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九条道家 くじょう みちいえ

デジタル大辞泉の解説

くじょう‐みちいえ〔クデウみちいへ〕【九条道家】

[1193~1252]鎌倉前期の公卿。兼実(かねざね)の孫。四男頼経を将軍として鎌倉に送り、また、公武協調策によって摂政・関白となり、権勢を得た。のち出家、不遇のうちに死去。日記「玉蘂(ぎょくずい)」がある。

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百科事典マイペディアの解説

九条道家【くじょうみちいえ】

鎌倉初期の公卿摂政関白九条兼実(かねざね)の孫。光明峰寺(こうみょうぶじ)殿ともいう。四条天皇の外祖父で,子藤原頼経(よりつね)は将軍となる。西園寺公経(きんつね)と結んで朝幕の間で重きをなすが,その後幕府との関係が悪化し,晩年は出家。
→関連項目一条実経吉良荘柞田荘摂家将軍宣陽門院仲恭天皇春木荘

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

九条道家 くじょう-みちいえ

1193-1252 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
建久4年6月28日生まれ。九条良経(よしつね)の子。母は一条能保(よしやす)の娘(源頼朝の姪(めい))。元久2年従三位。左大臣にすすみ,承久(じょうきゅう)3年摂政,氏長者となるが,承久の乱で辞任。子の頼経(よりつね)が4代将軍となり,岳父西園寺公経(さいおんじ-きんつね)の引き立てで復権。安貞2年関白,ついで摂政。出家後も実権をにぎるが,頼経,孫の頼嗣(よりつぐ)(5代将軍)が執権北条時頼により鎌倉からおわれ,失脚。従一位。建長4年2月21日死去。60歳。通称は光明峯寺殿。法名は行慧。日記に「玉蘂(ぎょくずい)」。

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世界大百科事典 第2版の解説

くじょうみちいえ【九条道家】

1193‐1252(建久4‐建長4)
鎌倉初期の公卿。兼実の孫,良経の長男。母は一条能保の女(源頼朝の姪)。1205年(元久2)従三位・非参議となってから累進して21年(承久3)摂政,氏長者となった。道家は,四男頼経が実朝の後継者として幕府に迎えられたように(摂家将軍),幕府との関係は密接であったが,承久の乱後,廟堂の責任者として摂政を辞した。しかし,西園寺公経と結んだ道家は28年(安貞2)再び関白として起用され,朝政は九条・西園寺両家の提携によって進められた。

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大辞林 第三版の解説

くじょうみちいえ【九条道家】

1193~1252) 鎌倉初期の公家。摂政・関白。良経の子。母は源頼朝の姪めい。幕府と結び、四男頼経が四代将軍に迎えられて家門の繁栄をみたが、晩年、幕府と不和になり勢力を失った。日記「玉蘂ぎよくずい」がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

九条道家
くじょうみちいえ

[生]建久4(1193)
[没]建長4(1252).2.21. 京都
鎌倉時代前期の公卿。兼実の孫。良経の長子。母は一条能保の娘 (源頼朝の姪) 。元久2 (1205) 年従三位権中納言となる。同3年良経没後家督を継ぎ,建暦2 (12) 年内大臣,建保3 (15) 年右大臣と進み,同6年妹立子の所生の皇子 (のちの仲恭天皇) が皇太子となると東宮傅をつとめた。承久1 (19) 年将軍源実朝が暗殺されると,幕府の要請によって4男頼経をその後任として鎌倉へ送った。同3年仲恭天皇の摂政となったが,承久の乱が起ると辞した。頼経が鎌倉幕府4代将軍となったため,安貞2 (28) 年 12月,関白となり家門は栄えた。晩年は子頼経,孫頼嗣が将軍職を追われ,幕府にうとまれて不遇であった。法名を光明峯寺殿という。日記に『玉蘂 (ぎょくずい) 』がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

九条道家
くじょうみちいえ
(1193―1252)

