井戸村(読み)いどむら

日本歴史地名大系 「井戸村」の解説

井戸村
いどむら

[現在地名]三木町井戸、大川郡長尾ながお昭和しようわ

下高岡しもたかおか村の東南、東は寒川さんがわ長尾西ながおにし(現長尾町)。東部を鴨部かべ(井戸川)が北流し、長尾街道が東西に通る。「和名抄」三木郡井閇いのへ郷の地に比定される。条里地割が残存し、二条にじようの地名もその遺称とみられる。中世には皇室領の井戸郷があった。文永九年(一二七二)正月一五日の後嵯峨処分帳(後嵯峨院御文類)で京都嵯峨の新法華堂領として二品(藤原能子)に譲られ、嘉元三年(一三〇五)七月二六日の亀山院処分帳(亀山院御凶事記)では、別納一期分として二条天皇母の堀川准后(西華門院)に譲られており、翌四年の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)にも讃岐国の公領分に「井戸郷准后堀川」とある。

寛永国絵図には井戸郷とあり、当村の熊田くまだ高木たかぎなどを含んで高二千六四九石余。

井戸村
いどむら

[現在地名]徳島市国府町井戸こくふちよういど

花園はなぞの村の南にあり、東は北岩延きたいわのぶ村、南は和田わだ村・府中こう村。天正一二年(一五八四)一一月一四日の某所領宛行状(土佐国蠧簡集)に土居重兵衛に与えられた五六ヵ所・八町四反四五代のうちにみえる「名西井戸村」は当地のことと推定される。また同日付の宛先不明の前欠某所領宛行状(宗円文書)の坪付には「井戸村和田分」などがみえる。慶長二年(一五九七)の分限帳では一〇五石余が赤川喜太郎、四石余が安楽寺道申入道、一〇五石余が長谷川弥太郎、四石余が岡崎九郎三郎、一五石余が原小左衛門、四〇石余が河村与五郎、六五石余が牛尾平兵衛の各知行分。正保国絵図では高三五五石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方一六六石余・畠方一八九石余。

井戸村
いどむら

[現在地名]京北町大字井戸

山国やまぐに九ヵ村の一。大堰おおい川と支流小塩おしお川の合流点に位置する山間集落。北は小塩村、東は下黒田しもくろだ村、西は大野おおの村。古代は「和名抄」に記す山国郷に属し、中世は山国庄本郷(山国杣)内八ヵ村に含まれる。

村名の初見は、宝徳三年(一四五一)八月一〇日付山国惣庄山地寄進状写(井本昭家文書)で、山国惣庄の古老の一人として「井戸村宇須和左近」とある。当村の名主は天文一九年(一五五〇)の郷中名主之事(吹上家文書)によると、江口右近尉光常・大宅右近大夫師高・樋爪土佐介春沖・宇津和左近将監師高・大江右近将監広義・中道兵衛尉忠国の六名。名田は棚見方の武光名(二町二〇代)があり、名主は江口右近・小畠後・奥平井という(天文九年「丹波桑田郡山国名職帳」横田家文書)

井戸村
いどむら

[現在地名]石和町井戸

砂原すなはら村の西、笛吹川と鵜飼うかい川に挟まれた低湿地にある井土・井渡とも書く。貞治三年(一三六四)二月一五日の一蓮寺寺領目録(一蓮寺文書)によると、貞和元年(一三四五)九月一五日河内小太郎入道女子尼如阿が「河内井土五段」を寄進している。河内を冠せられているのは同郷の内を意味するか。「一蓮寺過去帳」には大永七年(一五二七)の金阿弥陀仏に「井渡」と注記されるが、当地の住人であろう。近世の井戸村の名主又兵衛の祖先甘利兵部助は、天正一一年(一五八三)五月六日に本領安堵をされているが、そのなかに井戸村の名はみえず(「徳川家印判状」甘利昂一家文書)、ほかに大量に残される徳川氏の安堵状のなかにも井戸の地名はない。

