橘逸勢(読み)タチバナノハヤナリ

デジタル大辞泉 「橘逸勢」の意味・読み・例文・類語

たちばな‐の‐はやなり【橘逸勢】

[?~842]平安初期の官人・能書家。奈良麻呂の孫。遣唐留学生として入唐。帰国後、承和の変に連座して捕らえられ、伊豆へ流される途中没した。三筆の一人であるが、真跡と断定できるものは残っていない。

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精選版 日本国語大辞典 「橘逸勢」の意味・読み・例文・類語

たちばな‐の‐はやなり【橘逸勢】

  1. 平安初期の能書家。空海、嵯峨天皇と共に三筆の一人。延暦二三年(八〇四)に遣唐使に従い入唐。帰国後但馬権守に任ぜられたが承和の変に連座し、伊豆配流の途中死去。筆跡と伝える御物「伊都内親王願文」がある。承和九年(八四二)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「橘逸勢」の意味・わかりやすい解説

橘逸勢 (たちばなのはやなり)
生没年:?-842(承和9)

平安前期の官人,書家。橘奈良麻呂の孫。その官歴はつまびらかではないが,804年(延暦23)最澄,空海らとともに遣唐使の一員として入唐し,帰国後従五位下に叙せられたが,病気で出仕できなかったといわれ,840年(承和7)但馬権守となった。唐では橘秀才とその書才を賞められたと伝えられ,官人としてよりも書家として名をはせた。842年嵯峨上皇が死の床にあったとき,伴健岑とともに皇太子恒貞親王を擁して東国に入り挙兵せんと謀ったとして,上皇の死後捕縛されたが罪状を認めず,拷問をうけ,非人として伊豆に遠流となった(承和の変)。しかし途中遠江国で病死した。のち850年(嘉祥3)に無実として正五位下に復され,3年後には従四位下を贈位された。863年(貞観5)の神泉苑での御霊会では6柱の一としてまつられた。
筆者 平安前期の三筆の一人である逸勢は,《文徳実録》嘉祥3年条に〈尤も隷書に妙なり。宮門の榜に題す。手迹見に在り〉とあり,特に隷書に秀でていたとされ,勅を奉じて平安宮内裏北面の安嘉(あんか),偉鑒いかん),達智(たつち)の三門の額を書いたという。また《伊都内親王願文》《興福寺南円堂銅灯台扉銘》および《三十帖冊子》中の一部も彼の筆跡と伝える。《伊都内親王願文》は興福寺東院西堂の香灯読経料として,墾田ほかを寄進した際の内親王の願文であるが,江戸時代の初期に藤木敦直(1582-1649)が逸勢の筆と称してから逸勢筆と伝えられるもので,特に根拠はない。《銅灯台扉銘》も撰文,筆者とも空海とし,あるいは撰文空海,筆者逸勢とも伝えるが,確証はまったくない。《三十帖冊子》は空海が持ち帰ったときは38帖あり,現在は32帖が伝えられるが,これらは20余名の経生に書写させたものとその請来目録に記されている。現に《三十帖冊子》にはいろいろな書風が混じっており,中には空海自筆と認められる部分もあるが,逸勢の筆と認められる部分はなく,その第29帖〈大方広菩薩蔵経〉中の〈文殊師利根本一字陀羅尼法〉が彼の筆とするのも近年唱えられた説で,特に確証あってのことではない。結局逸勢の書については,存命当時から能筆家として評価され,特に隷書に秀でたことが記録されるにとどまり,実際の書跡で確認することはできない。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「橘逸勢」の意味・わかりやすい解説

橘逸勢
たちばなのはやなり
(?―842)

平安初期の官人で能書。奈良朝に権勢を誇った橘諸兄(もろえ)の曽孫(そうそん)。父は入居。804年(延暦23)遣唐使に随従して入唐(にっとう)、唐人たちに「橘秀才(きっしゅうさい)」とよばれた。806年(大同1)帰朝後は従(じゅ)五位下に叙されたが出仕はせず、840年(承和7)ようやく但馬権守(たじまのごんのかみ)となる。しかし842年、承和(じょうわ)の変によって捕らえられ、伊豆配流の途中、遠江(とおとうみ)板築(いたつき)の宿で非業の死を遂げた。8年後、許されて正五位下を、さらに従四位下を追贈された。能書として名を馳(は)せ、嵯峨(さが)天皇・空海とともに三筆に数えられ、内裏(だいり)の十二門のうち安嘉(あんか)・偉鑒(いかん)・達智(たっち)の三門の額を揮毫(きごう)したという。また「伊都内親王願文(いとないしんのうがんもん)」(御物)、「興福寺南円堂銅灯籠銘(なんえんどうどうとうろうのめい)」の筆者と伝称され、空海の「三十帖冊子(さっし)」の一部にも逸勢の筆跡があると伝える。いずれも確証はないが、とくに「伊都内親王願文」の雄渾(ゆうこん)な筆の跡は「放誕(ほうたん)、細節に拘(こだわ)らず」(続日本後紀(しょくにほんこうき))と形容された逸勢にふさわしい。

[尾下多美子]

