住吉如慶(読み)すみよしじょけい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

住吉如慶
すみよしじょけい

[生]慶長4(1599)
[没]寛文10(1670).6.20. 江戸
江戸時代初期の住吉派画家土佐光吉・光則の門人と伝えられる。名は広通。京都から江戸に出て将軍家に仕え幕府の御用絵師をつとめた。寛文1 (1661) 年に出家して如慶の号を用い法眼に叙せられ,翌年に土佐派から分れて住吉家を興し住吉派の祖となる。主要作品『堀河夜討絵詞』 (東京国立博物館) ,『聖徳太子絵伝』 (広隆寺) など。

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百科事典マイペディアの解説

住吉如慶【すみよしじょけい】

江戸初期の画家。土佐光吉の子で光則の弟と言われるが不詳。名は広通。如慶は法名。1662年鎌倉時代の名手といわれた住吉慶忍の跡の復興を志して住吉姓を名のり,土佐派と並ぶ大和絵の一派である住吉派の祖となった。代表作《堀河夜討絵巻》。子は住吉具慶
→関連項目年中行事絵巻

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

住吉如慶 すみよし-じょけい

1599-1670 江戸時代前期の画家。
慶長4年生まれ。和泉(いずみ)(大阪府)堺の人。土佐光吉(みつよし),光則(みつのり)の門人で土佐広通と称した。土佐光起(みつおき)とともに内裏障壁画をえがく。寛文元年出家して法橋(ほっきょう)となり,2年後西天皇の命で住吉を姓とし,大和絵住吉派の祖とよばれる。寛文10年6月2日死去。72歳。通称は内記。作品に「堀川殿夜討絵巻」,「東照宮縁起絵巻」(住吉具慶(ぐけい)により完成)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

住吉如慶

没年:寛文10.6.2(1670.7.18)
生年:慶長4(1599)
江戸前期の画家。住吉派の祖。名は初め広道,のち広通。通称は内記。本姓高木。若くして土佐光吉の門に入り,続いて土佐光則に師事,土佐光陳と称した。承応3(1654)年狩野探幽指導の内裏障壁画制作に参加。寛文1(1661)年妙法院尭然法親王のもとで剃髪,如慶と号し,法橋に叙せられる。同2年後西天皇の勅によって鎌倉中期の画家住吉慶恩(慶忍)の画系を復興するため住吉氏を名乗った。代表作に「紀州東照宮縁起絵巻」(和歌山東照宮蔵),「源氏物語画帖」(サントリー美術館蔵),「伊勢物語絵巻」などがある。京都廬山寺および寛永寺護国院に葬られた。<参考文献>大村西崖編『東洋美術大観』5巻

(榊原悟)

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世界大百科事典 第2版の解説

すみよしじょけい【住吉如慶】

1599‐1670(慶長4‐寛文10)
江戸初期の画家。名は忠俊,のちに広通と改める。通称内記。土佐光吉の子で,光則の弟とも伝えるが,単に堺で光吉・光則父子に土佐画法を学んだ弟子であったと推測される。のち京都に移り1654年(承応3)から土佐光起とともに内裏障壁画を描く。61年(寛文1)に剃髪して如慶と号し,62年後西天皇の勅命により住吉を名のり住吉派の祖となる。如慶はまた,天海僧正の知遇を受け,江戸に下り幕府御用を勤め,この地方にやまと絵を流布する端緒をしるした。

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大辞林 第三版の解説

すみよしじょけい【住吉如慶】

1599~1670) 江戸前期の大和絵画家。土佐光吉の弟子。後水尾天皇の勅により住吉絵所を再興、土佐派から分かれて住吉派を興した。

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