デジタル大辞泉 「周」の意味・読み・例文・類語
しゅう〔シウ〕【周】
[接尾]助数詞。あるもののまわりをまわる回数を数えるのに用いる。「トラックを三
[類語]周辺・周囲・周縁・ぐるり・周回・外周・辺り・近辺・四辺・四方・四囲・四面・八方・まわり・近く・付近・
しゅう【周】[中国の王朝]
唐の則天武后が建てた王朝。武周。→
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中国古代の王朝名,またこの王朝が存立した時代,文化の名にも使用する。前1050?-前256年。《史記》によると,尭帝の農官であった后稷(こうしよく)が始祖とされる。后稷の15世後の子孫の武王が,前1050年ころ殷王帝辛(紂王)を牧野(河南省淇県)で破り,殷を倒して,王朝を創設した。この王朝は前771年に一度滅び,前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され,前256年第37代赧王(たんおう)のとき秦によって完全に滅ぼされる。前771年を界として,それ以前は,都が西の西安西郊にあったので西周時代,以後は都が東にうつったので東周時代(春秋戦国時代ともいう)とよぶ。周が王朝としての実力を保持していたのは西周時代であり,本項ではこの時代について述べる。
周の始祖后稷が尭の農官であったというのは伝説にすぎないが,その后稷は〈穀物の君〉という意味で,周が農耕に強い関心をもつ部族であったことを示している。その歴史が明確になるのは,12世後の古公亶父(たんぽ)のときからである。それ以前殷後期の初め前1300年ころから,周の名が殷の卜辞にあらわれ,殷の勢力下の地方国家であったことがわかる。前1200-前1150年ころ,古公亶父は,殷の勢力におされた山西省中部の蛮族の圧迫を受け,故郷(山西省南部)を去って,陝西省中部の岐山の麓の周原に移住し,陝西東部にいた羌(きよう)族と連合して,しだいに力を増大した。子の王季は殷第28代の文丁から西の方伯(西方の実力者)と認められたが,のち文丁に殺されたと伝えられる。
次の文王のとき,しだいに力を東に伸ばし,河南西部までその影響下に収め,都を周原から酆(ほう)(西安市西)にうつし,王朝の基礎を築く。子の武王は都をさらに東の鎬(こう)(西安市西郊)にうつすとともに,東進に努め,前1050年ころ殷を滅ぼして王朝を建てた。武王は東方支配のために洛邑(洛陽市西郊)を建設しようとして果たさず,鎬京に帰還して数年後に死亡した。位を継いだ成王が幼少のため,叔父の周公旦(武王弟)が一時政治を行ったが,殷の監視のため東方に派遣されていた管叔(武王弟)らが,周公が王位を奪うと疑って反乱を起こし,これに殷の旧領を支配していた紂王の子の武庚が加担し,大動乱が起きた。周公は成王の命を受けてこれを鎮圧し,殷の残存勢力を一掃して,周の支配を確立した。洛邑を建設して成周とよんで東方支配の拠点とし,西の都を宗周と称した。各地に一族や功臣の有力者を封建して諸侯とし,土地と民とを支配させ,周王は諸侯を統制することによって東方を支配しようとし,周公旦の子伯禽を魯(山東省曲阜県)に,召公奭(しようこうせき)(武王弟)の子(弟ともいわれる)を燕(北京市西郊)に,康叔(武王弟)を衛(河南省淇県)に,功臣太公望呂尚を斉(山東省臨淄(りんし)県)に封じるなどした。これが周の封建制度である。
この諸侯封建は,周勢力の東進につれ順次行われたものであるが,第4代昭王のときになると,東・南方の夷とよぶ部族がしだいに強力となり,周の東南進出は停止し,昭王も南征の途次死んだという伝説すらある。第5代穆王(ぼくおう)のときに一時西北に進出したが,以後周の勢力は宗周と成周を結ぶ地域に限定され,衰退しはじめる。第6代共王の前後から,王朝内部で貴族層の再編成が行われた。これは外への進出が不可能になり,限られた地域内で貴族層の地位と秩序を維持するためであった。同時に王朝内における儀礼が整備されたが,これはこの秩序維持のための一つの方策であった。一方共王以降の青銅器銘文には,貴族間での土地・民の売買,それにともなう訴訟が頻発するようになる。これは封建制度をはじめ,周の政治を否定することに結びつくもので,周王の統制力が弛緩したことを示すものであった。さらに,東・南への進出が停止したため,新しい土地を臣下に与えることが不可能になった周王は,王直轄領内の土地や民の管理を臣下に任命することによって,収益を手に入れることを認めた。これは王室の収入を減少させたばかりでなく,ときに直轄領の一部が貴族の世襲的支配を受けることになり,王室を弱体化させた。
