江戸後期の洋風画家。秋田藩領角館(かくのだて)の武士の家に生まれる。幼名長治、通称武助、字(あざな)を子有といい、羽陽、玉泉、麓蛙亭(ろくあてい)、蘭慶堂(らんけいどう)と号した。幼少から画才があり、1773年(安永2)秋田にきた平賀源内から西洋画法を学び、それを藩主佐竹曙山(しょざん)や角館城代佐竹義躬(よしみ)に伝えて、秋田蘭画(らんが)の一派を開いた。同年藩主の命令で江戸に出て、源内のもとで洋風画の研究を進め、74年杉田玄白が『解体新書』を出版するとき、挿絵を描いた。ついで藩主の側近にまで昇進したが、79年暮れ、その怒りに触れて帰国し、翌年わずか32歳の生涯を郷里で閉じた。彼の絵は在来の東洋画に西洋画法を加味したものであるが、綿密な描写と高い気品に特色がある。短い生涯の最晩期に、西洋画法による日本風景図を描き、司馬江漢を指導して、江戸系洋風画の事実上の祖となった。
[成瀬不二雄]
『太田桃介・武塙林太郎・成瀬不二雄著『図録・秋田蘭画』(1974・三一書房)』▽『成瀬不二雄著『江戸の洋風画』(1977・小学館)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
(三輪英夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1749.12.11~80.5.17
江戸中期の洋風画家。号は羽陽・玉泉。秋田藩士。1773年(安永2)平賀源内から西洋画法に関する刺激をうけ,のち江戸に出て活躍。蘭学者とも交流し,74年「解体新書」の挿絵を担当する。秋田蘭画の中心画家として,漢画の技法に陰影法・遠近法をとりいれ,風景画を中心に清新な作品を残す。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…蘭画はオランダ絵,つまり洋風画を意味する。1773年(安永2)に秋田藩を訪れた平賀源内の指導により発足し,同藩主佐竹義敦(曙山),一族の佐竹義躬,同藩士小田野直武,田代忠国らの洋風画家が輩出した。この一派は近世初期のキリシタン系洋風画の衰滅後,最初に組織された洋風画派であるが,主要作家の西洋画法研究と作品の制作は,おもに江戸において同地の蘭学者と密接な関係をもって行われた。…
…本書の出現によって,解剖に基礎をおく西洋医学の実験的実証性の認識がひろまり,さらに本書出版後,蘭書翻訳が活発となり,日本の西洋文化の摂取受容が高まったことをもっても,本書の出現は日本文化史上重要な位置を占める。なお本書の付図は平賀源内に洋風画の手ほどきを受けた秋田藩士小田野直武が洋書の銅版画を面相筆で丹念に写したものを木版画にしている。のち大槻玄沢が本書を改訳増補して《重訂解体新書》(1826)とした際,付図も銅版画(中伊三郎刻)に改められた。…
…古い武家屋敷を残す内町の中央部は,国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され,観光客も多い。秋田蘭画の祖小田野直武や日本画家平福百穂の出身地としても知られる。檜木内川左岸の2kmにわたる桜並木,内町,田町のシダレザクラ(天)が有名。…
※「小田野直武」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新