井戸村
いどむら

[現在地名]津市片田井戸かただいど町・片田新かただしん

志袋しぶくろ村の南、岩田いわた川上流沿岸の低平地帯にあり、伊賀街道が通る。丘陵地に高井たかい古墳があり、その東側に新畑しんばた遺跡がある。「和名抄」の片県かたかた郷にあたり、中世は片田郷のうちにあった。文禄検地帳を転記したとみられる伊勢国中御検地高帳では片田村に含まれ、慶安郷帳(明大刑博蔵)には「井戸村」として独立している。江戸時代を通じて津藩領。

井戸村
いどむら

[現在地名]長瀞町井戸

荒川の右岸、しろ山の南に位置し、西は荒川を隔てて本野上ほんのがみ村・藤谷淵ふじやぶち村、南は下田野しもたの(現皆野町)、北は岩田いわた村。下田野村から北上する往還が村内を縦断し、岩田村に向かう。丹党に属した井戸氏の名字の地といい、丹党系図(諸家系図纂)では七郎丹二郎基政の子政成は井戸を名乗り、政成の孫直茂は井戸右馬允を称している。応永二五年(一四一八)三月二八日、鎌倉公方足利持氏は安保宗繁・同満春らの訴えにより、秩父郡「井戸郷内田畠在家」などに対する本庄左衛門入道らの押妨を退け、下地を宗繁・満春らに沙汰し付けるよう横瀬美作守らに命じている(「足利持氏御判御教書」安保文書)

井戸村
いどむら

[現在地名]阿南町西条にしじよう 井戸

遠州往還沿いに位置する。北と西は田上吉田たがみよしだ村、東は千木ちぎ村、南は早稲田わせだ村に接する。

大永五年(一五二五)関氏の所領となり、天文一三年(一五四四)下条領、天正一五年(一五八七)飯田城代菅沼氏預り所、同一九年京極氏知行所、慶長六年(一六〇一)小笠原氏預り所、元和三年(一六一七)脇坂領、天和元年(一六八一)美濃高須藩松平氏の飛領地となる(長野県町村誌)。村高は、正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻にはみえず、天正一九年に六八石余(信州伊奈青表紙之縄帳)、天保五年(一八三四)に三八石余(信濃国郷帳)

井戸村
いどむら

[現在地名]和歌山市井戸

名草なくさ郡に属し、朝日あさひ村の北東にある。平安時代、三上みかみ院のうち安原やすはら郷に含まれたと考えられる。慶長検地高目録によると高二三九石余。吉原組に属し、同組大差出帳(和歌山大学蔵)によれば家数一八、人数一一五、牛五、池二(谷奥池・かしこ谷池)、松山二(奥谷山・市山)

井戸村
いどむら

[現在地名]御所市大字井戸

金剛山地東麓の傾斜地に位置。井戸・井戸柄いどがらの二垣内よりなる。天正一一年(一五八三)の吐田庄納帳(春日神社文書)の葛上郡に「イガラ田一町七反」「イトノ清七」とみえるのは井戸柄・井戸のことか。

近世初期は佐田さだ村・魔志まし(真志)村に属し、近江小室藩領。寛永一六年―寛文四年(一六三九―六四)間にそれぞれの村から高を分け一村を構成。元禄郷帳には「真志村佐田村之枝郷」と注記。

井戸村
いどむら

[現在地名]荻町馬背野ませの

矢倉やぐら川の南、山崎やまさき(岩戸川)の北に位置する標高四五〇メートル前後の山間にわずかな集落が点在する。正保・元禄・天保の各郷帳には村名がみえない。弘化物成帳では恵良原組のうち、村位は中、免七ツ三分、田三〇石余(三町一反余)・畑二六石余(四町六反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田はほとんどなく、開畑八斗余(一町四反余)がある。

井戸村
いどむら

[現在地名]長尾町昭和しようわ木田きた三木みき町井戸

三木郡の村で、昭和三四年(一九五九)鴨部かべ川以東と雲附くもつけ(二三九・四メートル)から南に延びる尾根の東が長尾町に編入された。

井戸村
いどむら

[現在地名]川上村大字井戸

吉野川左岸、人知ひとじ村の上流にある。村内の玉峯寺(曹洞宗)薬師如来像胎内墨書銘には「大名持十二所 承安三年四月廿日(下略)」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報