鎌倉時代初めの武士。陸奥国の信夫荘(現,福島市)司佐藤元治の子。継信(つぎのぶ)の弟。源義経の郎等となり,兄の継信とともに西日本各地を転戦し,1185年(文治1)には兵衛尉に任命された。同年源義経とともに吉野に逃れたが,山僧横川(よかわ)覚範の来襲のさいには義経の身代りとなり,ひとりのこって奮戦し,主人の危機を救った。その後は京都に潜伏していたが,86年9月糟屋有季に襲われ自殺した。
執筆者:大石 直正
《平治物語》(九条家本)によれば佐藤兄弟の母の尼公は,二人を義経に託す際,忠信を〈実法の者〉と評したという。その忠信が《義経記》等の説話の上で活躍するのはむしろ義経失脚後においてである。《平家物語》は義経の都落ち後の記事を欠くか,あるいは略述する程度である。ただ,八坂系の最後出本である八坂本では,〈吉野軍〉の章を設け,《義経記》ほど詳しくないが忠信が洛中で討死するまでの記事を有する。忠信説話は〈八島語り〉で知られた継信説話に比肩しうる,また主君の身代りとなる共通の筋を有する忠義譚として成長したものらしい。のち能《吉野静》《忠信》が作られ,近世に入り《義経千本桜》の複雑な趣向を生んだ。忠信説話の成長にかかわる担い手として,三つの語り手が推定されている。すなわち《一言芳談(いちごんほうだん)》(鎌倉末~南北朝ころ)により〈合戦物語〉が唱導説法に利用されたことが知られるが,その面から,鎌倉の勝長寿院の僧侶と洛東の禅林寺周辺にいた法然に連なる専修念仏の徒輩が考えられ,また,特に東北地方では兄弟の母の尼公や末裔を名のる人々によって佐藤一族の哀史が語られていったらしい。
執筆者:西脇 哲夫
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鎌倉初期の武将。陸奥(むつ)国信夫庄司元治(しのぶのしょうじもとはる)の子で継信(つぐのぶ)の弟。源義経(よしつね)が奥州藤原秀衡(ひでひら)の下で保育を受けていた当初から義経に仕え、のち兄継信とともに平家追討の戦いで数々の軍功をあげ、功により兵衛尉(ひょうえのじょう)に任じられた。兄継信、鎌田盛政(もりまさ)・光政(みつまさ)とともに義経四天王の一人として名高い。1185年(文治1)義経が兄頼朝(よりとも)の勘気を受けて、刺客土佐房昌俊(とさぼうしょうしゅん)によってその京都堀川第(ほりかわだい)を襲われたときには、極力防戦、やがて義経に従って吉野山に潜伏、危機に際しては、自ら義経の名を名のって奮戦した。のち京都に潜入したが、86年9月、四条室町第(しじょうむろまちだい)にあるところを糟屋有季(かすやありすえ)に探知され、その襲撃を受けて自刃した。
[鈴木国弘]
(伊藤喜良)
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…人形浄瑠璃,歌舞伎狂言,あるいは佐藤忠信が碁盤を持って立回りを演じる場面の通称。《義経記》に義経の吉野落ちのおり忠信が奮戦したことが描かれるが,やがて忠信が碁盤をもって戦ったという伝説が生まれ,横河覚範との立回りを中心とした荒事芸として劇に採り入れられる。…
…討手が静を襲う。佐藤忠信が現れて静を助け,その功によって源九郎義経の名と鎧を与えられる。(中=渡海屋)平知盛は西海で入水したと見せかけ,安徳帝と典侍の局(すけのつぼね)を伴い,銀平と改名,大物の浦で船商売を営んでいる。…
※「佐藤忠信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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