出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
建築家,建築史学者。米沢市に生まれる。1892年帝国大学工科大学造家学科を卒業。《法隆寺建築論》(1898)により,日本建築史研究の端緒をつけ,また古社寺保存会委員(1896)となり古建築の保存と研究のみちを開いた。1905年東京帝国大学工科大学教授。初期の研究では岡倉天心の影響を受けて,日本建築史の体系化と東洋と比較した日本建築の特質の抽出に関心を持ち,東洋建築史の体系化とあわせて雲岡石窟を世界に紹介した。大正期以降主要な活動は建築設計に移り,明治神宮(1920),朝鮮神宮(1925)など主要な創建神社の多くを手がけた。また震災記念堂(1930),築地西本願寺本堂(1934)などで,日本および東洋建築の細部を用いながら西欧的な手法により立体として再構成し,新しい日本建築を生み出すことに意を用いた。39年日独文化交換教授として渡独,43年文化勲章。著書に《伊東忠太建築文献》《支那建築装飾》がある。
執筆者:丸山 茂
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建築家、建築史家。山形県米沢(よねざわ)に生まれる。1892年(明治25)帝国大学工科大学造家学科卒業後、大学院に進み、日本建築史の研究に着手、翌1893年『法隆寺建築論』を発表。また同年から東京美術学校の講師となり岡倉天心の影響を受ける。1899年東京帝国大学助教授、1905年(明治38)教授。この間、日本建築の源流を求めて中国、インド、トルコなどに旅行し、雲崗(うんこう)の石窟(せっくつ)を発見。日本および東洋建築史の学問的体系を樹立するなど、日本最初の建築史家として活躍。また内務技師、古社寺保存会委員、国宝保存会委員として神社の造営、文化財の保存に尽くした。東大名誉教授、学士院会員、芸術院会員。1943年(昭和18)文化勲章受章。著書に『伊東忠太建築文献』『支那(しな)建築装飾』など、おもな建築作品に平安神宮(1895)、明治神宮(1920)、大倉集古館(1927)、築地(つきじ)本願寺(1934)などがある。
[天田起雄]
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…武周山に面した高さ20~30mの北の崖面(砂岩)に並び,南面した大窟21(第1洞から第20洞および第39洞),中小窟20,磨崖仏龕(がん)約120があり,全長3kmに及ぶが,主要な石窟は1kmの中に集中している。1902年(光緒28)伊東忠太が踏査して重要性を指摘。07年にE.シャバンヌがはじめて多数の写真を撮影,石窟番号を与えて発表した。…
…〈建築〉という用語は比較的新しく,1897年(明治30)に造家(ぞうか)学会が建築学会と改称してから公認されたもので,建築学者の伊東忠太がアーキテクチャーarchitectureに対応する新語として提案した。それまでは,土木建築工事一般を〈普請(ふしん)〉,建物に関する工事を〈作事(さくじ)〉と呼んでいた。…
※「伊東忠太」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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