平安前期の官人,書家。橘奈良麻呂の孫。その官歴はつまびらかではないが,804年(延暦23)最澄,空海らとともに遣唐使の一員として入唐し,帰国後従五位下に叙せられたが,病気で出仕できなかったといわれ,840年(承和7)但馬権守となった。唐では橘秀才とその書才を賞められたと伝えられ,官人としてよりも書家として名をはせた。842年嵯峨上皇が死の床にあったとき,伴健岑とともに皇太子恒貞親王を擁して東国に入り挙兵せんと謀ったとして,上皇の死後捕縛されたが罪状を認めず,拷問をうけ,非人として伊豆に遠流となった(承和の変)。しかし途中遠江国で病死した。のち850年(嘉祥3)に無実として正五位下に復され,3年後には従四位下を贈位された。863年(貞観5)の神泉苑での御霊会では6柱の一としてまつられた。
執筆者:佐藤 宗諄 平安前期の三筆の一人である逸勢は,《文徳実録》嘉祥3年条に〈尤も隷書に妙なり。宮門の榜に題す。手迹見に在り〉とあり,特に隷書に秀でていたとされ,勅を奉じて平安宮内裏北面の安嘉(あんか),偉鑒(いかん),達智(たつち)の三門の額を書いたという。また《伊都内親王願文》《興福寺南円堂銅灯台扉銘》および《三十帖冊子》中の一部も彼の筆跡と伝える。《伊都内親王願文》は興福寺東院西堂の香灯読経料として,墾田ほかを寄進した際の内親王の願文であるが,江戸時代の初期に藤木敦直(1582-1649)が逸勢の筆と称してから逸勢筆と伝えられるもので,特に根拠はない。《銅灯台扉銘》も撰文,筆者とも空海とし,あるいは撰文空海,筆者逸勢とも伝えるが,確証はまったくない。《三十帖冊子》は空海が持ち帰ったときは38帖あり,現在は32帖が伝えられるが,これらは20余名の経生に書写させたものとその請来目録に記されている。現に《三十帖冊子》にはいろいろな書風が混じっており,中には空海自筆と認められる部分もあるが,逸勢の筆と認められる部分はなく,その第29帖〈大方広菩薩蔵経〉中の〈文殊師利根本一字陀羅尼法〉が彼の筆とするのも近年唱えられた説で,特に確証あってのことではない。結局逸勢の書については,存命当時から能筆家として評価され,特に隷書に秀でたことが記録されるにとどまり,実際の書跡で確認することはできない。
執筆者:栗原 治夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安初期の官人で能書。奈良朝に権勢を誇った橘諸兄(もろえ)の曽孫(そうそん)。父は入居。804年(延暦23)遣唐使に随従して入唐(にっとう)、唐人たちに「橘秀才(きっしゅうさい)」とよばれた。806年(大同1)帰朝後は従(じゅ)五位下に叙されたが出仕はせず、840年(承和7)ようやく但馬権守(たじまのごんのかみ)となる。しかし842年、承和(じょうわ)の変によって捕らえられ、伊豆配流の途中、遠江(とおとうみ)板築(いたつき)の宿で非業の死を遂げた。8年後、許されて正五位下を、さらに従四位下を追贈された。能書として名を馳(は)せ、嵯峨(さが)天皇・空海とともに三筆に数えられ、内裏(だいり)の十二門のうち安嘉(あんか)・偉鑒(いかん)・達智(たっち)の三門の額を揮毫(きごう)したという。また「伊都内親王願文(いとないしんのうがんもん)」(御物)、「興福寺南円堂銅灯籠銘(なんえんどうどうとうろうのめい)」の筆者と伝称され、空海の「三十帖冊子(さっし)」の一部にも逸勢の筆跡があると伝える。いずれも確証はないが、とくに「伊都内親王願文」の雄渾(ゆうこん)な筆の跡は「放誕(ほうたん)、細節に拘(こだわ)らず」(続日本後紀(しょくにほんこうき))と形容された逸勢にふさわしい。
[尾下多美子]
(瀧浪貞子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
?~842.8.13
平安前期の官人。三筆(さんぴつ)の1人。入居の子。804年(延暦23)遣唐使に随行して空海・最澄らと入唐し,806年(大同元)帰朝。842年(承和9)承和の変の首謀者の1人として伊豆国に配流されるが,護送途中,遠江国板築駅で病死。850年(嘉祥3)正五位下を贈られ,都に改葬することを許される。853年(仁寿3)従四位下を追贈。御霊社の八祭神の1柱として祭られる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…平安初期の陰謀的な政治事件。842年(承和9)7月,嵯峨太上天皇葬儀の翌日,近衛府の兵により春宮坊帯刀の伴健岑(とものこわみね)と但馬権守橘逸勢(たちばなのはやなり)の私宅が囲まれ,健岑の同族も捕らえられた。平安京と京から地方へ向かう道の要衝5ヵ所を警固せよとの命令も発せられた。…
…御霊とは政治的に非業の死をとげた人々の怨霊をいい,それが疫病や地震・火災などをひきおこす原因とされたのである。このような御霊信仰の先例はすでに奈良時代にもみられ,僧玄昉(げんぼう)の死が反乱者である藤原広嗣の霊の祟りによるとされたが,平安時代に入ってからはとくに権力闘争に敗れた崇道(すどう)天皇(早良親王),伊予親王,橘逸勢(たちばなのはやなり)などの怨霊が御霊として恐れられ,863年(貞観5)にはその怒りと怨みを鎮めるための御霊会(ごりようえ)が神泉苑で行われた。また承和年間(834‐848)以降は物の怪の現象が文献に頻出するようになるが,これはやがて《源氏物語》などのような文学作品,《栄華物語》のような史書のなかでも大きくとりあげられるようになった。…
※「橘逸勢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加