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雲崗石窟 うんこうせっくつ Yun-gang shi-ku

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

雲崗石窟
うんこうせっくつ
Yun-gang shi-ku

中国の仏教遺跡。シャンシー (山西) 省タートン (大同) 市西方 15kmにある雲崗の武州川沿い砂岩の断崖にある。大同市に近いので大同石窟ともいう。東西 1kmほどで,石窟の総数は 42。二つの谷を挟んで東方,中央,西方の3石窟群に分かれる

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デジタル大辞泉の解説

うんこう‐せっくつ〔ウンカウセキクツ〕【雲崗石窟】

中国、雲崗の武周川北岸の断崖にある仏教石窟寺院の遺跡。北魏(ほくぎ)時代の460年から約30年かけて造営されたもので、大小53窟、仏像5100体からなる。敦煌(とんこう)竜門の石窟とともに中国の代表的仏教石窟。2001年、世界遺産文化遺産)に登録された。大同石窟。

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百科事典マイペディアの解説

雲崗石窟【うんこうせっくつ】

雲岡石窟

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世界遺産詳解の解説

うんこうせっくつ【雲崗石窟】

2001年に登録された世界遺産(文化遺産)。中国山西省大同市西方16kmの武周山の麓を流れる武周川の断崖に、東西1kmにわたって造られた252窟からなる石窟寺院群である。この石窟寺院群は当時、霊巌寺と呼ばれていた。現在では石仏寺あるいは大同石窟とも呼ばれている。雲崗の石窟寺院群は、北魏(386~534年)の沙門統である曇曜が文成帝に上奏して、その裁可を受け、460年頃に建設が始められたものである。石窟の建設は、孝文帝が大同から洛陽に遷都した494年頃まで続けられ、その後の石窟寺院の造営は、河南省洛陽市の南郊にある龍門石窟(世界遺産)に引き継がれた。雲崗石窟のうち最も古く、その代表とされているものが、北魏初代皇帝道武帝を模して造られた釈迦坐像(第20窟)がある曇曜五窟(第16~第20窟。北魏の皇帝5人を模した5体の大仏がある)である。この曇曜五窟の仏像は、ガンダーラグプタ朝の様式の影響が色濃く残っており、ガンダーラ美術の伝播を伝える重要な史跡である。雲崗石窟の最大の石窟は高さ25m、幅42mの第3窟である。この雲崗石窟は1902年、東京の築地本願寺の設計者として知られる、日本人建築史学者の伊東忠太(東京帝国大学工科大学助教授)によって発見され、一躍注目を集める存在になった。◇英名はYungang Grottoes。ユンガンシークーともいう。

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大辞林 第三版の解説

うんこうせっくつ【雲崗石窟】

雲崗にある中国北魏ほくぎ時代の石窟寺院。東西約1キロメートルにわたり、五三窟に五万一千体の仏像が現存。造営は北魏の滅亡後も唐代まで続いた。竜門・敦煌とんこうとならぶ石窟寺院跡。

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世界の観光地名がわかる事典の解説

うんこうせっくつ【雲崗石窟】

中国の山西省北部、大同(ダートン)市の西郊約20kmにある石窟寺院。世界遺産(文化遺産)に登録されている。北巍の文成帝の時代の453年に、王都が置かれた大同近郊の武周川(桑乾河の支流)の断崖に、僧曇曜が石窟を開削したことを始まりとして、寺院が形成された。今日、東西1kmの断崖にわたって、約40の石窟寺院が残っている。初期の石窟の代表が「曇曜五窟」で、ガンダーラやグプタ朝様式の影響が色濃く残る石仏がある。北巍の洛陽遷都(せんと)により、石窟の建設は下火になり、洛陽(河南省)郊外の龍門石窟に引き継がれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

雲崗石窟
うんこうせっくつ

中国、山西(さんせい/シャンシー)省大同(だいどう/タートン)の西15キロメートル、武州川の北岸の断崖(だんがい)につくられた北魏(ほくぎ)の石窟寺院。2001年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。石窟の全長は約1キロメートル。敦煌(とんこう)石窟、竜門石窟とともに三大石窟と称され、大同石仏としても知られている。大小53窟あり、東方石窟群(第1~第4洞)、中央石窟群(第5~第13洞)、西方石窟群(第14~第53洞)の3部分に分かれている。雲崗石窟の開削は460年、沙門統(しゃもんとう)曇曜(どんよう)が時の皇帝文成帝に石窟5所を営みたいと奏上したのに始まる。この最初期の5窟(第16~第20洞)が完成したのは465年ごろで、これを曇曜五窟とよぶ。それぞれの石窟内部に十数メートルもある本尊像が立ち並ぶさまはまことに壮観で、これを取り巻く仏、菩薩(ぼさつ)、天人などの群像は、いずれも素朴で力強い作風を示し、遊牧部族だった北魏の拓跋(たくばつ)族のたくましいエネルギーを感じさせる。太武帝の時代に厳しい仏教弾圧を経験した直後だけに、仏教を永遠不滅なものにしたいという願いがここに凝集したかのようである。文成帝が崩ずると、13歳の献文帝が立ち、ついで5歳の孝文帝が即位するが、政治の実権は文成の皇后、馮太后(ふうたいごう)の手に握られていた。彼女は熱烈な仏教信者で、側近の元老たちも仏教に熱心だったから、北魏の仏教は繁栄の一途をたどった。雲崗石窟の造営も活発を極め、第7洞、第8洞、第5洞、第6洞など中央の石窟群が完成すると、石窟の造営は東方へ、さらに西方へと広がっていった。涼州出身の僧である曇曜は480年代まで、20年余も沙門統の地位にあって活躍したが、彼の率いる北涼系の工人集団が、石窟の造営、仏像の制作などの主流を占めていたものと考えられる。雲崗の仏像様式が西方の影響を強く受けていることは、シバやビシュヌ神のようなインドの神々、牛や金翅鳥(ガルダ)にのる多面多臂(たひ)像の存在によって明らかだが、釈尊(しゃくそん)の生涯を描いた仏伝(ぶつでん)図、その前生の物語・本生(ほんしょう)図をはじめ、盧遮那仏(るしゃなぶつ)、阿弥陀仏(あみだぶつ)、多宝仏、弥勒(みろく)菩薩、観音(かんのん)菩薩、維摩(ゆいま)、文珠(もんじゅ)など造像の種類も豊富。創建当初は極彩色に輝いていたが、今日残る彩色は近世の補修である。水野清一、長広敏雄(としお)らが1938年(昭和13)から1944年まで実施した現地調査に基づく報告書『雲崗石窟』全16巻(1951~1956・京都大学人文科学研究所)がある。[吉村 怜]
『雲崗石窟文物保管所編『中国石窟 雲崗石窟』全2巻(1989~1990・平凡社)』

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