鎌倉前期の公卿(くぎょう)。兼実(かねざね)の孫。良経(よしつね)の嫡男。母は一条能保(いちじょうよしやす)の女(むすめ)(源頼朝(よりとも)の姪(めい))。1206年(建永1)父の死後家を継ぎ、摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)から准三宮(じゅさんぐう)に至った。19年(承久1)将軍実朝(さねとも)が暗殺されたあと、幕府の要請で四男頼経(よりつね)を将軍として鎌倉に送り、また妻の父西園寺公経(さいおんじきんつね)が幕府の後援で朝廷の実権を握るに及んで、道家も大いに権勢を振るった。38年(暦仁1)法性寺(ほっしょうじ)で出家(法名行慧(ぎょうえ))の後も政務に携わり、公経の死後は自ら関東申次(もうしつぎ)となって朝廷と幕府との間の連絡にあたった。しかし、頼経、その子頼嗣(よりつぐ)が相次いで北条氏のために将軍職を追われ、道家自身も幕府に疎まれ、関東申次を解任されて籠居(ろうきょ)、建長(けんちょう)4年2月21日不遇のうちに死んだ。仏教を信ずること厚く、36年(嘉禎2)東福寺を建立した。その日記を『玉蘂(ぎょくずい)』という。[新田英治]

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367日誕生日大事典の解説

九条道家 (くじょうみちいえ)

生年月日:1193年6月28日
鎌倉時代前期の歌人・公卿
1252年没

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世界大百科事典内の九条道家の言及

【一条家】より

藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖実経の殿第に由来するが,また一条の坊名にちなんで桃華ともいう。鎌倉時代の初め,藤原摂関家は,忠通の後が基実流の近衛家と,兼実流の九条家に分かれたが,九条家は,兼実が源頼朝の推挙により摂関の座について以来,源氏将軍家との結び付きを強め,さらに兼実の孫道家に至って全盛期を迎えた。道家はみずから再三摂関に就任したばかりでなく,教実,良実2子を相ついで摂関に任じ,さらに1246年(寛元4)良実に強要して関白を弟の実経に譲らせ,ついでこれを摂政とした。…

【鎌倉時代】より

… 確かに承久の乱後も院政は継続しているが,その実質は変化し,治天の君はかつての独裁権を失っていた。乱後の朝廷の政治を指導したのは実は治天の君ではなく,幕府と関係の深い西園寺公経とその女婿の九条道家であった。公経は頼朝と姻戚関係にあり,承久の乱にも幕府を支持し,幕府の絶対の信頼を得ていた。…

【関東申次】より

…いかなる人物がその任にあたり,いかなる活動を示すかは,その時々の朝廷と幕府との政治的な力関係によって左右された。たとえば源頼朝の時代には,もっぱら院伝奏の吉田経房が朝幕間の単なる取次ぎにあたり,承久の乱後は,重要事項については将軍頼経の父である九条道家が交渉にあたり,小事は院司が取り次ぐといったぐあいであった。やがて1246年(寛元4)幕府が西園寺実氏を関東申次に指名したことによってその制度が確立し,以後関東申次の地位は実氏―実兼―公衡―実兼(再任)―実衡―公宗と西園寺家の正嫡に受け継がれていったが,このことは鎌倉時代中・後期における西園寺家の隆盛をもたらすことになった。…

【九条家】より

藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖兼実の殿第に由来するが,また九条の坊名にちなんで陶化ともいう。平安時代後期に入って,摂政・関白と氏長者の地位は藤原道長の子孫御堂流の嫡流に定着したが,源頼朝は平家を討滅すると,平家と縁故の深い摂政近衛基通をしりぞけ,基通の叔父に当たる兼実を摂政,氏長者に推挙した。兼実はその後,土御門通親との権力争いに敗れて失脚したが,通親の没後,兼実の男良経が摂政となり,九条家の分立を確実にした。…

【東福寺】より

…山号は恵日山(えにちさん)。開基は九条道家,開山は円爾弁円(えんにべんえん)(聖一(しよういち)国師)。京都五山の一つ。…

【二条家】より

…五摂家の一つ。九条道家の次男良実を始祖とし,家号は良実の殿第に由来するが,二条の坊名にちなんで銅駝(どうだ)の称もある。承久の乱後,時の権臣西園寺公経の女婿九条道家は,みずから摂政・関白に就任したばかりでなく,教実,良実,実経の3子を次々に摂関の座につけ,九条家の全盛を謳歌した。…

【二条良実】より

…五摂家の一つ二条家の祖。九条道家の次男。母は西園寺公経(きんつね)の女倫子。…

【藤原頼経】より

…鎌倉幕府の第4代将軍。摂政九条道家の子。母は太政大臣西園寺公経の娘綸子。…

※「九条道家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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