そのため第10代厲王(れいおう)は,栄夷公を卿士として,王室収入の回復を図ったが,これに反対する貴族層に追われ,前841年に彘(てい)(山西省霍県)に亡命し,14年後彘で死亡した。この亡命期間,有力貴族であった共伯和が政治を代行した(共和)。厲王の死後,子の宣王が即位し,一時王室の力を再興し,南進を企て,北方の蛮族の南下を阻止したが,王権の強化を急ぎ,再び貴族の不信を招いた。次の幽王は失政が多く,そのうえ,申皇后と太子宜臼を廃して,愛妾褒姒(ほうじ)を皇后,その子伯服を太子にしたため,前771年内乱が起き,その機に南下した北の犬戎によって幽王は殺され,周王朝は滅亡した。もとの太子宜臼は東の成周に逃れ,前770年即位して平王となった。以後東周時代(春秋戦国時代)となり,周王室の力は失われる。
周の文化の基盤が殷の文化と同じか異なるかについて,従来は異なるとする意見が強かったが,最近の考古発掘の結果,周の文化は殷のそれを基盤とすることが明らかになった。周原移住前の周は山西南部にいたが,その故郷は陝西北部とする説もあり,最終的な結論は得られていない。しかし山西南部は殷前期より殷文化が濃厚に分布した地域であり,陝西北部も殷中期には確実に殷の文化圏に含まれ,殷中期の青銅器が各地で発見され,またその陶器も殷と同じであった。したがっていずれの説をとるにしても,周の文化は殷文化を基盤とするものであった。西周前期においても,陶器も青銅器も殷を継承し,厳密な区別はつけがたい。青銅器の銘文の文字や語法,あるいは最近陝西省岐山県一帯で発見された文王から昭王期に至る甲骨文の字体,語法も基本的には殷後期と同じである。ただ,周前期には,銘文がしだいに長文になるとともに,1ヵ月を月相によって四分する語があらわれる。また青銅器では方座をもった簋(き)が造られ,兵器の戈が力学的により有効なものに改良されるなどの変化も見られる。周前期の文化圏は,北,南とも殷よりやや拡大する。
前950年ころの第4代昭王のときから中期になる。青銅器では,酒器が減少し,種類の多様性も失われはじめる。また文様では殷から前期にかけ主流を占めた饕餮文(とうてつもん)が壊れ,夔鳳文(きほうもん)が多くなり,山形文,鱗文など新しいものが出現する。酒器の減少は祭祀儀礼の,文様の変化は霊魂観念の変化が起きたことを示すが,その具体的な点は明らかでない。第5代穆王のころには周文化は縮小しはじめる。この縮小が文化に与えた具体的な影響は明らかでないが,青銅器などが変化に乏しくなることは,時代精神に柔軟性が失われたことを示している。王朝の政治的儀礼の整備もその表れと考えることができる。前890年ころ,第9代夷王から後期となる。青銅器では,壺以外の酒器はほとんどなくなり,食器である鼎と簋が中心となり,同形・同銘文の器が一時に多数造られる。文様では夔鳳文も消失し,山形文,鱗文などが主流となり,末期には蟠螭文(ばんちもん)など新傾向があらわれるが,器形,文様とも鈍重生硬で,美しさが失われる。銘文は長文が多いが,内容は自己一族の幸福を祈るものが多く,また文字も乱雑になるのは,時代の混乱を反映している。第10代厲王以後の政治的社会的混乱のため,貴族や青銅器鋳造などの技術者が東方に流出し,山東などでも宗周,成周と同じような青銅器が再び造られるようになる。
政治組織は,内服(周王直轄領)と外服(諸侯領地域)に分かれる。内服の行政は司土(司徒),司馬,司工(司空)の三官が掌握し,司土は土地,司馬は軍事,司工は租税,労働力など民力を管理した。内服の地域は陝西中部渭河流域から成周を結ぶ黄河両岸流域で,その内部周辺には王室の一族や貴族などの小領主が配置され,小領主領内の行政も三官の監督を受けた。また宗周と成周には王の直轄する西六師と殷八師(成周八師ともよぶ)がそれぞれ配置された。西六師は周の同族の自作農から,殷八師は周に服従した殷の農民から構成され,戦時に徴集された。租税は兵役義務のない周辺農民や商人,手工業者などから徴収された。小領主は王朝の官職を分担したり,領民を率いて従軍する義務を負った。しかし,農民と土地との関係,租税徴収の具体的な方法,小領主の土地・農民支配の方法などは明らかでない。ただ領主間での土地・農民の譲渡・訴訟などはすべて王朝の三官によって確認され記録される必要があった。
