伊井 蓉峰(読み)イイ ヨウホウ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「伊井 蓉峰」の解説

伊井 蓉峰
イイ ヨウホウ


職業
俳優

本名
伊井 申三郎

別名
俳名=十千里園 薬舎,白峰

生年月日
明治4年 8月16日

出生地
東京府 日本橋呉服町(東京都 中央区)

経歴
父は写真師で、浅草の奇人といわれた北庭筑波。医学予備校、独逸協会学校で学び、18歳の頃から給仕として神戸三井銀行に勤務。当初は新聞記者や小説家を志し、父の親友である洋学者・大槻如電に相談するが反対され、代わりに洋行帰りで壮士芝居をしていた川上音二郎のことを教わる。さらに演劇改良にも取り組んだ漢学者・依田学海を訪ねて話を聞くうちに俳優志望に転じ、学海の勧めで、24年浅草・中村座で旗揚げした川上音二郎一座に参加した。しかし、川上の芝居と傲慢な性格が気に入らず直ぐに脱退。同年学海の後援で千歳米坡らと浅草の済美館を拠点とした男女合同改良演劇運動を興し、女形は女性が演じるなどの写実主義や、政治色を排した芸術至上主義の演劇を推進した。この頃から、富士山の別名で学海が名付けた蓉峰の芸名を名乗る。運動が頓挫してからは再び川上一座に身を置いたが、28年佐藤歳三、水野好美とともに浅草座で伊佐水(いさみ)演劇を旗揚げして市内の小劇場で公演。29年からは伊井一座を称して座長となり、河合武雄らの共演を得て、31年には歌舞伎座に進出した。35年真砂座で近松物の「心中天網島」を試演したのが識者の評判となり、以後も漱石や鴎外・藤村などの近代文学や、シェイクスピア劇を原作に忠実に上演して好評を博す。42年新派大合同で座頭となり、本郷座に出演し人気を得、大正元年には明治座の座主に就任した。6年松竹傘下に入り、自身と河合、喜多村緑郎とによる新派三頭目の一座が成立。12年関東大震災後に関東の演劇人が関西へ移る中、東京に残って孤軍奮闘し、当時の新聞に載っていた三面記事の劇化などを行う。昭和3年牧野省三監督の映画「実録忠臣蔵」に出演。その後、養子の伊井友三郎らと本国劇を興すも振るわず、6年再び松竹の傘下に入り、復帰第1作目となる「二筋道」が大ヒットした。「金色夜叉」の貫一、「婦系図」の早瀬などが当たり役。著書に「伊井蓉峰脚本集」「日本の演劇の説」がある。

没年月日
昭和7年 8月15日 (1932年)

家族
父=北庭 筑波(写真師)

親族
女婿=伊井 友三郎(俳優)

伝記
団菊以後 伊原 青々園 著(発行元 青蛙房 ’09発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「伊井 蓉峰」の解説

伊井 蓉峰
イイ ヨウホウ

明治〜昭和期の新派俳優



生年
明治4年8月16日(1871年)

没年
昭和7(1932)年8月15日

出生地
東京市日本橋区呉服町(現・東京都中央区)

本名
伊井 申三郎

別名
俳名=十千里園 薬舎,白峰

経歴
医学予備校、独逸協会学校で学び、神戸三井銀行に勤務。明治24年浅草・中村座で旗揚げした川上音二郎一座に参加したが、書生芝居が気に入らず脱退。同年浅草済美館に男女合同改良演劇を組織。28年佐藤歳三、水野好美とともに伊佐水(いさみ)演劇を結成、浅草座で旗揚げし、市内の小劇場で公演、31年歌舞伎座に進出。35年真砂座で近松物やシェークスピア劇の新演劇などを試みた。42年の新派大合同で座頭となり、本郷座に出演し人気を得、大正元年には明治座の座主になった。4年河合武雄と結び、6年には松竹傘下に入り、さらに河合、喜多村緑郎の新派三頭目の一座が成立した。昭和6年には「二筋道」が大ヒットした。「金色夜叉」の貫一、「婦系図」の早瀬などが当たり役。著書に「伊井蓉峰脚本集」「日本の演劇の説」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「伊井 蓉峰」の解説

伊井 蓉峰 (いい ようほう)

生年月日:1871年8月16日
明治時代-昭和時代の新派俳優
1932年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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