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佐竹曙山 さたけしょざん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

佐竹曙山
さたけしょざん

[生]寛延1(1748).閏10.4. 江戸
[没]天明5(1785).6.1. 江戸
江戸時代中期の秋田藩主,秋田蘭画の画家。本名は義直,のち義敦,号は曙山,秦領。生来病弱ながら英明で進取の気性に富み藩財政の立直しに尽力,その一環として領内に平賀源内を招き阿仁銅山の採掘増産を実施。

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デジタル大辞泉の解説

さたけ‐しょざん【佐竹曙山】

[1748~1785]江戸中期の洋風画家。秋田藩主。名は義敦(よしあつ)。家臣の小田野直武とともに平賀源内に西洋画法を学び、写実的な花鳥画・風景画を多く描いた。日本最初の西洋画論「画法綱領」などの著がある。

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百科事典マイペディアの解説

佐竹曙山【さたけしょざん】

江戸時代の8代秋田藩主,洋風画家。名は義敦。秋田派の中心的人物で,平賀源内に学んだ西洋画法に沈銓(しんせん)風の着彩法を応用して,雅致に富む花鳥画風景画を得意とした。
→関連項目小田野直武

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

佐竹曙山 さたけ-しょざん

佐竹義敦(さたけ-よしあつ)

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朝日日本歴史人物事典の解説

佐竹曙山

没年:天明5.6.1(1785.7.6)
生年:寛延1.閏10.4(1748.11.24)
江戸後期の洋風画家。秋田藩第8代藩主。7代藩主佐竹義明の嗣子として江戸に生まれる。名を義敦,字を大麓,号を曙山,孔雲。宝暦8(1758)年藩主となり,政務のかたわら絵に親しみ狩野派を学ぶが,早くから写生をよくした。安永2(1773)年領内の鉱山調査に平賀源内を招聘した際,源内に藩士小田野直武が西洋画法の啓示を受けたのを知り,直武を江戸詰とし源内の下で学ばせ,自らも直武に学んで共に和洋折衷の洋風画(秋田蘭画)を創出した。安永7年,わが国最初の西洋画論『画法綱領』『画図理解』を執筆する。作品に「松に唐鳥図」など。なお,28年におよぶ藩主としての治世は,藩財政の困窮期で,藩政改革に努めた。江戸で没した。

(三輪英夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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大辞林 第三版の解説

さたけしょざん【佐竹曙山】

1748~1785) 江戸中期の洋風画家。秋田藩主。名は義敦よしあつ。初め狩野派の絵をよくしたが、平賀源内に西洋画の知識を受け転向。花鳥画や風景画にすぐれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

佐竹曙山
さたけしょざん
(1748―1785)

江戸中期の洋風画家、第8代秋田藩主。幼名秀丸、初名義直(よしなお)、のちに次郎義敦(よしあつ)と改め、字(あざな)を大麓(だいろく)、号を曙山といった。幼くして狩野(かのう)派の絵をよくしたが、のちに南蘋(なんぴん)派の写生体も学び、1773年(安永2)平賀源内が秋田にきたとき、家臣小田野直武(なおたけ)らと西洋画法を学んだ。のち、おもに参勤のため江戸に出たとき、直武の導きにより西洋の銅版画や画法書を頼りに洋風画を描き、東洋画の題材に西洋画の視点の加わった作品を残して、秋田蘭画(らんが)の代表者となったが、短命であった。78年日本最初の西洋画論『画法綱領』と『画図理解』を書いた。[成瀬不二雄]

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世界大百科事典内の佐竹曙山の言及

【秋田蘭画】より

…小田野直武が杉田玄白訳《解体新書》(1774)の挿絵を担当したことは,それを象徴している。また,佐竹曙山が日本最初の西洋画論書《画法綱領》《画図理解》(ともに1778)を書いたように,この画派は陰影法や遠近法などの西洋画法を導入して,写実性に劣る日本絵画を改革しようとする意識をもっていた。画派としては長続きせず,作品も和洋折衷の域を出ないが,司馬江漢や長崎派の洋風画家に先立ち,それに影響を与えた画派として注目に値する。…

【佐竹義敦】より

…江戸中期の秋田藩主,洋風画家。号は曙山。分家壱岐守家から父義明とともに佐竹宗家に入り,1758年(宝暦8)11歳で8代藩主となる。前代の銀札発行の失敗などが藩財政を圧迫し,加えて土崎湊・久保田,江戸屋敷,久保田(秋田)城の火災等が財政難に拍車をかけた。一方,農村は無符人高が増大し,さらに83年(天明3)の飢饉が荒廃の度を強めた。【国安 寛】 曙山は秋田蘭画の主要作家の一人であった。はじめ狩野派の絵をよくしたが,1773年(安永2)平賀源内が秋田藩を訪れて西洋画の知識を伝えたときから,家臣の小田野直武とともに洋風画に転向し,東洋画の主題に西洋画法を導入した作品を描いた。…

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