外服には魯,衛,斉などの有力な大諸侯が封建され,それぞれ領民と土地とを支配することが許された。この封建制度は古典に漠然と伝えられるのみであったが,最近出土した青銅器銘文によって,具体的に確認された。諸侯領内も,王朝の内服・外服に類似した制度によって治められたと考えられる。諸侯は王室に朝貢し,祭祀に参加して任服や経費を分担し,遠征に従軍するなどの義務を負った。大諸侯領以外の外服の被征服民も,従来の部族組織を維持しながら,一定の朝貢や労役などの人員の派遣を義務づけられ,王朝から派遣された役人の監督を受けたようである。これら外服からの朝貢などは成周に集められ,そののち宗周に送られた。しかし西周後期になると,朝貢などが停滞したことが,銘文に記録されているし,遠方の大諸侯と王室との関係も疎遠となった。一方,内服内においても,王が近侍の臣や貴族を恣意的に官職に任命したため,行政組織が崩れ,三官の地位も低下し,王朝の支配力を衰退させた。兵制でも六師や八師の力が失われ,貴族の私兵に頼らざるをえなくなった。これも直轄地農民に対する王室の統制が弱まり,貴族がその農民をしだいに支配下に入れるようになって,兵制の基本が崩壊したためである。なお当時の経済の中心は殷と同じく農業にあり,耕作法なども変化はないが,王室による治水工事などが行われたことが記録されている。また商業・手工業者のなかには,その商品売買によって土地を入手し,貴族層に加わるものが現れた。
→殷周美術 →春秋戦国時代
執筆者:伊藤 道治
中国,南北朝時代の北朝の王朝。557-581年。北周,宇文周ともいい,長安を首都とした。西魏の実力者宇文泰が病没すると,魏周革命が遂行されて,宇文泰の子の宇文覚が即位した(孝閔帝)。しかし実権は宇文泰の甥で宇文泰の遺嘱を受けた宇文護の手に握られた。宇文護は軍事と行政を独裁し,西魏以来の元勲を殺すなど宇文氏政権の確立に努めたが,他方では宇文覚を殺して宇文泰の庶長子宇文毓(いく)(明帝)を立てるなど,自己の地位の保持に努めた。572年(建徳1)第3代の武帝邕(よう)が宇文護を誅して,ようやく皇帝親政が実現した。周は,古代の周に回帰しようとした西魏の方針を継承し,六官の制を踏襲したほか,国名を周と定め,明帝朝の前半までは皇帝を名のらず天王を称した。武帝のときになると中央集権への傾斜を強めた。廃仏政策を通じて皇帝の権威を高めるとともに,漢族民衆を大々的に募集して軍備増強をはかり,577年北斉を滅ぼして華北全土を統一した。第4代贇(いん)(宣帝)は極端な独裁君主で人心の離反を招き,その死後外戚の楊堅(隋の文帝)が幼帝(静帝衍)輔佐の立場を利用して政権を奪った。
→五胡十六国
執筆者:谷川 道雄
中国の唐代に,則天武后が建てた王朝。他の同名の王朝と区別して〈武周〉ともいう。690-705年。唐朝の高宗の皇后として,660年(顕慶5)以後,病弱の高宗に代わり朝政をとりしきっていた武后は高宗の没後も中宗,睿宗の皇太后ながら,皇帝さながらの政務を行った。生家の武氏の一族を重用しはじめ,洛陽を神都と改名して事実上の首都にした。中国上古の理想の世とされた周王朝の再現をスローガンとするとともに,時あたかも中国社会に広く受容されてきた仏教を大いに利用して王朝革命を行った。周代の正式の宮殿である明堂を建て周代の暦である周正を用い,また《大雲経》に付会した文章を作り,太后は弥勒仏の下生であると宣伝したあげく,国を周と号し,帝位に即いて聖神皇帝と称した。しかしわずか15年で病床の武則天は譲位に同意させられ,中宗が即位して,国号を唐に復した。この周王朝は,周公の政治の再来を意図し漢王朝を中断させた王莽(おうもう)の新王朝と似た点が多い。
執筆者:礪波 護
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中国古代の王朝。周は西周時代(前11世紀~前771)と、東周時代(前771~前249)とに分けられるが、東周時代はほぼ春秋戦国時代にあたる。本項は西周を述べる。
[宇都木章]
