中国において諸国間で同盟を結ぶために行う儀礼。とくに春秋戦国時代の諸侯国の間でさかんに行われた。その儀礼は,各国の代表者は所定の場所に会合すると,犠牲の牛を殺して耳を切り,その血をすすって互いの約束の条項を神に告げて誓い,それを書類(載書という)にして犠牲の血とともに地に埋めるのである。周の東遷以後になると東周王朝の勢力は急速に弱まり,蛮夷の侵入を防いだり,諸侯を統制して封建的秩序を維持する力はなかった。そこで諸侯の実力者が盟主となり,彼の指導のもとに会盟して共同防衛と秩序維持をはかった。春秋時代,会盟の盟主となることが覇者の必須条件で,斉の桓公は〈癸丘(ききゆう)の会〉で,晋の文公は〈践土(せんど)の盟〉で,それぞれ覇者の地位を確立した。七つの領土国家に整理された戦国時代になると,会盟は主に強国秦に対する攻守同盟であった。東周時代を通じて会盟は国際外交の舞台であり,賢相や大臣,学者らの雄弁がはなやかに展開された。なお,いわゆる城下の盟も会盟であり,無条件で降服開城することをいう。
→侯馬盟書 →五覇
執筆者:永田 英正
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中国で、おもに諸侯間または国家間で行われた会礼(会)と、それに伴う盟約、またはその締結の儀式(盟)をいう。周代より邑(ゆう)や国の間の紛争解決の場であったが、春秋時代に周室の権威が衰えると、多くは諸侯自身、ときに卿(けい)、大夫(たいふ)が参加して、諸侯間で盛んに行われた。盟約の内容は広範囲にわたり、とくに覇者によって主導される場合には、その私意を合法的形式で盟約化させる場として利用されることもあった。しかし、周室の衰えのなかで、諸侯間の秩序維持に会盟が果たした役割は無視することはできない。秦(しん)・漢以後、会盟のこうした役割は失われたが、唐・宋(そう)代にも異民族との間で会盟が行われているように、その伝統は後世まで受け継がれた。
[安倍道子]
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…しかし前7世紀初になると鄭は衰え,かわって斉が力を持ち,その桓公(在位,前685‐前643)は,北方の蛮族のために国を奪われた邢(河北省邢台市)と衛の2国を再興させ,また南方から蔡,鄭などに侵入した楚を撃退し,前651年に諸侯を葵丘(河南省考城県)に会し,周王を中心として団結し,秩序維持に努めることを誓った。諸侯が集って誓いをすることを会盟という。諸侯の再興や会盟は本来は周王の任務であり権利であったが,この時期の周王にはその力がなく,有力な諸侯が王にかわって行った。…
…兵器もまた青銅製から鉄製に進むことによって大量使用が可能となる一方,弩(いしゆみ)のような強力な武器の発明や,攻城あるいは防御のための種々の兵器が開発されて,戦争による被害の規模も拡大していった。春秋時代からしばしば行われる諸国間の使節派遣や会盟,会盟によって取り決められる国際協定や,その交渉を通じて確立されていく国際慣行や外交儀礼などは,それを遵守し尊重することによって無用な戦争を回避し減少させる効果があったし,また戦争において活躍する武将よりも,教養を備え,洗練されたマナーをもって外交交渉に長じた政治家や弁論家(やがて蘇秦,張儀などの縦横家と呼ばれる人々)の地位を高めることになった。また《孫子》や《呉子》などの兵家の書(兵書)においても,兵法の極意は戦いに勝つことよりも,戦わずして勝つことの探究にありとし,戦術よりも戦略を重視する傾向があった。…
※「会盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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