佐伯今毛人 (さえきのいまえみし)
生没年:719-790(養老3-延暦9)
奈良時代の官人。佐伯人足の子。役民を統率して造営工事にあたる才能を有し,聖武天皇の東大寺造営に官人として活躍,747年(天平19)造寺司次官,755年(天平勝宝7)には五位で造東大寺長官となった。藤原仲麻呂(恵美押勝)の権力掌握後は長官の任を離れ,763年(天平宝字7)造東大寺長官に再任された直後には,藤原良継,石上宅嗣,大伴家持らと仲麻呂を除くことを企てて発覚,解官された。翌年営城監,ついで大宰大弍兼築怡土城専知官となり,筑前国怡土城の造営にたずさわった。767年(神護景雲1)には左大弁,造西大寺長官となり,称徳天皇の勅願である西大寺の造営にあたった。光仁天皇の770年(宝亀1)には三たび造東大寺長官となり,775年には遣唐大使となったが,病のため渡海せず,のち大宰大弍となった。桓武天皇の782年(延暦1)には左大弁兼大和守で従三位に叙せられ,784年,天皇の長岡京造営にあたって藤原種継らとともに造長岡宮使に任命され,同年参議に列した。その後民部卿,大宰帥を歴任,789年官を退き,翌790年正三位で没した。72歳。《東大寺要録》や《日本高僧伝要文抄》に引く《延暦僧録》によると,大仏造立の功により聖武天皇から〈東大居士〉と称され,誦経・写経を行うなど仏教に深く帰依したといい,兄真守(まもり)とともに平城京に氏寺としての佐伯院を建立した。
執筆者:笹山 晴生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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佐伯今毛人
さえきのいまえみし
(719―790)
奈良時代の官人。姓(かばね)は宿禰(すくね)。初めの名は若子(わくご)。名門佐伯氏の出で、右衛士督(うえじのかみ)、人足(ひとたり)の子。初め造甲賀宮司に勤めたことが縁となって東大寺の造営にあずかることとなった。748年(天平20)造東大寺次官に補され、この曠古(こうこ)の大事業の責任者として心血を注ぎ、752年(天平勝宝4)の大仏と大仏殿の開眼落慶供養(かいげんらっけいくよう)にこぎつけた。ついで造東大寺長官に進み、東大寺の七堂伽藍(がらん)を竣功(しゅんこう)させた。のち造西大寺長官、大宰大弐(だざいのだいに)、左大弁(さだいべん)、造長岡宮使、民部卿(みんぶきょう)などを歴任し、参議正三位(しょうさんみ)大宰帥(だざいのそち)に至った。その最大の功績は、27年間、東大寺の造営に専念し、世界最大の金銅仏と木造建造物の造営を完遂したことである。
[角田文衛]
『角田文衛著『佐伯今毛人』(1963・吉川弘文館)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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佐伯今毛人 さえきの-いまえみし
719-790 奈良時代の公卿(くぎょう)。
養老3年生まれ。佐伯人足(ひとたり)の子。佐伯真守(まもり)の弟。東大寺の造営にたずさわり,天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年造東大寺司長官となる。また造西大寺司長官,造長岡宮使なども歴任。遣唐大使に任じられたが病気のため渡航せず,のち参議,民部卿,大宰帥(だざいのそち)などをつとめた。正三位。延暦(えんりゃく)9年10月3日死去。72歳。初名は若子。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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佐伯今毛人
さえきのいまえみし
[生]養老3(719)
[没]延暦9(790).10.
奈良時代の廷臣。東大寺のほか西大寺,長岡宮造営に参加,延暦4 (785) 年正三位に進んだ。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の佐伯今毛人の言及
【怡土城】より
…唐の安禄山の乱が伝えられ,新羅の征討が計画される緊迫した状況の中で756年(天平勝宝8)に兵法家としても知られる大宰大弐吉備真備(きびのまきび)を専当として起工された。763年(天平宝字7)にほぼ成り,765年(天平神護1)には大弐佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を築怡土城専知官とし,768年(神護景雲2)に完成した。山頂から山麓にかけての西斜面に方15町(約1.6km),面積約284haという広大な城域を占め,現在までに4ヵ所の望楼跡をはじめ,土塁,城門,水門,礎石建物などの遺構が知られているが,構造的には朝鮮式山城である[大野城],[基肄(きい)城]とは異なり,大陸式山城とされる。…
※「佐伯今毛人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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