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朝日日本歴史人物事典 「橘逸勢」の解説

橘逸勢

没年:承和9.8.13(842.9.20)
生年:生年不詳
平安前期の官人。入居の子。奈良麻呂の孫。延暦23(804)年,最澄,空海らと共に留学生として入唐,その才能からかの地で橘秀才と称されたが,その分狷介な性格の持主であったようだ。2年後空海と共に帰国したあと従五位下に叙されたものの,老病を理由に出仕しなかったが,老病というほどの年齢であったとは思えない。承和9(842)年7月,皇太子恒貞親王を擁して東国入りを謀ったいわゆる承和の変では,伴健岑と共に首謀者とされたが(時に但馬権守),事件の真相は不詳。非人の姓を与えられて伊豆国への配流の途中,遠江国板築駅(静岡県三カ日町)で病没した。護送の役人に制止されながらも父のあとを追っていた娘は出家して妙沖と号し,父をその地に葬って供養したという。いま姫街道(東海道の脇街道)にある橘神社がそれと伝える。嘉祥3(850)年5月,橘嘉智子が没するとただちに正五位下を追贈され(3年後,従四位下),本郷への帰葬が許されており,嘉智子のこの事件へのかかわりや逸勢の無実が暗示されている。事件後怨霊として恐れられるようになったのもそれで,貞観5(863)年5月の神泉苑御霊会では早良親王らと共に慰撫の対象とされた。『橘逸勢伝』によれば,左京にあった邸宅(蛟松殿)跡の西に逸勢社があったというが,いまは「八所御霊」のひとつとして上,下御霊神社(京都市上京区,中京区)に祭られている。嵯峨天皇,空海と共に三筆と呼ばれた能書家で,平安宮門の扁額の多くを書いたと伝える。

(瀧浪貞子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「橘逸勢」の意味・わかりやすい解説

橘逸勢
たちばなのはやなり

[生]?
[没]承和9(842).8.13. 遠江
平安時代初期の官人,書家。入居 (いるいえ) の子,奈良麻呂の孫。延暦 23 (804) 年遣唐使に従って空海,最澄らと入唐。唐人から橘秀才と称賛された。帰国後,従五位下に叙せられ,承和7 (840) 年但馬権守となる。承和の変で捕えられ,本姓を除いて非人逸勢と呼ばれ,伊豆に流罪と決ったが護送の途中遠江で病死。のち嘉祥3 (850) 年罪を許された。空海,嵯峨天皇とともに三筆といわれる書道の名人で,隷書を最もよくし,平安京の大内裏の諸門の額の多くは彼の筆に成るといわれる。また御物で逸勢の書と伝えられる『伊都内親王願文』は,書道史上高い位置を占め,9世紀の逸品といえる。

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百科事典マイペディア 「橘逸勢」の意味・わかりやすい解説

橘逸勢【たちばなのはやなり】

平安初期の書家。三筆の一人。奈良麻呂の孫。804年遣唐使に従って入唐,のち但馬(たじま)権守となる。842年伴健岑(とものこわみね)の謀叛(むほん)に連座,伊豆に流罪の途中遠江(とおとうみ)国で没したと伝える。書名は高いが,真跡とされるものはない。
→関連項目三十帖冊子

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「橘逸勢」の解説

橘逸勢 たちばなの-はやなり

?-842 平安時代前期の官吏。
橘奈良麻呂の孫。橘入居(いりい)の子。延暦(えんりゃく)23年遣唐使にしたがって最澄,空海らとともに入唐(にっとう)。大同(だいどう)元年に帰国。承和(じょうわ)の変の首謀者とされ伊豆(いず)に流される途中,承和9年8月13日遠江(とおとうみ)(静岡県)板築駅(ほんつきのうまや)で没した。能書家で,空海,嵯峨(さが)天皇とともに三筆と称される。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「橘逸勢」の解説

橘逸勢
たちばなのはやなり

?~842.8.13

平安前期の官人。三筆(さんぴつ)の1人。入居の子。804年(延暦23)遣唐使に随行して空海・最澄らと入唐し,806年(大同元)帰朝。842年(承和9)承和の変の首謀者の1人として伊豆国に配流されるが,護送途中,遠江国板築駅で病死。850年(嘉祥3)正五位下を贈られ,都に改葬することを許される。853年(仁寿3)従四位下を追贈。御霊社の八祭神の1柱として祭られる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「橘逸勢」の解説

橘逸勢
たちばなのはやなり

?〜842
平安初期の貴族・能書家
奈良麻呂の孫。804年入唐。唐風の書をよくし,三筆の一人として有名。842年承和 (じようわ) の変に際し,皇太子恒貞親王を奉じて謀反をはかり捕らえられ,伊豆に流される途中,遠江 (とおとうみ) で病死した。

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世界大百科事典(旧版)内の橘逸勢の言及

【三筆】より

…日本の書道史上の3人の能筆家。平安初期の嵯峨天皇空海橘逸勢(はやなり)の3人を指す。3人を特に三筆と称するようになったのがいつごろか明らかでないが,そう古くにはさかのぼらない。…

【承和の変】より

…平安初期の陰謀的な政治事件。842年(承和9)7月,嵯峨太上天皇葬儀の翌日,近衛府の兵により春宮坊帯刀の伴健岑(とものこわみね)と但馬権守橘逸勢(たちばなのはやなり)の私宅が囲まれ,健岑の同族も捕らえられた。平安京と京から地方へ向かう道の要衝5ヵ所を警固せよとの命令も発せられた。…

【祟り】より

…御霊とは政治的に非業の死をとげた人々の怨霊をいい,それが疫病や地震・火災などをひきおこす原因とされたのである。このような御霊信仰の先例はすでに奈良時代にもみられ,僧玄昉(げんぼう)の死が反乱者である藤原広嗣の霊の祟りによるとされたが,平安時代に入ってからはとくに権力闘争に敗れた崇道(すどう)天皇(早良親王),伊予親王,橘逸勢(たちばなのはやなり)などの怨霊が御霊として恐れられ,863年(貞観5)にはその怒りと怨みを鎮めるための御霊会(ごりようえ)が神泉苑で行われた。また承和年間(834‐848)以降は物の怪の現象が文献に頻出するようになるが,これはやがて《源氏物語》などのような文学作品,《栄華物語》のような史書のなかでも大きくとりあげられるようになった。…

※「橘逸勢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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