佐藤忠信(読み)さとうただのぶ

精選版 日本国語大辞典 「佐藤忠信」の意味・読み・例文・類語

さとう‐ただのぶ【佐藤忠信】

平安末期の武将源義経四天王の一人。継信の弟。陸奥の人。義経平泉藤原秀衡のもとにあった頃から仕え、平氏討伐に戦功を立てた。のち義経に従って吉野山にかくれ、山僧の襲撃をうけたとき義経の身代わりとして戦い、翌年京都に潜伏中、糟屋有季に襲われ自殺。浄瑠璃歌舞伎などの題材にとりあげられている。応保元~文治二年(一一六一‐八六

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デジタル大辞泉 「佐藤忠信」の意味・読み・例文・類語

さとう‐ただのぶ【佐藤忠信】

[1161~1186]平安末期の武士源義経の四天王の一人。継信の弟。義経が吉野山で山僧に攻められたとき、身代わりとなって奮戦。翌年、京都で敵に囲まれて自刃

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改訂新版 世界大百科事典 「佐藤忠信」の意味・わかりやすい解説

佐藤忠信 (さとうただのぶ)
生没年:1161-86(応保1-文治2)

鎌倉時代初めの武士。陸奥国の信夫荘(現,福島市)司佐藤元治の子。継信(つぎのぶ)の弟。源義経の郎等となり,兄の継信とともに西日本各地を転戦し,1185年(文治1)には兵衛尉に任命された。同年源義経とともに吉野に逃れたが,山僧横川(よかわ)覚範来襲のさいには義経の身代りとなり,ひとりのこって奮戦し,主人の危機を救った。その後は京都に潜伏していたが,86年9月糟屋有季に襲われ自殺した。
執筆者:

平治物語》(九条家本)によれば佐藤兄弟の母の尼公は,二人を義経に託す際,忠信を〈実法の者〉と評したという。その忠信が《義経記》等の説話の上で活躍するのはむしろ義経失脚後においてである。《平家物語》は義経の都落ち後の記事を欠くか,あるいは略述する程度である。ただ,八坂系の最後出本である八坂本では,〈吉野軍〉の章を設け,《義経記》ほど詳しくないが忠信が洛中で討死するまでの記事を有する。忠信説話は〈八島語り〉で知られた継信説話に比肩しうる,また主君の身代りとなる共通の筋を有する忠義譚として成長したものらしい。のち能《吉野静》《忠信》が作られ,近世に入り《義経千本桜》の複雑な趣向を生んだ。忠信説話の成長にかかわる担い手として,三つの語り手が推定されている。すなわち《一言芳談(いちごんほうだん)》(鎌倉末~南北朝ころ)により〈合戦物語〉が唱導説法に利用されたことが知られるが,その面から,鎌倉の勝長寿院の僧侶と洛東の禅林寺周辺にいた法然に連なる専修念仏の徒輩が考えられ,また,特に東北地方では兄弟の母の尼公や末裔を名のる人々によって佐藤一族の哀史が語られていったらしい。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐藤忠信」の意味・わかりやすい解説

佐藤忠信
さとうただのぶ
(1161―1186)

鎌倉初期の武将。陸奥(むつ)国信夫庄司元治(しのぶのしょうじもとはる)の子で継信(つぐのぶ)の弟。源義経(よしつね)が奥州藤原秀衡(ひでひら)の下で保育を受けていた当初から義経に仕え、のち兄継信とともに平家追討の戦いで数々の軍功をあげ、功により兵衛尉(ひょうえのじょう)に任じられた。兄継信、鎌田盛政(もりまさ)・光政(みつまさ)とともに義経四天王の一人として名高い。1185年(文治1)義経が兄頼朝(よりとも)の勘気を受けて、刺客土佐房昌俊(とさぼうしょうしゅん)によってその京都堀川第(ほりかわだい)を襲われたときには、極力防戦、やがて義経に従って吉野山に潜伏、危機に際しては、自ら義経の名を名のって奮戦した。のち京都に潜入したが、86年9月、四条室町第(しじょうむろまちだい)にあるところを糟屋有季(かすやありすえ)に探知され、その襲撃を受けて自刃した。

[鈴木国弘]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐藤忠信」の解説

佐藤忠信 さとう-ただのぶ

1161-1186 平安後期-鎌倉時代の武士。
応保元年生まれ。佐藤元治(もとはる)の子。佐藤継信(つぐのぶ)の弟。陸奥(むつ)信夫(しのぶ)郡(福島県)の人。藤原秀衡(ひでひら)の郎党であったが,兄継信とともに源義経(よしつね)の家臣となる。一ノ谷,屋島,壇ノ浦などでたたかい,義経四天王のひとりといわれた。文治(ぶんじ)2年9月20日,京都で糟屋有季(かすや-ありすえ)におそわれ自害。26歳。通称は四郎兵衛尉(ひょうえのじょう)。

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朝日日本歴史人物事典 「佐藤忠信」の解説

佐藤忠信

没年:文治2.9.20(1186.11.2)
生年:生年不詳
平安時代末期の武士。源義経の従者。元は藤原秀衡の郎従。父は陸奥国信夫郡の豪族である信夫庄司の元治。継信は兄。四郎兵衛尉。治承4(1180)年藤原秀衡の命により,兄継信と共に義経に従い,源頼朝の陣営に参じる。以後義経と共に西国各地を転戦して功をあげた。義経と頼朝が不和となり,義経は平泉へ逃亡をはかったが,このとき忠信は主人の身代わりとなり,京都の中御門東洞院に潜んでいるところを糟屋有季に襲われて自害した。

(伊藤喜良)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐藤忠信」の意味・わかりやすい解説

佐藤忠信
さとうただのぶ

[生]応保1(1161).陸奥
[没]文治2(1186).9.20. 京都
鎌倉時代初期の武士。陸奥湯の荘司元治の子。継信の弟。藤原秀衡の命で,兄とともに源義経の従者となり,終始義経を守護した。文治1 (1185) 年平家討伐に功のあった義経が,兄頼朝と不和になり没落したのち,京都で襲殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の佐藤忠信の言及

【碁盤忠信】より

…人形浄瑠璃,歌舞伎狂言,あるいは佐藤忠信が碁盤を持って立回りを演じる場面の通称。《義経記》に義経の吉野落ちのおり忠信が奮戦したことが描かれるが,やがて忠信が碁盤をもって戦ったという伝説が生まれ,横河覚範との立回りを中心とした荒事芸として劇に採り入れられる。…

【忠信】より

…日本の芸能,音楽の作品名,またその通称。義経の家来の佐藤忠信を中心に作られている。(1)能 四番目物。…

【義経千本桜】より

…討手が静を襲う。佐藤忠信が現れて静を助け,その功によって源九郎義経の名と鎧を与えられる。(中=渡海屋)平知盛は西海で入水したと見せかけ,安徳帝と典侍の局(すけのつぼね)を伴い,銀平と改名,大物の浦で船商売を営んでいる。…

※「佐藤忠信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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