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(三輪英夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
江戸中期の洋風画家、第8代秋田藩主。幼名秀丸、初名義直(よしなお)、のちに次郎義敦(よしあつ)と改め、字(あざな)を大麓(だいろく)、号を曙山といった。幼くして狩野(かのう)派の絵をよくしたが、のちに南蘋(なんぴん)派の写生体も学び、1773年(安永2)平賀源内が秋田にきたとき、家臣小田野直武(なおたけ)らと西洋画法を学んだ。のち、おもに参勤のため江戸に出たとき、直武の導きにより西洋の銅版画や画法書を頼りに洋風画を描き、東洋画の題材に西洋画の視点の加わった作品を残して、秋田蘭画(らんが)の代表者となったが、短命であった。78年日本最初の西洋画論『画法綱領』と『画図理解』を書いた。
[成瀬不二雄]
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…小田野直武が杉田玄白訳《解体新書》(1774)の挿絵を担当したことは,それを象徴している。また,佐竹曙山が日本最初の西洋画論書《画法綱領》《画図理解》(ともに1778)を書いたように,この画派は陰影法や遠近法などの西洋画法を導入して,写実性に劣る日本絵画を改革しようとする意識をもっていた。画派としては長続きせず,作品も和洋折衷の域を出ないが,司馬江漢や長崎派の洋風画家に先立ち,それに影響を与えた画派として注目に値する。…
…江戸中期の秋田藩主,洋風画家。号は曙山。分家壱岐守家から父義明とともに佐竹宗家に入り,1758年(宝暦8)11歳で8代藩主となる。前代の銀札発行の失敗などが藩財政を圧迫し,加えて土崎湊・久保田,江戸屋敷,久保田(秋田)城の火災等が財政難に拍車をかけた。一方,農村は無符人高が増大し,さらに83年(天明3)の飢饉が荒廃の度を強めた。【国安 寛】 曙山は秋田蘭画の主要作家の一人であった。はじめ狩野派の絵をよくしたが,1773年(安永2)平賀源内が秋田藩を訪れて西洋画の知識を伝えたときから,家臣の小田野直武とともに洋風画に転向し,東洋画の主題に西洋画法を導入した作品を描いた。…
※「佐竹曙山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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