伊福吉部徳足比売墓跡(読み)いふきべのとこたりひめのはかあと

日本歴史地名大系 「伊福吉部徳足比売墓跡」の解説

伊福吉部徳足比売墓跡
いふきべのとこたりひめのはかあと

[現在地名]国府町宮下

宮下みやのした集落北東岩常いわつね山の中腹に位置する。伊福吉部氏は伊福部氏・五百木部氏とも記され、イホキベともよばれる古代因幡国の豪族で、徳足比売は文武天皇のときに宮廷に仕え、慶雲四年(七〇七)従七位下を与えられた人物。稜線に沿って長方形の土壙が掘られ、底部には粘土が敷かれており、その上に花崗岩の台石(長さ一・四〇メートル、幅〇・八六メートル、厚さ〇・四七メートル)と、これと同大の蓋石(長さ一・五メートル、幅〇・七六メートル、厚さ〇・四五メートル)が置かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「伊福吉部徳足比売墓跡」の解説

いふきべとこたりひめのはかあと【伊福吉部徳足比売墓跡】


鳥取県鳥取市国府町にある墓跡。文武(もんむ)天皇に仕えた、古代因幡(いなば)国の豪族伊福吉部氏の娘、徳足比売の墓跡である。1774年(安永3)、稲葉山の中腹から鋳銅製骨蔵器を納めた石櫃(せきひつ)が発見された。発見当時、骨蔵器には遺灰のようなものがあったと伝えられている。扁平な蓋付きの骨蔵器は口径約26cm、高さ約16cm、蓋には徳足比売の生涯と葬送の経緯が16行108文字で刻まれていた。これにより、徳足比売は采女(うねめ)(女官)として707年(慶雲4)に従七位下を賜ったが、708年(和銅1)7月に藤原京で亡くなり、約2年半の殯(もがり)ののち、当時流行りはじめた火葬にふされ、710年(和銅3)11月にこの地に埋葬されたことが判明した。遺構遺物などから律令制一端がうかがえ、8世紀の墓制の変遷を知るうえで貴重な存在であることから、1924年(大正13)に国の史跡にしていされた。刻銘は因幡国に残る最古の文字であり、骨蔵器は重要文化財に指定され、東京国立博物館に保管されている。現在、墓跡は屋根で覆われ、公開されている。JR山陰本線鳥取駅から日ノ丸バス「国府(こう)町総合支所前」下車、徒歩約30分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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