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小田野直武 おだのなおたけ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

小田野直武
おだのなおたけ

[生]寛延2(1749).12.11. 秋田
[没]安永9(1780).5.17. 秋田
江戸時代中期の秋田蘭画の画家。秋田藩士幼名長治,通称武助。字は子有。号は羽陽,麓蛙亭など。安永2 (1773) 年,秋田藩に招かれた平賀源内洋画技法を習う。同年 12月銅山方産物吟味役として江戸へ赴任。出府後は杉田玄白ら蘭学者とも交流し洋風画を学ぶ。同3年『解体新書』の挿絵を担当,同6年帰国。翌年秋田城へ移り,同年の藩主江戸参勤に随行。同8年突然謹慎の命を受け帰国。その間,佐竹曙山佐竹義躬に洋画技法を教え,秋田蘭画の先覚となる。謹慎中の同9 (80) 年突然吐血して夭折。主要作品『写生帖』,『蓮花図』 (神戸市立博物館) 。

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デジタル大辞泉の解説

おだの‐なおたけ〔をだのなほたけ〕【小田野直武】

[1749~1780]江戸中期の洋風画家。秋田藩士。平賀源内西洋画法を学び、のち江戸で活躍。「解体新書」の挿絵を描いた。

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百科事典マイペディアの解説

小田野直武【おだのなおたけ】

江戸中期の洋風画家。秋田藩城代角館(かくのだて)北家の家臣。1773年平賀源内の来藩以後,江戸に出て洋画を学習,これを藩主佐竹曙山(しょざん)に伝授するなど秋田派先駆者となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

小田野直武 おだの-なおたけ

1750*-1780 江戸時代中期の画家,武士。
寛延2年12月11日生まれ。出羽(でわ)久保田藩(秋田県)藩士。安永2年阿仁(あに)銅山の検分にまねかれた平賀源内に洋画をまなぶ。3年刊の「解体新書」の挿絵をえがく。和洋折衷画風の秋田蘭画をうみだした。安永9年5月17日死去。32歳。幼名は長治。字(あざな)は子有。通称は武助。号は玉泉,羽陽,蘭慶堂。作品に「不忍池(しのばずのいけ)図」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

小田野直武

没年:安永9.5.17(1780.6.19)
生年:寛延2.12.10(1750.1.17)
江戸後期の洋風画家。秋田藩士。角館生まれ。通称武助,字は子有,号に羽陽,玉泉,蘭慶堂など。少時から狩野派を学び,安永2(1773)年秋田藩の要請で阿仁銅山の検分に招かれた平賀源内にその画才を認められ,西洋画法の啓示を受けた。同年,藩主佐竹曙山の命で江戸詰となり源内の下で洋風画を研究,また,これを曙山に伝え,共に秋田蘭画と呼ばれる和洋折衷画体による江戸後期洋風画の端緒を開いた。安永3(1774)年杉田玄白らの『解体新書』の挿絵を描き,7年曙山の西洋画論執筆にも協力した。8年突然謹慎を命じられ帰郷し,角館で没。作品に「不忍池図」(秋田県立美術館蔵)など。

(三輪英夫)

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世界大百科事典 第2版の解説

おだのなおたけ【小田野直武】

1749‐80(寛延2‐安永9)
江戸後期の洋風画家で,秋田蘭画の代表作家。秋田藩士として角館に生まれ,1773年(安永2)に秋田を訪れた平賀源内から西洋画についての知識を与えられた。以後死ぬまでの7年間,藩命によりほとんど江戸の地にあって,オランダの図書や銅版画を参考に,西洋画法の研究に励み,杉田玄白訳の《解体新書》(1774)の挿絵を描いた。彼の洋風画には銅版画も油絵もないが,司馬江漢の洋風画に大きな影響を与えた。【成瀬 不二雄】

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大辞林 第三版の解説

おだのなおたけ【小田野直武】

1749~1780) 江戸中期の洋画家。秋田藩角館かくのだての藩士。平賀源内に洋画技法を学び、遠近法・陰影法を取り入れた写実的な洋画を描き、秋田蘭画を生んだ。また、「解体新書」の挿絵を担当。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

小田野直武
おだのなおたけ
(1749―1780)

江戸後期の洋風画家。秋田藩領角館(かくのだて)の武士の家に生まれる。幼名長治、通称武助、字(あざな)を子有といい、羽陽、玉泉、麓蛙亭(ろくあてい)、蘭慶堂(らんけいどう)と号した。幼少から画才があり、1773年(安永2)秋田にきた平賀源内から西洋画法を学び、それを藩主佐竹曙山(しょざん)や角館城代佐竹義躬(よしみ)に伝えて、秋田蘭画(らんが)の一派を開いた。同年藩主の命令で江戸に出て、源内のもとで洋風画の研究を進め、74年杉田玄白が『解体新書』を出版するとき、挿絵を描いた。ついで藩主の側近にまで昇進したが、79年暮れ、その怒りに触れて帰国し、翌年わずか32歳の生涯を郷里で閉じた。彼の絵は在来の東洋画に西洋画法を加味したものであるが、綿密な描写と高い気品に特色がある。短い生涯の最晩期に、西洋画法による日本風景図を描き、司馬江漢を指導して、江戸系洋風画の事実上の祖となった。[成瀬不二雄]
『太田桃介・武塙林太郎・成瀬不二雄著『図録・秋田蘭画』(1974・三一書房) ▽成瀬不二雄著『江戸の洋風画』(1977・小学館)』

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367日誕生日大事典の解説

小田野直武 (おだのなおたけ)

生年月日:1749年12月10日
江戸時代中期の洋風画家
1780年没

出典|日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について | 情報

世界大百科事典内の小田野直武の言及

【秋田蘭画】より

…蘭画はオランダ絵,つまり洋風画を意味する。1773年(安永2)に秋田藩を訪れた平賀源内の指導により発足し,同藩主佐竹義敦(曙山),一族の佐竹義躬,同藩士小田野直武,田代忠国らの洋風画家が輩出した。この一派は近世初期のキリシタン系洋風画の衰滅後,最初に組織された洋風画派であるが,主要作家の西洋画法研究と作品の制作は,おもに江戸において同地の蘭学者と密接な関係をもって行われた。…

【解体新書】より

…本書の出現によって,解剖に基礎をおく西洋医学の実験的実証性の認識がひろまり,さらに本書出版後,蘭書翻訳が活発となり,日本の西洋文化の摂取受容が高まったことをもっても,本書の出現は日本文化史上重要な位置を占める。なお本書の付図は平賀源内に洋風画の手ほどきを受けた秋田藩士小田野直武が洋書の銅版画を面相筆で丹念に写したものを木版画にしている。のち大槻玄沢が本書を改訳増補して《重訂解体新書》(1826)とした際,付図も銅版画(中伊三郎刻)に改められた。…

【角館[町]】より

…古い武家屋敷を残す内町の中央部は,国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され,観光客も多い。秋田蘭画の祖小田野直武や日本画家平福百穂の出身地としても知られる。檜木内川左岸の2kmにわたる桜並木,内町,田町のシダレザクラ(天)が有名。…

※「小田野直武」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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