改訂新版 世界大百科事典 「健康権」の意味・わかりやすい解説
健康権 (けんこうけん)
社会一般には,個々人に,生命・健康をまもる権利が与えられていると信じられており,また第2次大戦後において比較的早くから公衆衛生関係者の間では,〈健康権〉ということばがよく用いられてきた。しかし,これまで法律学者や行政実務家の間では,〈健康権〉という概念はかならずしも認められてこなかった。それは,憲法に〈すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする〉(13条),あるいは,〈すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する〉(25条1項)と規定され,健康に生きる権利がうたわれているのにもかかわらず,これらの規定は法律上効力をもたない〈プログラム規定〉にすぎず,〈健康権〉という人権が憲法上保障されているとはいいえないという考え方が支配してきたからである。
だが1970年代に入ってから,〈健康権〉を人権の一環として認めよという声が,法律関係者の間でもしだいに強くなってきている。それは一つには国際的なインパクトによる。第2次大戦後,国際連合憲章,世界人権宣言,WHO(世界保健機関)憲章,国際人権規約など人権保障をうたった文書が多く発せられており,これらの思潮には,人権の一環として〈健康権right to health〉を位置づけようとする考え方が強い。たとえば,国際人権規約の〈経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約〉(A規約)には,〈この規約の締約国は,すべての者が到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を享受する権利を有することを認める〉(12条1項)とうたわれている。このような国際的動向を反映して,法律学界でも,〈健康権〉を憲法で保障した人権の一環として認めるべきであるという見解があらわれ,また,判例などでも,正面から〈健康権〉として認めなくとも,その内容を人格権に含めて認めようとする傾向を生むにいたっている。
では〈健康権〉によって,いかなる内容の利益を人々は受けることができるようになるのであろうか。一般には次の二つの点が強調されている。第1に各個人は,国家に対して各人の健康が侵されないように要求することができるようになる(自由権的保障)。たとえば,国の承認した医療・医薬による被害,人体実験,ロボトミーなどによる身体的・精神的被害を受けないように国に要求することができることになる。この場合,生命・身体に対する被害防止を要求する権利を,生命権,身体権と称してもよい。次に,国に積極的な健康の維持・増進,疾病の予防・治療その他の健康回復措置,医療保障の充実などの施策(社会権的保障)を要求することができるようになる。もっとも後者の場合には,立法措置を経なければならないことが多いが,予防行政といった行政運用上の問題としても取り上げられうる。
執筆者:下山 瑛二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報