改訂新版 世界大百科事典 「伊能図」の意味・わかりやすい解説
伊能図 (いのうず)
伊能忠敬を中心とする伊能(測量)隊が,1800-16年(寛政12-文化13)に,幕府の事業として日本全国を測量して作成した日本で最初の近代科学的地図。忠敬は測量成果の集大成の途中,全国図完成前に死去したが,彼の死後は高橋景保の監督下で作成され,1821年(文政4)に完成した。大図(1里を3寸6分で表現し,縮尺にして1/3万6000,214枚),中図(1里を6分,縮尺1/21万6000,8枚),小図(1里を3分,縮尺1/43万2000,3枚)からなり,すべて手書きの彩色地図で,〈大日本沿海実測全図(実測輿地全図)〉と総称される。道線法を主体に,無数の交会法を加味した測量法により,さらに緯度の測定を天文観測により行って作成されており,地図の内容は京都を通る経線を0°とし,海岸線とおもな街道およびこれらに沿う町村名などが精密に記されている。また遠方の山頂や島などを諸地点から望んだ方位線が朱色で記入され,地図に美しさを添えている。しかしこれらの地図は秘図として幕府に蔵され,一般には公開されなかった。なお,伊能全国図にはほかに特小図(縮尺1/86万4000)もある。これは未測量の九州以外について忠敬の測量結果を用い,在来の種々の国絵図を参考にして高橋景保が1809年(文化6)編修したものであり,〈日本輿地図藁(仮製日本輿地全図)〉と呼ばれる。
1829年(文政12),シーボルトが帰国する際,その所持品の中に伊能特小図の写しがあることが発覚して,この地図を与えた高橋景保は捕らえられて翌年獄死した。しかしシーボルトはこの図が押収されることを予知し,徹夜で写してバタビアへ送った。シーボルトは1840年(天保11)にオランダで《日本国地図》を刊行したが,縮尺が小さくて実用性に乏しいのであまり評判にはならなかった。江戸条約に基づき,61年(文久1)にイギリス海軍からアクテオンActaeon号を主艦とする測量艦隊が来日したが,隊長は幕府から派遣された案内役人が持っていた伊能小図を見てその正確なのに驚き,その写しをもらって沿海測量をやめ,近海の測深だけを実施して帰った。63年にイギリス海軍水路部では《日本付近沿海図》(メルカトル図法)を刊行し,これによって日本列島の正しい状態が世界に広く知られた。明治になって伊能図を基本とした地図が幾種類か刊行され,84年陸軍参謀本部測量局では伊能中図を主体とし,未測の部分は他の資料で補い,輯製1/20万図の編集を始め,これは明治年代の代表的地図として一般社会に広く利用されたのみならず,大正年代までその生命を保った。伊能図は1873年の皇居炎上によって全部が焼失した。そこで伊能家では控図(副本)を献上したが,保管を委託されていた東京帝国大学付属図書館が関東大震災で焼けてこれも失われた。ために大・中・小図全部がそろったものは現存しない。ただ忠敬の測量に際し,世話になった大名に贈ったものが少数残っており,なかでも東京国立博物館蔵の伊能中図一そろいはその代表である。そのほかに写図も全国に点々と存在する。
執筆者:保柳 睦美
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