兇徒聚衆罪(読み)きょうとしゅうしゅうざい

改訂新版 世界大百科事典 「兇徒聚衆罪」の意味・わかりやすい解説

兇徒聚衆罪 (きょうとしゅうしゅうざい)

1882年1月施行の旧刑法に規定された罪名で,ボアソナード草案にはなかったが,激化した社会運動の鎮圧を目的として制定された。兇徒が多衆を嘯集(しようしゆう)し,暴動をはかり官吏説諭しても解散しない場合,あるいは官庁におしかけ官吏に迫ったり村市を騒擾(そうじよう)し,ないし暴動をなした場合を処罰対象とした。首謀者および教唆者は,前者の場合3月~3年の重禁錮に,後者の場合重懲役に処せられた。また附和随行者は罰金ないし軽懲役に,さらに暴動の際殺人・放火をなした者は死刑に処せられた。本罪適用のおもなものには,1884年の群馬事件秩父事件,90年の佐渡相川暴動(米騒動),1900年の足尾鉱毒被害民集団請願弾圧の川俣事件(足尾鉱毒兇徒聚衆事件ともいう),05年の日露講和条約反対の日比谷焼打事件,06年の東京市電値上反対事件,日露戦争後労働運動の頂点をなす07年の足尾鉱山暴動などがある。これらはすべて明治期の代表的な社会運動で,政治的無権利状態におかれた民衆が耐忍の緒を切って立ちあがり巨大なエネルギーを発揮したものが多い。ゆえにその鎮圧にはしばしば軍隊出動を伴った。本罪は1870年新律綱領の賊盗律中の〈兇徒聚衆〉,73年改定律例の賊盗律中の〈兇徒聚衆条例〉を継承したもので,その源は大宝律令近世徒党・強訴禁令にあり,百姓一揆の類を〈兇徒聚衆〉と名づけたといわれる。1908年施行の現行刑法には騒乱罪として継承された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「兇徒聚衆罪」の意味・わかりやすい解説

兇徒聚衆罪
きょうとしゅうしゅうざい

1882年(明治15)1月1日施行の旧刑法において、多人数の集団的暴動を称した罪名。自由民権運動弾圧のために制定された。多人数を集合せしめて暴動し、官吏を強迫し、また官吏の説諭に服せず、人を殺害し、家屋などを破壊・焼失した罪をいう。首魁(しゅかい)、教唆(きょうさ)者、付和随行者に分けて処分することを決めている。明治初年に来日したフランスの法学者ボアソナードの日本刑法草案にはなかったが、元老院の刑法草案審査局の要求によって挿入された。新律綱領、改定律例の兇徒聚衆の規定を継承したものといわれる。足尾鉱毒問題における兇徒聚衆事件や日比谷焼打事件その他社会運動の鎮圧に適用された。1907年(明治40)制定の刑法で騒擾(そうじょう)罪に、1995年(平成7)の刑法改正で騒乱罪に変わった。

山本四郎

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