだ人を弔って、五輪石を建立したことから五輪峠と名づけられたという。[川本忠平] 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 Sponserd by
デジタル大辞泉プラス 「五輪峠」の解説 五輪峠 岩手県南部、遠野市・奥州市・花巻市の境界にある峠。童話作家、宮沢賢治にゆかりの「イーハトーブの風景地」の一部として国の名勝に指定されている。 出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報 Sponserd by