光明寺跡(読み)こうみようじあと

日本歴史地名大系 「光明寺跡」の解説

光明寺跡
こうみようじあと

[現在地名]指宿市十町 南迫田

指宿市役所の西南西約六〇〇メートル、通称テラン山という小高い丘にあった曹洞宗寺院。正平山と号した。明治初年廃寺となったが、現在跡地の東麓にその法灯を継いだ同宗光明禅こうみようぜん寺がある。指宿市域最古の由緒ある寺院として知られるが、開基については諸説がある。安政六年(一八五九)に指宿地頭新納久仰が建立した方柱碑について記した指宿東方村唐山記(指宿市誌)に、和銅年間(七〇八―七一五)に僧定慧が開いたとあり、光明禅寺に現存する天文一二年(一五四三)銘をもつ方柱板碑には「和銅七年六月 光明開基 法相宗」とある。


光明寺跡
こうみようじあと

[現在地名]物部村仙頭

仙頭の鍛冶屋敷せんどうのかじやしきにあった寺で、本尊釈迦如来。臨済宗で聚林山光明寺と号した。五台山吸江ぎゆうこう(現高知市)末寺であったが、明治の初め廃寺となり、寺地は耕地化した。

開基や来歴は不明だが、「山風土記」には「小松新三位中将(ママ)盛十一代正統岡内小松中務二男専当入道沙弥善住当邑ニ転住、以来世専当家菩提所也」とあり、専当氏の菩提所であった。


光明寺跡
こうみようじあと

[現在地名]都城市南鷹尾町

大淀川たけした橋西側の台地、都城跡取添とりぞえの曲輪よりも西側にあった。時宗浄光明じようこうみよう(現鹿児島市)末寺で常照山摂取院と号し、本尊は阿弥陀如来開山は他阿託阿。貞和二年(一三四六)畠山治部大輔の創建梅北の益貫うめきたのますのきにあったが、北郷時久が天正三年(一五七五)当地に移転させた。山号は初め大林山、のち松林山と称していたが、遊行上人四九世一法が廻国の時に常照山と改めた(三国名勝図会)


光明寺跡
こうみようじあと

[現在地名]鹿児島市坂元町

水口みずくちに所在した真言宗寺院で、大乗だいじよう院末。本尊は聖観音琉球りゆうきゆう寺と通称される。開山は快旭。初め岩崎いわさき口にあったが、のち応仁年間(一四六七―六九)に島津立久が再興したと本尊に記してあったという。慶長年間(一五九六―一六一五)島津家久が当地に移したとされる。


光明寺跡
こうみようじあと

[現在地名]泗水町住吉

北小路きたこうじにある。戦国末期合志氏の土地寄進を伝える寺社方家中侍中名附写(厳照寺文書)に「一田五町四反 一畑四町七反 住吉村光明寺」とみえる。「国誌」には「山号ヲ失ス里俗ノ説ニ聖光上人ノ開基ト云(中略)文明ノ比迄ハ住吉十三ケ寺ノ中ニ就テ七ケ寺ト称ス所謂天応寺龍泉寺能満寺英勝寺聖寿寺報光寺光明寺也此寺其最第一タリ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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