伝説によると、周の始祖は帝堯(ぎょう)に仕えた后稷(こうしょく)であるという。その後、周族は戎狄(じゅうてき)の間に雑居し、公劉(こうりゅう)のときに豳(ひん)(山西あるいは陝西(せんせい)省)の地に居し、古公亶父(たんぽ)(太王)に至って陝西省の岐山(きざん)の地(周原)に国都を移した。これより次王季歴(きれき)(王季)の時期にかけて、周辺の諸部族を討って発展し、文王のときには西伯と称せられ、新都を豊(ほう)(陝西省西安)に営み、殷(いん)王朝と対抗する勢力をもった。次の武王は父の志を継ぎ、呂尚(りょしょう)(姜(きょう)姓族の首長)ら諸侯を従えて、紂王(ちゅうおう)を牧野(ぼくや)に討って殷を滅ぼし、鎬京(こうけい)(陝西省西安)を首都として周王朝を建てた(その時期は紀元前12世紀後半あるいは前11世紀後半)。考古学的調査によると、陝西省岐山県付近から、周初以来の遺跡、遺物が多く発見され、周初の歴史を物語る青銅器銘文もみつかっている。また宝鶏(ほうけい)県を中心に、「先周文化」とよばれる周族早期の文化の調査も行われている。さらに殷墟前期の武丁卜辞(ぶていぼくじ)のなかに「周方」の名がみえ、周は早くから殷の西方の「国」であったことが確かめられている。周都豊・鎬京の調査も進められ、現在ほぼその位置は明らかにされたが、城郭や王陵などは未発見である。
武王は、滅ぼした殷の遺民を支配するために、紂王の子、武庚禄父(ぶこうろくほ)を封建し、さらに兄弟を諸侯として征服民を監督せしめたが、次の成王が幼少で即位し、武王の弟周公旦(たん)が摂政になると、兄弟の間に権力争いが生じ、これに武庚の反乱が加わって周室は大きく乱れた。周公は召公奭(しょうこうせき)らとともに乱を平定し、さらに東方諸部族を遠征して周室を再建し、一族・功臣を要地に封建してこれを周の藩屏(はんぺい)とし、洛邑(らくゆう)(河南省河南)を造営して東方支配の重鎮とした(成周)。近年の考古学的調査によると、周初の発展はほとんど殷の故地を覆うものであり、ことに東北は遼寧(りょうねい)省に及んでいたことが、召公一族の封ぜられた燕(えん)(匽)国の青銅器の発見によって明らかになった。
周初の文化は殷文化を受け継いだものであることも明らかになったが、それはおそらく、殷代以来の諸部族が多く周王室に職事せしめられたからであろうといわれる。
4代昭王、5代穆(ぼく)王のときは周の対外発展期で、昭王は南征して楚(そ)を討ち、穆王は西に犬戎(けんじゅう)を征し、東に徐夷(じょい)を討ったという。7代懿(い)王から9代夷王にかけて王威が衰え始め、次の厲(れい)王のときには、王室を支えていた諸侯の勢力が盛んになったうえ、厲王は卿士栄夷(けいしえいい)公を用いて悪政を行ったため、国人の反乱が生じ、王は彘(てい)(山西省霍(かく)県)に出奔したという(前841)。その後14年間、共和時代になるが、これは周公と召公の執政期とする説、あるいは諸侯が協力して政治を行ったとする説のほか、共伯和という諸侯の執政期であるともいう。前827年宣王によって周室は再興され、王はしきりに四夷を討伐したというが、この時期、諸侯の強大化はますます進んで独立化の傾向を示し、次の幽王の悪政を契機に、諸侯は離反し、周は申侯と犬戎の軍によって滅ぼされた。幽王の子、平王は東の洛邑で即位したが、王権は衰退し、諸侯が割拠する分裂時代となった。
[宇都木章]
周代は邑(ゆう)制(邑土)国家の時代といわれる。王室の直接支配地(王畿(おうき))は「郷遂制度」を中心にして、郊外の地には卿大夫(けいたいふ)の采邑(さいゆう)や公邑が設置されていた。封建諸侯(貴族)は周王室を大宗(本家)として、それぞれの封地に城市(邑)を営み、これを国と称した。諸侯はこの国都を中心にして、周囲の諸邑を支配し、これを鄙邑(ひゆう)とした。国には宗廟(そうびょう)、社稷(しゃしょく)を奉ずる貴族(公、卿大夫)のほか士、農、工、商の民が住し、彼らは国人とよばれ、軍事、政治の面でも活躍していた。これに対し鄙邑の民は野人とよばれ、貴族の采邑とされたり、国都へのさまざまな義務を課せられたりした。国人も野人も血縁共同体的な集団をなしており、農民は「井田(せいでん)制」によって組織されていたと伝えられるが、しかし共同体の性格についても、「井田制」の理解についても異論が多く、したがって貢、助、徹とよばれる税制もさだかでない。西周後半期の青銅器銘文には貴族の土地所有を示すものがあるから、邑共同体を基盤にしつつ、大土地所有(私田)が展開されていたものと思われる。したがってこの邑制国家の時代が奴隷社会か、封建社会かは理解の仕方によって異なる。
