日本大百科全書(ニッポニカ) 「今井宗薫」の意味・わかりやすい解説
今井宗薫
いまいそうくん
(1552―1627)
安土(あづち)桃山時代、江戸時代前期の茶人。宗久(そうきゅう)の嫡子。名は兼久、また久胤(ひさたね)ともいい、通称帯刀左衛門(たてわきざえもん)、のち宗薫と称す。号単丁斎。父に次いで織田信長に仕え、のち豊臣(とよとみ)秀吉の茶頭(さどう)となる。御咄衆(おはなししゅう)とも所見する。秀吉の命により、宗久の遺領のうち堺五ヶ庄(さかいごかしょう)代官職は一族の大和(やまと)今井兵部卿(ひょうぶきょう)に改められ、宗薫には摂津住吉郡(現大阪市)内に知行地(ちぎょうち)が1000石与えられた。秀吉没後、伊達政宗(だてまさむね)の女(むすめ)と徳川家康の子上総介(かずさのすけ)忠輝(ただてる)との婚約を図り、大名の私婚禁止令違犯の罪に問われて高野山(こうやさん)に蟄居(ちっきょ)した。関ヶ原の戦いには家康方に属して功をあげ、300石加増される。1614年(慶長19)徳川方へ通じたかどで子の彦八郎(宗呑(そうどん))とともに大坂城内に拘禁されたが、織田有楽(うらく)のとりなしで赦(ゆる)され、高野山へ追放された。翌年の大坂の陣(夏の陣)には家康方に従ったが、豊臣方による堺の焼討ちで居宅、家財を失い、以後茶の湯から離れている。寛永(かんえい)4年4月11日没、76歳。子孫は旗本となり、幕末に及んだ。
[村井康彦]