南北朝期の幕府方の武将,歌人。今川範国の次子。1418年(応永25)7月以前に没した。1366年(正平21・貞治5)ころ,室町幕府の侍所となり,山城守護を兼ね,67年12月の将軍足利義詮の死に伴い,出家して了俊と号した。引付頭人を兼務し,また範国の譲りをうけて遠江守護も兼務した。70年(建徳1・応安3),南朝勢力が優勢な九州を平定するため九州探題に補任され,翌71年弟で養子となった仲秋(頼泰),弟の氏兼,子の貞臣らの一門子弟とともに九州に下向した。同時期に安芸守護に補任されている。72年に征西将軍宮懐良親王のいた大宰府を攻略したが,75年(天授1・永和1)少弐冬資を肥後水島の陣に誘殺したことから,島津氏の離反を招いた。島津氏攻略のため,77年63名の南九州国人による反島津氏の一揆結成に成功した。81年(弘和1・永徳1)には菊池氏の本拠地を陥落させ,のち懐良親王を筑後に追い,九州経営を確定的なものにした。九州探題としての了俊は,みずからを将軍の分身として位置づけ,全九州に一門子弟を代官として派遣して経営を行い,また高麗・朝鮮とも通交した。室町幕府は,了俊の在職が長期化して権力が強大化するのを好まず,幕府内部の人事変化と大内・大友氏の讒言(ざんげん)などによって,95年(応永2)閏7月九州探題を解任され,京都に召還された。その後,駿河・遠江両半国守護に補任された。応永の乱では大内義弘,足利満兼に通じたが,上洛を条件に許され,了俊の政治生命は終止符をうたれた。了俊は冷泉(れいぜい)派の歌人としても名高く,晩年は和歌・連歌の教導にあけくれ,冷泉歌学を体系化した。弟子に正徹がいる。代表的作品に《難太平記》(1402),《二言抄》(1403),《言塵集》(1406),《師説自見集》(1408),《落書露見》(1412以前)などがある。遠江国堀越(静岡県袋井市)の海蔵寺に墓がある。
執筆者:佐伯 弘次
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(長谷川弘道)
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1326~?
南北朝期~室町中期の武将。九州探題。入道して了俊(りょうしゅん)。1371年(応安4・建徳2)探題となる。懐良(かねよし)親王・菊池氏などの南朝方を圧迫して大宰府を確保。75年(永和元・天授元)には少弐冬資(しょうにふゆすけ)を殺害(水島の変)するなど,室町幕府の九州経営を進展させた。しかし南北両朝合体の成立など政情の変化により,95年(応永2)探題を解任された。99年大内義弘らと提携して幕府に反抗を試みたが失敗(応永の乱)。和歌にすぐれ多数の歌論書があり,また史書「難太平記」などの著作を残した。弟仲秋(なかあき)に与えた教訓状は「今川状」として知られる。生年には異説もある。
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…1336年(延元1∥建武3),九州に敗走した足利尊氏が,筑前多々良浜合戦で勝機を得,大挙東上する際,一色範氏を九州にとどめて幕府軍を統轄させたのが始まり。その後この職にあったのは,南北朝期は一色直氏,足利直冬,斯波氏経,渋川義行,今川貞世と転変するが,両朝合一後は代々渋川氏であった。
[南北朝期]
初代鎮西管領一色範氏は,一族を軍事指揮者として九州各国に派遣したが,46年(正平1∥貞和2)子息直氏を下向させ,以後は父子一体となってその政務をとる。…
…ただし,そこで用いられるものは紙ではなく,すべて布地である点は注目すべきであろう。《今川大双紙》は室町時代の初期に今川貞世(さだよ)(了俊(りようしゆん))が著した武家故実の書であり,たとえば金(かね)の包み方として,所柄や季節に応じた包み方,材料およびその色合いの選び方などについて述べている。 室町時代までは,〈包み〉の礼法は将軍家を中心とする上流階層にしか行われなかったが,江戸時代中期になると和紙が全国各地で大量に生産されるようになり,武士に限らず一般庶民の間でも広く用いられるようになった。…
…今川貞世(了俊)の著作。1402年(応永9)2月,了俊78歳のとき成立した。…
…また越中には桃井直常らの南党が蜂起したが,頼之は同国守護斯波義将らを派してこれを覆滅した。九州では征西将軍懐良親王以下の南軍が大宰府を中心として勢力を振るっていたが,頼之は70年(建徳1∥応安3)今川貞世を九州探題とし,兵站基地を準備し,九州・中国の諸氏に貞世への協力を指令した。そこで貞世は72年(文中1∥応安5)大宰府を占領し,やがて肥後に攻め入って菊池氏を圧迫した。…
… 65年(正平20∥貞治4)九州探題に任じられた渋川義行は備後守護を兼帯し,軍勢の整うのを待ちつつ備後辺に延滞を重ね,結局70年(建徳1∥応安3)帰京した。同年9月九州探題に抜擢(ばつてき)された今川貞世は翌年2月京都を出発し,5月ごろ尾道に滞在ののち悠々と西下した。貞世は備後,安芸の守護を兼帯し,両国の国人(こくじん)の多くが彼に従って出陣した。…
※「今川貞世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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