[宇都木章]
周代の文化は経書によって伝えられている。とくに王の詔誥(しょうこう)を収めた『書経』や、王室の雅歌や各国の歌を集めた『詩経』は重要であるが、そこでは周王は「天命」を受けて、徳をもって万民を治めるという政治的色彩の強い天の思想が展開されている。一方、数多い青銅器銘文(金文)からは西周時代のさまざまな儀礼が物語られている。また考古学的な調査研究によって青銅礼器のほか武器、車馬具、玉器、漆器、織物など優れた遺品が明らかになり、宮殿建築や墓葬の状態も解明されつつある。近年渭水(いすい)流域から出土する多くの青銅器や岐山県の宮廟跡の周代卜辞、あるいは貴族大墓の発掘は人々の注目を集めている。
[宇都木章]
『貝塚茂樹・伊藤道治著『中国の歴史1 原始から春秋戦国』(1974・講談社)』▽『天野元之助著『中国社会経済史――殷周之部』(1979・開明書院)』▽『白川静著『金文の世界――殷周社会史』(平凡社・東洋文庫)』
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①西周・東周?~前256殷(いん)のあとを継いだ中国古代の王朝。周族はもと陝西(せんせい)北部,山西方面にいた遊牧民らしく,のち渭水(いすい)盆地に農耕定住して殷の支配を受けた。前11世紀頃文王のとき殷と対立し,その子武王は殷の紂王(ちゅうおう)を滅ぼし,鎬京(こうけい)を都とした。周は殷の文化を継承し,祭祀用の青銅器や金文を発達させたが,亀卜(きぼく)による神権政治から脱して,各征服地に血縁関係を持つ諸侯を封じ,礼秩序による政治体制をしき,勢力範囲は黄河流域から長江岸まで達した。前9世紀頃から諸侯の反抗が起こり,西・北方の非漢族の侵入が活発となった。犬戎(けんじゅう)は鎬京を攻略し,幽王が殺されたため,前770年平王(へいおう)は東都洛邑(らくゆう)に移って即位した。これ以前を西周,以後を東周と呼ぶ。以後周の王権は衰退し,諸侯が割拠興亡する分裂時代となった。西周の生産力は殷と大差なく,労働地代であったが,前6世紀頃から鉄製農具が普及して生産力が増すと,租税をはじめあらゆる面で氏族的社会秩序が崩れていき,強国の抗争,集権的統一国家の形成過程のなかで周は秦に滅ぼされた。
②〔北朝〕北周
③〔五代十国〕後周
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…しかし近来は文化人類学の研究成果から,天の崇拝は本来東アジアから中近東にかけての遊牧民族の信仰から生まれたとする説が有力になった。この線に沿って考えると,前12~前11世紀ごろ西北部に進入して新王朝を立てた周は,もともと遊牧部族であったと推定されるから,天の信仰はこの周の部族が中国に持ちこんだものと思われる。ただ周はまもなく農耕生活に移ったので,天の神も農業神の性格を持つようになったのであろう。…
…首都は長安(陝西省西安市)で副都が洛陽(河南省洛陽市)。王室の李氏が北周王室の宇文氏,隋王室の楊氏とともに,北魏が北辺に配置した6軍団の一つである武川鎮軍閥の出身であるという共通点をもっていたこともあり,唐の政治と制度には北周と隋のそれらを継承するものが多い。唐朝の国号は,李淵の祖父李虎が漢の太原郡にあたる唐国公の封爵を北周より受け,また李淵が隋より唐王に進封されたことに由来するという。…
…中国で,690年に唐の睿宗(えいそう)の生母である太后の武氏(則天武后)が,皇帝となって国号を周と改め,唐朝を中断させたことをいう。病弱の高宗に代わって政務を決裁してきた武后は,朝廷における実権を掌握してしまい,683年(弘道1)に高宗が亡くなると,武后の子である太子哲が即位して中宗となったが2ヵ月たらずで廃され,つぎに立った睿宗もまったくの傀儡(かいらい)にすぎなかった。…
※「周」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
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