詩人。明治39年12月10日長崎県諫早(いさはや)生まれ。京都帝国大学国文科卒業後、大阪府立住吉(すみよし)中学に就職。第二次世界大戦後、阿倍野(あべの)高校に転勤するが、教員生活は生涯にわたる。詩作は大学卒業のころより始める。日本古典への精通と、リルケやヘルダーリンへの傾倒が、彼の詩風に強く影響している。同人誌『呂(ろ)』に載せた詩が保田与重郎(やすだよじゅうろう)に注目され、1933年(昭和8)『コギト』に招かれる。続いて『日本浪曼派』同人となり、処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』(1935)を出版、その硬質で清新な詩風により、詩人としての地位を確立する。41年、『四季』同人となり、『夏花』(1940)により北村透谷(とうこく)賞を受ける。第三詩集『春のいそぎ』(1943)では日本的叙情への回帰が色濃く認められる。第二次大戦後、第四詩集『反響』(1947)を出版するが、やがて肺結核に冒され、3年余の闘病生活ののち昭和28年3月12日死去。
[高橋広満]
『林富士馬編・注『伊東静雄詩集』(旺文社文庫)』▽『『定本伊東静雄全集』全1巻(1971・人文書院)』▽『富士正晴編『伊東静雄研究』(1971・思潮社)』
昭和期の詩人
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
昭和期の詩人。長崎県の生れ。京都帝大国文学科卒業後,大阪府立住吉中学に就職,第2次大戦後,府立阿倍野高校に移り,生涯,一教師として陋巷(ろうこう)にあった。旧制佐賀高校時代から歌作していたが,しだいにリルケ,ケストナー,ヘルダーリン,《古今和歌集》などに関心を寄せ,詩作に入る。1932年,同人雑誌《呂》を出し,ついで保田与重郎らの《コギト》に加わり,さらにその後《日本浪曼派》《四季》の同人となった。35年,孤高反俗の精神を盛った第1詩集《わがひとに与ふる哀歌》を刊行。保田,萩原朔太郎らの激賞を受け,文芸汎論賞を受賞した。北村透谷賞受賞の第2詩集《夏花》(1940)で,一転して観照的詩風を確立,第3詩集《春のいそぎ》(1943)では戦時下の庶民の心情をこまやかに歌い,第4詩集《反響》(1947)では敬虔(けいけん)に人生に対する姿勢を平明に表現した。49年肺結核を発病,闘病も及ばず53年没した。
執筆者:飛高 隆夫
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…茅野蕭々(1883‐1946)の《リルケ詩抄》(1927)は名訳の評判が高く,堀辰雄や立原道造をリルケの世界に近づけた。ヘルダーリンに心酔した伊東静雄を含め,日本浪曼派はドイツ文学から深い影響をうけているが,その一方,生田春月の訳編になる《ハイネ詩集》(1917)の意義も特筆に値しよう。中野重治や舟木重信のハイネ研究に受け継がれて,革命詩人としてのハイネのイメージが早くから築かれたからである。…
※「伊東静雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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